メガネへの執着
芦原瑞祥
メガネ
『メガネがないと、めがねぇ』
昭和のオヤジみたいなことを言うそいつに、僕は冷ややかな眼差しを送った。
「あなた、いくつですか。若く見えるけど、死んだのかなり前とか?」
俺にまとわりつく男の幽霊は、『いやいや、死んだのは令和になってからですよ』などと普通の調子で会話を続けようとする。あなたは幽霊で、僕は僧侶なんですけど? 成仏してくれませんかね?
「そんなダジャレ言うために化けて出たわけじゃないでしょう。本題に入ってください」
いわゆる霊感のある僕のところには、時々こういう幽霊がやってくる。大抵は、行くべきところへ行き損ねたから何とかして欲しい、気にかかることがあって成仏できない、などと訴えられる。僕は僧侶だから、お迎えに来ていただいて極楽へ送るか、どうしようもない奴は地獄へ落として反省してもらうか(刑期が終わると別のところへ転生できる)しかできないけれど。
『だから、メガネですよ』
見たところ二十代なかばで、仕立てのいいグレーのスーツを着た幽霊が言う。
『メガネがなくて困っているんです。こう、メガネを供えるとか何とかして、俺がかけられるようにしてくれませんか』
「死後も身体の不調が受け継がれるわけではないので、本来なら視力に問題はないはずですが」
それはそうなんですけど、とリーマン幽霊氏は続ける。
『ずっと好きだった女性がね、メガネ男子属性なんですよ。スーツにメガネこそ至高! っていつも言ってて。だから俺も、背伸びしていいスーツを買って、ミッチーがドラマでかけていたのと同じ、シュッとしたメガネを作ったんです。自分で言うのもなんですが結構さまになっていて、ワンランク上の自分になれた気がしました。これならあの人も振り向いてくれるかも、って思った矢先に事故で……』
スーツの方は、いいものだったから家族が納棺の時に着せてくれたのだが、メガネは入れてもらえなかったという。
『ずっとコンタクトだったから、顔に馴染んでなかったのかな。俺のメガネ、せめて仏壇に供えてくれれば』
リーマン幽霊氏は、好きだったという女性よりも、メガネの方に執着している。この歪んだ未練のせいで、この人はあがれないのだな、と僕は思った。
「では、メガネをお供えすればよろしいのですね」
といってもリーマン幽霊氏はうちの寺の檀家さんじゃない。ご遺族と面識もないし、百均で老眼鏡でも買ってこようか。
『今、百均で買ってこようって思ったでしょう? ダサいメガネじゃ駄目なんです、こうシュッとしたやつでないと』
「じゃあ、ファンシーグッズ店の伊達眼鏡でいいですか?」
『もっとちゃんとしたやつでないと』
「だいたい、メガネを手に入れたところで、意中の人に見てもらうことはできないでしょう? それを執着というのです。執着を離れないうちはすべてが苦しみとなります。では執着を離れるにはどうすればいいかというと……」
『いや説教はいいから』
今のは本当の意味で説経だったのだが、と僧侶の僕は思う。法を説くのが我々僧侶の役割なのに。
リーマン幽霊氏の説得を試みたものの、彼のメガネに対する執着は一向に抜けなかった。説得に疲れた僕は、お布施と思って生前にかけていたのと同じメガネのフレームを買い、リーマン幽霊氏の供養をした。
リーマン幽霊氏は、メガネリーマン幽霊となったが、まだあがれないらしい。朝夕経を唱え、お香をあげお供えもしているのに、何がそこまで彼を引き止めるのだろう。メガネ以外にさほど執着を見せていないことも気になる。
「その女性に会いに行ってみますか」
いつまでも付きまとわれては生活に支障が出る。僕はリーマン幽霊氏に提案した。
さほど乗り気でなかったリーマン幽霊氏は、メガネに憑依した。それを僕がかけて、くだんの女性の勤務先があるビジネス街へ向かう。ビルで四角く区切られた空が、夕暮れから夜の色に変わる。駅の改札に人待ち顔で立つこと一時間、メガネからリーマン幽霊氏が抜け出した。
『あのひと……』
髪をアップにしてとがったメガネをかけた女性が、ヒールの音を響かせながら歩いてきた。なるほどリーマン幽霊氏の好みはこういうのか、と呑気に思っていたら、どす黒い瘴気が満ちた。
いけない、と思ったときにはもう、黒い靄と化した幽霊氏が女性に襲いかかっていた。女性の顔が恐怖に歪む。その目は、普通の人には見えないはずの幽霊氏をとらえている。僕は咄嗟に、メガネを外して踏みつけた。
幽霊氏の動きが止まる。
僕はメガネを拾い、通路にへたりこんでいる女性に声をかけた。
「彼のために供養をしてください」
どうやら幽霊氏は、階段であの女性に突き飛ばされて死んだらしい。故意か過失かは分からないが、恐らく過失だろう。
けれどもあの女性は、幽霊氏が階段で足をすべらせたとして救急車を呼んだ。まだ息のあった幽霊氏は、女性をかばったのか、やましいところがあったのか、自分で足を踏み外したと言った。
踏みつけたメガネのフレームをできる限り直してもらうと、また幽霊氏が出てきた。今度はメガネをかけていなかった。
『最後の記憶がね、メガネだったんですよ。階段から落ちた僕に、彼女が慌てて駆け寄って救急車を呼んでくれたんですけど、――メガネをね、踏んでいたんですよ。僕のメガネを』
そうか、好きな女性に自分の持ち物を足蹴にされたことがショックで、メガネが強く心に焼き付いたのだな。僕がしんみりしていると、幽霊氏が言った。
『いや、僕も踏まれたいなぁ、って』
おまえ、さっさと成仏しろ。
メガネへの執着 芦原瑞祥 @zuishou
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