瓶底メガネのネクロフィリア

涼月

Case No. 1

 令和六年三月二十五日 午前十時三十五分


 品川区の高層マンションの一室で、化粧品会社社長、高畑籐子たかはたとうこ(四十一歳)が何者かに殺害されていた。

 第一発見者はお抱え運転手。いつまでも降りて来ない被害者を迎えに行き発見、通報。

 玄関の扉は壊されていて遺体は滅多刺し。辺り一面血の海と化していた。



 新人刑事、尾上匠海おのうえたくみは、むせ返る血の匂いに顔を歪めた。必死の思いで胃の中の物を抑え込む。


 覚悟はしていたけれど、これは酷いな。


 相棒兼教育係の芦田裕太あしだゆうた刑事は慣れた様子で遺体に近づき、黙祷してから状況を確認し始めた。

 匠海は堪らずハンカチを口に当てる。


「吐くなら外でやれよ。現場を維持しないといけないからな」

「だ、大丈夫です」


 くぐもった声で弱々しく答えるも、傷口を覗き込むまでには至らず。オロオロと視線を彷徨わせていたが、ふと被害者高畑籐子の表情に違和感を覚えた。


 こんなに凄惨な目にあっているのに、表情が穏やかだな。きっと即死に違いない。痛みをあまり感じずに済んだなら、せめてもの救いだよな。


 そんなことを思っていると、芦田が匠海ごとその場から離れて新たな人物に道を譲った。


「瓶底メガネのお出ましだ」

「え、び!?」


 入れ替わりに遺体に近づいたのは鑑識の制服に身を包んだ小柄な女性。髪を無造作に束ね、化粧っ気の無い顔に鎮座する分厚いレンズをはめ込んだ黒縁メガネのせいで、目が妙に小さく見えた。


 黙祷後、彼女は躊躇なく遺体の上に覆いかぶさった。メガネと鼻を押し付けんばかりに近づけて睨め回す。その口角が上向くさまは場違いなのに艶めかしくて、匠海は目が離せなくなってしまう。


「美しいですね」


 恍惚とした笑みを湛えてこちらを振り返った。


 え!? この滅多刺し遺体が美しいだって!?


 せっかく抑えていたえずきが復活してきて匠海は青くなった。


「どういうことだ?」

 芦田刑事は余裕ある態度で真意を尋ねた。


「滅多刺しで誤魔化そうとしたみたいですけど、切り口がね」


 そう言って、瓶底メガネは害者の首横を指差す。


 頸動脈の切断······やっぱりな。


 出血量が尋常で無いので、匠海も同じ事を考えていた。


「とても美しいんですよ。これは強盗や出来心で犯した殺人じゃ無いですね。用意周到な計画殺人。致命傷は、この傷。ね、切り口が綺麗でしょ。おそらくメスでひとなで。鮮やかなものだわ」


「ということは、医者か!?」

「そこまではわからないけど、医術の心得はあるはず。メスの扱いに長けた、ね」


「なるほど。滅多刺しは偽装工作。そうなると犯人は顔見知りの可能性が高くなるな」


 芦田刑事が頷く。


「そうね。相当近しい人よ」


 そう言いながら、瓶底メガネは再び高畑籐子の顔に己の顔を寄せる。


 すっげぇ近眼。


 驚きつつも、匠海はふと、さっき感じた違和感を伝えてみようと思い立つ。


「あの······被害者の高畑さんが穏やかな顔をしているのは何故でしょうか?」


 瓶底メガネがくるりんとこちらに向いた。


「君、新人?」

「はい。昨日付けで一課に配属になりました、尾上匠海です」

「いい目をしてるのね」

「いえ、その、この惨状と結びつかなくて」


「それは······」

「それは?」


 瓶底メガネが再びにこりと微笑んだ。


「最高のエクスタシーを感じていたからよ」

「は?」

「あら? エクスタシーの意味、知らないの?」

「し、知っていますよ。それくらい」

「ふーん、かわいい顔してけっこうお盛んなんだ」


 何だこの人!?


 ドウドウという感じに芦田刑事が匠海の肩を叩き慰めてくれる。


「耐えろ、尾上」

「くっ······」


「だって、ほら」

 いつの間にか取り出したピンセットで、彼女は高畑の唇から小さな皮膚片を取り除くと、大事そうに保管バッグに収納した。


「濃厚なキス中にサクッとやられちゃったのよ。だから、彼女はきっと幸せなまま逝ったわ。まあ、犯人にも少しは愛情が残っていたんじゃない。顔は傷つけて無いから。それが命取りになるってわかっていたはずなのに」


「皮膚片が採取できたということは」

 芦田刑事が畳み掛ける。


「多分DNA鑑定に持ち込めると思う。唾液も採取できそうかな」

 

 他の鑑識担当者が遺体を収納する袋を持ってやってきた。瓶底メガネが死者の耳元へ優しく囁く。


「後でもっと聞かせてね。貴方の最期の声を」


 その光景に、匠海はぶるりと肌を振るわせた。


 一体何者なんだ?


 匠海の気持ちを読み取ったかのように、芦田刑事が耳打ちしてきた。


「お前もあの人に解剖されねえように、せいぜい気をつけろよ」

「誰なんですか? あの人は」

紫城薫しじょうかおる。陶都大学法医学研究室のネクロフィリアだよ」

「え、ネクロ?」

「死体愛好者。死体と聞けばこうやって現場に飛んで来るのさ。呼ばれもしないのに」


 死体······愛好者だって!?


 取り巻く空気が数度、下がったような気がした。



 紫城の見立て通り、犯人は高畑と不倫関係にあった外科医だった。思わせぶりな態度で高畑にさんざん貢がせたにも関わらず、証拠を残さぬ用心深さに検挙が危ぶまれたが、芦田刑事の機転で採取できたDNA鑑定の結果を突き付けて自白を引き出すことに成功したのだった。


 お陰で、匠海の歓迎会は二か月もズレ込んだが、犯人無事逮捕という華々しいデビューを飾れたことは、相棒として鼻が高かった。



 久しぶりにほろ酔い気分で二階建てのボロアパートに帰還した。と言っても、赴任してからほとんど現場か職場で寝泊まりしていたので、段ボールだらけだ。


 今日は布団で寝られるぞ!


 鉄製の外階段を登ろうとして、まあるい物体にぶつかりそうになって声をあげた。


「うわっ!」

「ご、ごめんなさい」


 まあるい物体からニョキッと頭が生える。


「えっと、何しているんですか?」

「メガネ落としちゃって」


 階段脇の蛍光灯がチカチカと瞬き、這いつくばってメガネを探す女性の姿を浮き彫りにした。

 サラサラの黒髪で顔半分隠れているけれど美人だな、とつい下心が顔をもたげてくる。


「メガネじゃ探すの大変ですよね。一緒に探しますよ」

「ありがとうございます!」


 今度は二人で這いつくばる。一段一段、ゆっくりと。

 カツンと靴先にぶつかる感触を得て、慎重にそれを拾い上げた。


「あった!」

「良かった~」


 拾ったメガネを差し出しつつも、何故かそのメガネに既視感を覚える匠海。


 あれ!? このメガネ······


 差し出す手よりも先に、女性の顔が物凄い勢いで匠海に迫ってきた。ふわりと薫るシャンプーの匂い。

 気づけば直ぐ鼻の先。暗闇でも透ける淡いグレーの瞳に魅入られたように見つめ返す匠海。


「やっぱり! 新人君だわ」

「······ネクロフィリア」

「同じアパートなのね。あー、でも、私ずーっと帰って無かったから気づかなかった」


 匠海から顔を離してメガネを装着した紫城薫は、ぷうっと頬を膨らませた。その様子があまりにも子どもっぽくて、思わず吹き出した。

 美しいグレーの瞳が隠れてしまった事はちょっと残念だったが。


「何よ。失礼ね。私はネクロフィリアなんかじゃ無いわ。性癖は至って真っ当。ノーマルよ」

「そんな大声で言わなくても」


 宣誓は誰に聞かれることもなく、夜の空気に溶けていく。


「······寝る」 

「え!?」

「今、いやらしいこと考えたわね」

「か、考えて無い!」

「嘘。前頭筋と眼輪筋の微細な振動を感知したから言い逃れはできないわよ」


 くそぅ~、紛らわしい言い方するなよな。

 この女、やっぱり変態だ!


「でも、貴方いい目を持ってるから、いい刑事になれるわ」


 パンパンと服の汚れを叩きながら立ち上がると、さっさと階段を登り始めた。


「いい目って?」


 思わず尋ね返した匠海に、瓶底メガネが振り返る。


「死者の気持ちに寄り添う眼差し」


 その言葉が、ポッと匠海の心に火を灯す。


 いい刑事になりたい!

 それは子どもの頃からの憧れだったから。


 ようやくここまで来れたんだ。後は一つ一つの事件に向き合うだけだな。


 決意も新たに立ち上がった匠海を、瓶底メガネが見上げてきた。口角がキュッと上がり嬉しそうに微笑む。


「後ね、いい骨格してる」


 ぞわぁ〜っと、匠海の肌が波打った。



            fin.


 


 

 


 


 


 


 

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瓶底メガネのネクロフィリア 涼月 @piyotama

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