見えない
λμ
見えない
ヒトミは物心ついたときにはめがねをかけていた。自己愛という色眼鏡を通してみてもオシャレといったら盛りすぎになるような、分厚く野暮ったいめがねだ。
「ヒトミはめがねがないと何も見えないんだから、絶対に外さないようにね」
母には何度もそうキツく言い渡されていて、ヒトミはそういうものなのかと納得もしていた。だから、恋人というのは空想の生き物だと思うことにして、少々の友達がいれば充分なのだと自らに言い聞かせてきた。
けれど、ヒトミにだって春は来た。
「俺と付き合ってください!」
と衆人環視を代表するような教室の中心で告白され、ヒトミは人目を気にして頷いた。でも顔は真っ赤になって、めがねだって曇った。
嬉しかった。それ以外に、その感情をどうみればいいというのか。
それからだいたい二ヶ月後――奥手なヒトミに気を使ったのだろう、話に聞くよりは少しばかり遅いタイミングで、その日は来た。
ヒトミは緊張と胸の高鳴りと、胸の内に渦巻くとうとうこんなことにという言葉に押し流されて、彼を見つめた。めがねは薄っすらと曇っていた。
だから、当然、ヒトミはめがねに手をかけた。
そのときだった。
彼の手が、めがねのつるを支えるヒトミの指に触れた。
「外しちゃダメ……」
?????
ヒトミは混乱した。いつシャワーを浴びたのか、いつでてきたのか、そしてどんな感じだったのか思い出せないほど混乱した。
「外さないでって、なんで!?」
ようやくそう叫んだときには、次の日の朝になっていた。
めがねを外すな、とは?
なんでお母さんやお父さんみたいなことを?
――え、どういうこと!?
なんだか無性に腹が立った。
それでは私は、めがねが本体みたいじゃないか!
……だったら、どうしよう。
急に不安に駆られて、ヒトミは次のデートの待ち合わせ、軽いいたずらのつもりでめがねを外して待ってみた。彼の姿はすぐ見えた。ふいにこっちを向いた瞬間、手を振った。彼の瞳は何も映していないかのように通り過ぎ、スマホを見つめた。すぐにヒトミのスマホが鳴った。
『どこ? もう来てる?』
ヒトミは少しキレかけた。けれどそこは耐えきって、彼の元に迫った。
「ここにいますけど!?」
ヒトミは彼の前で吠えた。たどり着く前に二度も三度もおじさんに肩をぶつけられて頭を下げたせいで怒りは頂点に達していた。ほとんど八つ当たりである。けれど彼は驚いた顔でキョロキョロしているばかりで気付いてくれない。目の前にいるのに。
「ここだっての!」
とうとうキレて、ヒトミはめがねをかけて叫んだ。
途端、彼はうわぁと情けない悲鳴をあげていった。
「いるならいるって言ってよ」
――言ったよ。
ヒトミは次の瞬間、私帰ると踵を返していた。
その夜は泣いて――ただし悲しくてではなく、怒りで泣いて過ごした。彼から届く無限の謝罪にまた腹が立ち、もしやと思って、最後のチャンスを与えることにした。
ヒトミは数少ない友達に両手を合わせ、協力を頼んだ。スペアのめがねを渡してかけてもらい、二人で彼を待つのだ。
もし、彼がめがねしか見ていないのなら、きっと友達をヒトミと思うはず。
友達はそんなバカなと笑ったが、ヒトミにとっては冗談ではなかった。
そして、その日はきた。
ヒトミはめがねを外して、友達はめがねをつけて。
彼は迷うことなくやってきて、頭を下げた。
「この前はごめん!」
ひどく申し訳無さそうにそういった。
――友達に。
ヒトミは頭の中で嫌な音が鳴るのを聞いた。震える手でめがねをかけると、彼はいった。
「――え!? ヒトミちゃんが二人!?」
教室よりも公的な衆人環視のなかに、頬を叩く乾いた音が響いた。
友達の提案した
何がめがねだバカ野郎!
と、カラーコンタクトを買って帰った。
正直、怖さはあった。ずっとめがねをかけて生きてきたからというのもあるし、目に何かを入れるのはという思いもあった。
でも。
でもだ。
めがねで認識されるような男に振り回されるくらいなら――
ヒトミは決然と息を吐き、めがねを外して、青いレンズを近づけた。片手で瞼を強引に開き、逃げようとする瞳を気合で耐え、そっと、ゆっくり、レンズを入れた。
異物感。瞬き。繰り返し。ヒトミは涙が滲んでくる感覚に耐えながら顔を上げた。
「――は?」
ヒトミは唖然とした。
鏡には、空中に浮かぶ一枚の青いレンズが映っていたのだ。
そして、もう一つ。
鏡の下端、めがねを置いた洗面台の端――。
めがねを通して見慣れたヒトミが、洗面台にかぶりつくようにして、こちらを見ていた。
見えない λμ @ramdomyu
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