第40話 千都桜

 劉玲は禁軍を下がらせる。伊織は段上で矢面として立つ。刻死蝶の群れは鳳桜宮の上空を黒く覆い尽くし、黒い鱗粉が空を舞う。鼻と口を覆っていても、そのうち吸い込んでしまうのは時間の問題だ。周囲に咳き込む者たちが増えてきた。それだけ死の鱗粉の濃度が増している。


 曹瑛は伊織の周囲を注視する。刻死蝶は伊織だけを襲う様子はなく、ただ気まぐれに舞っているように見える。ふと、黒い霧の中に光るものが見えた。

「伊織、動くな」

 曹瑛が低い声で制する。伊織は頷き、緊張に背筋を伸ばす。伊織の肩口に青い蝶が止まっていた。蔡青花の右目を覆っていた蝶が抜け出したような姿だ。蝶が羽根を揺らすと、銀色の鱗粉が舞う。


 曹瑛が気配を消して近付き、扇子を薙ぐ。青い蝶は真っ二つになり、花びらが舞うようにはらりと石段に落ちた。曹瑛は沓先で青い蝶の死骸を踏みにじる。

「刻死蝶の変異種だ。銀色の鱗粉は吸い込んだだけで生き物を殺す猛毒だ」

 伊織は気が抜けてその場にへたり込む。

「よくやった。お前のおかげだ」

 曹瑛は伊織の肩を叩く。


 蠱蝶の発生は収まったようだが、まだ鱗粉をまき散らしながら上空を浮遊している。

「こいつらをどうする」

「そろそろ頼んだものが届くはずだ」

 曹瑛は階段を駆け下り、宮庭の中央に立つ。巨大な神事用の鼎が据え付けてある。

「なんだよこりゃ」

 頓狂な声を上げて現われたのは郭皓淳だ。荷物を満載した荷車を引いている。


「遅いぞ」

「曹瑛、お前人使いが荒いんだよ。これだけ用意するのは大仕事だったんだぞ。都中をまわってかき集めた」

 曹瑛は郭皓淳の小言を無視して荷台を物色する。

「鱗粉を吸うなよ、死ぬぞ」

「おい、そりゃ早く言えよ」

 郭皓淳は慌てて布で鼻と口を押さえる。


「なんだこれは、枯れ枝か」

 榊が曹瑛が手にした木の枝を見て首を傾げる。

「神雀雨という茶の木だ。一千年の樹齢を持つ神木だ。まったくこんなことには使いたくはないが」

 曹瑛は木の枝を鼎に放り込む。榊と高谷、伊織も荷台から順番に神木を手渡していく。鼎に積んだ神木に曹瑛が火を放つ。よく乾燥した神木はたちまち燃え上がり、赤い炎が踊る。周囲に芳しい甘い香りが漂ってきた。


 刻死蝶が炎に集まってくる。

「刻死蝶の好む香りだ」

 黒い帯が炎にみるみる吸い込まれてゆく。刻死蝶は一瞬にして灰になってゆく。

「なるほど、香りで蝶をおびき寄せて始末するということか」

 このまま一日火を絶やさねば、蠱術で生まれた刻死蝶は全滅するだろう。曹瑛は炎で煙草に火を点けた。


「おっと、お前らの悪事はお見通しやで」

 騒ぎに乗じて逃げだそうとした董正康と黄維峰の前に劉玲が立ちはだかる。

「私は皇帝を救った英雄だぞ」

「お前が蔡青花と密通していたのは周知の事実や。それに、この密書や」

 劉玲が竹簡を広げる。それは西域の蛮族の首長に当てたもので、董正康が皇帝の座につくことを軍事支援したら領地を与える約束が記されていた。

 董正康は愕然とその場に崩れ落ちる。黄維峰は後ろ手に縛られながら唾を吐き捨てた。


***


 白鷺帝の快癒の知らせに千都が沸いたその夜、烏鵲楼は貸し切りで宴が開かれていた。曹瑛が集めた素材で華慈が霊薬を完成させたという。

「そうか、魂鋼が役に立ったのか、私の贈り物を肌身離さず携帯してくれるとは嬉しいよ、英臣」

 ライアンは榊に譲った魂鋼が美しい銘刀に化けたことを喜んでいる。

「ライアン、その言い方はやめろ」

 榊は迷惑そうに眉を顰める。高谷もライアンの図々しさに呆れている。


「伊織くん、見事な演技やった。みんな信じて疑わんかったで」

 劉玲の話では、皇帝の側近たちも白鷺帝に扮した伊織を見破ることができなかったらしい。

「大胆で驚いたけど、上策でしたよ」

 伊織が白鷺帝に扮して快気した姿を見せれば、蠱術が破られたと勘違いして慌てて蠱術の源を確認に奔走する、というのは劉玲の妙案だった。見事、鬼哭谷を押さえ、術を解くことができた。


「帝が感謝してたよ。伊織くんがこなした政務の評判がいいとな」

「故郷では役所勤めだから、請願書はよく目を通していたもので」

 伊織は褒めちぎられて気恥ずかしそうにはにかむ。まさか演技とはいえ、帝あての上奏文を読むことになるとは想像もしながった。鶺鴒寺で学んだ遼河文書の知識も役に立ったことに自信を持てた。


「さあ、しっかり食べてくれ」

 店主の李海鵬が盛りだくさんの具材を持ってきた。紅湯と白湯を入れた陰陽形に区切った巨大な鍋は充分に温まっている。李海鵬特製の薬膳火鍋だ。

「乾杯」

 男たちは豪快に杯を合わせる。酒精にてきめんに弱い曹瑛には祝いの席で出される金綾紅茶が出された。用意した酒瓶はあっという間に空になる。


「瑛さん、大活躍だって聞いたよ」

 伊織は羊肉を頬張る。香辛料をたっぷり効かせた紅湯の辛さに汗だくだ。辛いだけでなく濃厚で深みのある味は癖になる。

「面倒を片付けて早く山に帰りたいだけだ」

 曹瑛はふんと鼻を鳴らしてしいたけを摘まみ、辛さをものともせず口に運ぶ。照れ隠しではなく、本気でそう思っているに違いない。


「お前たちの親は蠱術師だったんじゃないのか」

 榊は劉玲の杯を満たす。

「せやな、蠱術を知っているからこそ、反蠱術の知識があった。技を継いだ曹瑛がそれを証明しとる。毒をもって毒を制する、光と闇は背中合わせというわけや」

 劉玲は杯を一気に飲み干す。両親は蠱術の争いに巻き込まれて敗れた。年長の劉玲は大人たちの会話からそう察していた。この戦いは両親への弔いだ、と思う。


「曹瑛が悪党に狙われたら俺が守ったるつもりや」

 劉玲は獅子堂と羊肉を取り合っている曹瑛の横顔を見やる。榊は空の杯にまた酒を満たした。 

 孫景が差入れの弥勒堂の月餅を広げる。曹瑛はさっそく杏あんを手に取る。脚を組む曹瑛の傍を嬉しそうに小雪が歩きまわっている。


「せや、白鷺帝から宴の招待がある。世話になったみんなにお礼をしたいそうや」

 劉玲が白鷺帝の焼き印が入った詔を取り出す。

「ほう、千都桜の下で花見の席か。豪勢じゃないか」

 郭皓淳は煙草を片手に詔に目を通す。千都桜は都で一番立派な樹齢一五〇〇年の桜だ。白鷺帝が病に伏せてからは花をつけることが無かった。


「今年の春は満開になると庭師が話していたぜ」

 孫景は鳳桜宮の情報通だ。

「呪いが解けて花開くとは、めでたいじゃないか」

 白い頬を紅色に染めたほろ酔いのライアンが杯を掲げる。今夜八度目の乾杯の声が上がった。


***


「また鶺鴒寺で座学だ。旅の日々が懐かしい」

 賑やかな宴の翌朝、伊織は陽が登る前に留学先の鶺鴒寺に戻るため支度を調えていた。畳の上では深酒をした男たちがまだ眠りについている。榊はひどい寝相のせいか、着物が脱げて下着と帯だけになっており、目を覚ました高谷が慌てて身なりを整えている。孫景の豪快ないびきは店の外まで響いてくる。


「しばらく烏鵲楼を預かることになった。暇ができたら遊びに来い」

「え、またどうして」

 意外すぎる話に伊織は驚く。

「店主の李が三月ほど休暇に出たいんだと」

 曹瑛は面倒臭そうにしているが、本気で嫌なら取り付く島もなく断るだろう。


「小雪もお前のことを気に入っている」

「うん、遊びに行くよ」

 伊織は明るい表情で頷く。不意に島唄が聞こえてきた。どうやら獅子堂の寝言らしい。面白い男たちだ。伊織は思わず吹き出した。

 伊織は烏鵲楼に背を向け、朝陽の差す翡翠路を鶺鴒寺に向かって歩き始める。烏鵲楼があれば、きっと気の置けない仲間たちが自然と集うだろう。


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烏鵲楼奇譚-美貌の茶芸師と好漢たちの中華世界活劇- 神崎あきら @akatuki_kz

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