第39話 死蝶乱舞
「白鷺帝暗殺の計略が知られただと」
董正康は怒りに任せて朱塗りの柱を殴り付ける。青花から一部始終を聞いていた黄維峰も苦虫を噛みつぶし、舌打ちをする。鬼哭谷から逃げ帰った蔡青花は肩に受けた傷の痛みに顔を歪め、呼吸を荒げている。
「俺たちは終わりだ。皇帝暗殺は国家大逆の罪だ。一族郎党誅殺を免れぬ」
董正康は黄維峰に目配せをする。
「まだ終わらないわ」
出血のため顔面を蒼白にした青花は壮絶な暗い笑みを浮かべる。董正康は腹の底から湧き上がる嫌悪感を抑えきれない。この女はすべてを破壊して復讐を遂げる覚悟なのだ。戯れ事に付き合っていられない。
「お前はしばし身を隠せ」
「蠱獄殺が解かれた今、白鷺帝は復活してあなたは干されるに違いない。攻勢をかけるのよ」
興奮する青花を黄が諫める。館外に控えている兵を呼び、暴れる青花を強引に連れ出す。董正康と黄維峰も後に続く。
回廊を通り、中央大階段を駆け下りたところで頭上から呼び止められた。
「蔡青花、それから董正康、黄維峰。お前たちを捕縛するで」
「なにっ」
軽妙な声に振り返れば、段上に黒い甲冑に身を包んだ無精髭の男が立っている。男は緩い笑みを浮かべている。劉玲だ。中央には冕冠を載せた白鷺帝、脇には孫景が控えている。
「お前らの経歴を調べた。推薦した重春の県令にこの似顔絵を見せたら知らんという。つまり、真っ赤な他人や。重大な経歴詐称に宮廷での度重なる政敵謀殺、さらには皇帝暗殺未遂の罪状や。三〇〇回死罪になっても足りへんで」
劉玲は腰に手を当てて段上から黄を指差す。口調は軽妙だがその威厳たるや、一軍の将だ。劉玲は得意げに高谷の描いた凶悪な似顔絵を突き出す。
回廊の柱の陰からその様子を見ていた榊は劉玲の正体に驚いている。
「あいつは禁軍の副将だ」
「なに」
榊は目を見開き、腕組をして柱に背を預ける曹瑛を振り返る。遊び人だと称してふらりと烏鵲楼にやってきた人物とは思えず、高谷も口をぽかんと開けたままだ。
禁軍とは皇帝直轄の正規軍、劉玲はまさにその精鋭を束ねているのだ。黄の率いる半ばごろつきを集めた田舎兵とは断然格が違う。
「くそっ、俺たちのことまで」
黄維峰が動揺する。董正康が額から脂汗を垂らしながらも冷静を装う。
「この女が皇帝暗殺の首謀者だ」
「な、私を売る気なの」
董正康の声に取り乱す青花を黄の兵が抑えこむ。
「皇帝暗殺の首謀者を捕えて恩赦を受ける」
董は青花に囁く。深酒の残る息は鼻を摘まみたくなるほどに不快で、青花は顔を顰める。
「裏切ったわね」
青花の声は憤怒に震えている。
「陛下が快癒されたのは私がこの女の陰謀を暴き、蠱術を解いたからに他なりません」
董正康は恭しく頭を下げる。
「何言ってやがる、あのくそ野郎」
腹黒な董正康の姿に榊は忌々しげに吐き捨てる。曹瑛も悪態をつくことはしないが、静かな怒りを燃やしている。
不意に、青花が舌をかみ切った血飛沫を腕を掴む兵に吹きかけた。
「ぎゃあっ」
兵は目潰しを食らい、顔を押さえる。青花は隙を突いて逃げ出す。しかし、広大な宮庭で逃げ場は無い。
「女を捕えよ」
殺せ、と黄維峰は弓兵に囁く。弓兵が矢を放つ。青花の背に二本の矢が突き刺さる。
「やめろ、攻撃を禁ずる」
禁軍が黄兵を取り押さえる。五名の禁軍が青花を追う。青花はよろめきながら神事に使う井戸に辿り突いた。
「我が一族の恨み、千都を滅ぼさん」
青花は胸元から抜いた短刀で首を掻き切った。赤い花弁が舞うように鮮血が吹き出し、青花は青い着物の胸元をどす黒く染めて井戸に身を投げた。
青花の身体は井戸深く沈んでゆく。予想だにしない出来事に、皆言葉を失う。董正康はほくそ笑む。死人に口無し、これで経歴偽装の恩赦を受けられるだろう。
「なんだ、やけに冷える」
孫景が寒気を感じ、身体を震わせる。
「ああ、空が」
白鷺帝が頭上を見上げる。先ほどまで青く晴れ渡っていた空に低い黒雲が渦巻き始めた。雲は生き物のようにうねり、どす黒さを増してゆく。
井戸から気配を感じた。底の方から微かな羽音がする。将校が青花が飛び込んだ井戸を恐る恐る覗き込む。その途端、黒煙が一気に吹き出した。
「うわああっ」
将校は絶叫する。井戸から立ち上る黒い煙と思われたものは分裂して空高く舞い始める。それは灰のような、黒色の蝶だ。無数の蝶が鳳桜宮の上空を飛び回る。
井戸の傍にいた兵たちが激しく咳き込み始める。
「ぐふっ」
蹲り、喀血するものもいる。
「口と鼻を塞げ、刻死蝶だ」
段上に駆けた曹瑛が叫ぶ。胸元から布を取り出し、鼻を口を保護する。
「刻死蝶が振りまくのは死を呼ぶ鱗粉。肺を犯し、呼吸を奪う」
「青花の最期の執念、いや怨念か」
榊は着物の裾を切り裂き、口を鼻を覆う。高谷もそれに倣う。
「伊織くん、よくやってくれた。身を隠すんや」
劉玲を白鷺帝を振り返る。白鷺帝は冕冠を取り、傍に控える宦官に手渡す。
「ああ、重かった。首がどうにかなりそうだ」
現われたのは白鷺帝と瓜二つの顔を持つ伊織だ。
「俺も戦いを見届けるよ」
白鷺帝役を降りた伊織は凜とした表情で頷く。宦官は伊織に恭しく刺繍の施された白い絹の布を手渡した。
刻死蝶は鳳桜宮の上空を円を描くように舞い、回廊を行き来していた宦官や女官が苦悶の表情で咳き込んでいる。劉玲の指示で禁軍の兵たちが宮殿の外に出ぬよう触れ回るが、手が回らない。
刻死蝶の旋回範囲が大きくなっていく。
「これでは千都中に被害がまき散らされるぞ」
榊は不吉な蝶の群れが覆う空を見上げて青ざめる。
「蠱術を解くしかない。源を探さねば」
蝶は井戸から止め処なく舞い上がる。将校が井戸の蓋を防ぐも、水路が宮殿中に通じているのか、刻死蝶は湧いてくる。
「瑛さん、俺が囮になる」
伊織が曹瑛の前に立ちはだかる。
「彼女は白鷺帝を恨んでいたはずだ」
伊織は真っ直ぐに曹瑛の目を見据える。その瞳には揺るぎない覚悟が宿っていた。曹瑛は深く頷き、扇子を構える。
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