本編


 どうしよう、変な時間に目が覚めちゃった……。


 もぞり、と圭太はベッドの中で寝返りを打った。


 目を開けても、閉じていた時と変わらないほど、テントの中は真っ暗だ。


 かぶっていた布団を身体に巻き込み、もう一度寝返りを打って、眠れないかと目を閉じてみる。


 家の布団とは違う感触と違う匂いが、ここは安心できる家じゃないんだと嫌でも教えてくる。


 いまが何時なのかはわからない。けれど、まだ夜なのは間違いない。そばのベッドからはお父さんのいびきが聞こえてくる。


 ごー、ごー、と空気を震わせる低い音は、まるで黒いナニカが近くへい寄ってくるような気がして……。


 圭太は心の中でお父さんに文句を言う。


 ふだんなら、朝まで目が覚めることなんてないのに、どうして今日に限ってこんな時間に起きちゃったんだろう。


 なんとかもう一度眠れないかと、圭太は目をつむったまま、もぞもぞと布団の中で寝やすい体勢を探してみる。


 けれど、一度目が覚めてしまったせいか、ぜんぜん眠れそうにない。むしろ。


(トイレに行きたい……)


 夕飯でもキャンプファイアーでも、ジュースをいっぱい飲んだのが悪かったんだろうか。トイレに行きたくて仕方がない。


 お父さんかお母さんを起こそうか、と布団の中で悩む。


 が、きっとこんな時間に起こしたら嫌な顔をされるだろうし、この年になって、ひとりでトイレに行けないのかと言われるのも恥ずかしい。


 迷っている間にも、どんどんトイレに行きたくなってくる。


「うぅ~~っ」


 迷いを振り払うように、圭太はがばりと身体を起こした。


 両親のどちらかが起きてくれないかと、わざとどすどすと足音を立てて、テントの入り口へと歩くが、残念ながらどちらも起きてくれない。


 暗闇に目が慣れてくると、ものの形くらいはうっすらと見えてくる。


 圭太はじじじじじ、とテントの入口のファスナーを開け、素足にスニーカーを履いて外へ出た。


「うわぁ……」


 外に出た途端、思わず口から歓声が飛び出す。


 頭上には満天の星がまたたいていた。


 七夕の時やお月見の時など、夜空は何度も見上げたことがあるけれど、こんなにたくさんの星を見た経験はない。


 こんなに綺麗に見えるのは、町中と違って空気が澄んでいる上に、周りに明るい建物がないからだろう。お月様が三日月でそれほど明るくないからというのもあるかもしれない。


 トイレに行きたい気持ちも忘れて、ぐるりと見回した圭太は、夜空の星々が、空の端で不自然に途切れているのに気づく。


 きらめく星々が、そこから先は真っ暗になっているのだ。


 なぜだろうと不思議に思い、首をかしげたところで、昼間に見ていた光景をようやく思い出す。


 黒いところは山々だ。周りを囲む山々が、夜空の下を切り取っているように見せているのだ。


 まるで小さな宝石をちりばめたように輝く夜空とは対照的に、山の部分は明かりひとつなく、すみを塗り固めたように真っ黒だ。


 じっとしていると少しずつ闇が迫ってくるような心地がして、ぞわぞわと足元から恐怖がい上ってくる。


「山が動くわけないじゃんか」


 恐怖をごまかすように小さく呟き、少し離れたトイレへと向かう。


 圭太の家族が泊っているテントは一番端だが、グランピング場の中には一定の間隔を置いて街灯が立てられていて、歩くのに不自由はない。


 暗闇の中、煌々こうこうと明かりがついたトイレはそこにさえ行けば安全な気がした。


 トイレを済ませ、手を洗ってテントへ戻ろうとする。


 夜中のせいか、起きている人は誰もいない。街灯の明かりに、特徴的な玉ねぎ型のテントや食事用のドームテントが照らされているだけだ。


 土の道を歩く自分の足音がやけに大きく聞こえ、比例するようにどきどきと鼓動も大きくなる。


 夏とはいえ、山あいの夜の気温は低めで、パジャマ変わりのTシャツでは肌寒いほどだ。


 早くテントに帰りたい。


 ぞわぞわと背中を這い上がる悪寒に押されるように、圭太はいつの間にか小走りになっていた。スニーカーの靴底で小石がじゃりっと鳴る。


 圭太が横を通り過ぎた瞬間、ちかっ、と街灯がまたたき、思わず息を呑んだところで。


「っ!?」


 いつ、どこから現れたのか。


 突然、目の前で白いものが揺れ、圭太は思わず叫びそうになった。


 勢いよく動かしていた足がもつれ、あやうく転びそうになる。


「うわっ!」


 かろうじて体勢を立て直した圭太の視界の端で、白いものが揺れる。同時に、そこから伸びるサンダルを履いた二本のすんなりした足も見えた。


 おずおずと顔を上げた圭太は、目の前に、自分と同じ年くらいの女の子が立っているのに気がついた。


 くりっと目が大きい可愛い子だ。幽霊かと驚いた揺れたものは、女の子が来ている白いワンピースだったらしい。


「こんばんは」


「こ、こんばんは……」


 挨拶されて、反射的に圭太も返す。


 この子も、夜中に目が覚めてしまったんだろうか。


 けれど、圭太と違って、女の子は夜の暗さなんてまったく怖くないと言いたげに立っている。


 それとも、なんだか不機嫌そうに見えるのは、本当は怖いのを隠しているからかもしれない。


 いぶきヴィレッジに泊りに来ている子のひとりだろうか。夜風に揺れるシンプルな白いワンピースは、暗闇の中で見ると、ぼんやりと浮かぶように見える。


 そんな風に考えていた圭太は、続いて話しかけられてびっくりした。


「星がよく見えるいい夜だね」


「う、うん……」


 とっさに何と答えればいいかわからず、ぎこちなく頷く。


 肩を過ぎたあたりで髪を切り揃えた女の子は、夜空を見上げて見回す。


 不機嫌そうだったくりくりした目が、ほんの少しやわらいだ気がした。


「緑も濃くて、風も穏やかで……。なのに」


 空に向けていた顔を下ろした女の子が、不意に圭太を睨みつける。


「どうして、あたしはこんなに苦しまないといけないの?」


「え……?」


 言われたことがとっさにわからず、圭太は戸惑った声を出す。


 そんな圭太を咎めるように、女の子の黒い目がますます険しくなった。


 真っ黒な目は夜の闇よりも深くて、見ているだけで足が震えそうになる。


「な、なに言って……っ」


 圭太の言葉をかき消すように、突然、強い風が吹く。


 ばたばたとテントが風に叩かれて鳴り、グランピング場を囲む山の木々がざわざわとうごめくように枝を揺らした。


 質量を持った闇が、圭太目がけてのしかかってくるような気がする。


 怖い。ここから逃げ出したい。


 なのに、足が石になったかのように動かない。


「ねぇ、どうして……?」


 動けない圭太に、女の子が一歩踏み出す。


 圭太を睨みつける黒い目の中では憎しみが渦巻いていた。


「どうして、こんなに苦しまないといけないの……?」


 いったい何のことを言っているのかわからない。


 圭太が、いったい何をしたというのか。


「苦しい……。苦しいよ……」


 女の子の白い手が伸び、圭太の手を掴む。


「ひ……っ」


 かすれた悲鳴を上げて振り払おうとするが、指一本動かせない。


 女の子は圭太の右手を持ち上げると、白いワンピースに包まれた自分の胸元へと近づける。


 圭太は拳を握りしめて、抵抗しようとした。けれど。


「ねぇ、取ってよ……。あなたが、捨てたんでしょう……?」


 言葉と同時に、女の子が圭太の手を自分の胸元に押しつける。


 ワンピースのさらりとした布地が指先にふれたと思ったのは、ほんの一瞬。


 ――どぷり。


 圭太の指先が女の子の中に沈み込む。


 指先に絡みつく、にゅるりと生温かな感触。


「……っ!?」


 息を呑んだ瞬間、女の子がさらに圭太の手を強く引き、手首まで女の子の身体の中へと沈む。


「ねぇ、取って。取ってよ……。苦しいの……」


 圭太の手が胸に埋まっているというのに、女の子の白いワンピースには一滴の血もにじんでいない。


 いや、そもそも手が人の身体に埋まるはずがない。


 手首を掴む女の子の手を力いっぱい振り払いたいのに、鎖で雁字搦がんじがらめに縛りつけられたように放れない。


 吹きすさぶ風に、女の子の髪が黒い炎のように舞い踊る。


 だが、髪の奥から圭太を睨みつける目は、先ほどからまったくらされる様子がない。黒々とした闇に吞み込まれてしまいそうだ。


 うまく息ができない。奥歯が震えてがちがちと鳴る。


 動けない圭太に、女の子が身を乗り出す。


 真っ黒な瞳に至近距離から見つめられ。


「ねぇ、苦しいよ……」


「うわぁぁぁっ!」


 ようやく金縛りが解けた途端、口から悲鳴がほとばしる。


 同時に、圭太は渾身の力で拳を握ると女の子の身体の中から右手を引き抜いた。


 そのまま、脇目もふらずテントへ走る。


 いったい、どこをどう走ったのかわからない。


 半分、入口が開いたテントを見た途端、胸に安堵が押し寄せて――。



   ◆   ◆   ◆



「圭太! 圭太ったら! そろそろ起きなさい」


 母親の声で、圭太はがばっと飛び起きた。


「もう、圭太ったら夜中にテントから勝手に出たでしょう!? スニーカーが脱ぎっぱなしなのはまだしも、テントの入口をちゃんと閉めずに……っ! おかげで蚊が入ってきていくつも噛まれちゃったじゃない」


 母親のお小言も耳に入らない。


 寝起きなのに、心臓がばくばくと嫌な音を立てている。


 ゆうべ、どうやってベッドにもぐり込んだのか覚えていない。


 テントの入口が開いていて、スニーカーが脱ぎっぱなしだということは、ゆうべのことは夢ではないのだ。


 白いワンピースの女の子に出会って、そして――。


 ぶるりと身体が震え、圭太は嫌な音を立て続ける心臓をTシャツの上から押さえようとする。だが。


「これは……?」


 握りしめられている右手の中に、何か固いものがある。


 圭太は強く握りしめすぎて、うまく動かない指をこわごわとゆっくりと開いた。


 その手の中にあったものは、ペットボトルのフタだ。


 どこにでも売っているジュースのフタ。


 けれど、それを見た途端、昨日の記憶が甦る。


 昨日、ここに着いてすぐにお母さんに買ってもらったジュース。暑くてすぐに飲みたくて、勢いよく開けた拍子に、うっかりフタを落としてしまって……。


 ころころと転がっていってしまったフタを追いかけるのが面倒で、どうせすぐに飲むからいいやと、圭太は拾いにいかなかった。


 でも、どうしてそれが……。


「圭太、どうしたの? ペットボトルのフタなんてじっと見て」


「え、えっと……。短パンのポケットに入ってて……」


 尋ねられてあわててごまかす。


「ふうん。ちゃんと捨てておきなさいよ。その辺に捨てて動物がうっかり食べちゃったりしたら、大変だからね」


「っ!?」


 圭太の母はごみの分別などに厳しい。圭太も家でごみの分別を間違えると注意される。


 けれど、圭太はそれどころではなかった。


『苦しいよ……』


 ゆうべの女の子の声が甦る。


 圭太を睨みつけていた憎しみにまみれたまなざしも。


「おいっ! 圭太、来てみろ!」


 圭太の思考をさえぎるように、父親が圭太を呼ぶ。


 興奮した様子で手招きする父親に、圭太はベッドを下りてテントの入口から外を覗く父親のそばへ行った。


「ほら、見てみろ!」


 父親が指さした先にいたのは、一匹のたぬきだ。


「可愛いわねぇ。まだ子どもかしら。山が近いとはいえ、人前まで出てくるなんて」


 圭太の隣から覗いた母親がはずんだ声を上げる。


 ふっさりした尻尾の子だぬきの、くりくりした黒い目と視線が合う。


 途端、たぬきがふいっと身を翻し、近くの草むらへ逃げていった。


「あら、もう行っちゃった」


 母親が残念そうに呟く。


 きっとあの子だぬきは、圭太が落として放りっぱなしにしていたフタを飲み込んでしまったのだ。


 すごくすごく苦しかったに違いない。だから、何とか取ってほしくてあんな……。


「……ごめんね」


 もうとっくに姿の見えなくなった子だぬきに、圭太は小さな声で謝った。



                            おわり


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