最後の刻 Record7

鈴ノ木 鈴ノ子

最後の刻 Record7

 

 突然の別れ。

 

 誰しもに訪れるかもしれないこの辛く苦しい時間は、医療に従事するすべての者にとっても辛いものがある。


「どうして…」「いや、まだ助かるはずだ」「何とかしてください」「どうしてそんなこと言うんだ」「お前が殺したんだ!」ets…。


 家族よりその時々で聞いたり浴びせられる困惑から罵詈雑言までの、現実を受け止めきれない気持ちに寄り添いながら最後の刻を宣告する。そして亡くなられた御体は看護師の手によって綺麗に整えられ霊安室へと移送され、葬儀社の方々の手によって病院裏手の専用口から霊柩車へと乗られてご家族の元へとお帰りになられてゆく。


 病院から霊柩車でお帰りになられる際のお見送りを終えたのち、ふと霊安室を覗いた時のことだ。


 1枚の白い布が残されていた。


 霊安室は色物がほとんどない。

 壁紙が多少温かみのある色で塗られている以外は、ほとんど無機質のような空間だ。嘆き悲しむ家族が案内されて患者さまとの一時の時間を過ごす場所なのだから。


「雪島先生、どうしたんです?」


「ああ、高峰さん、いや、ちょっとね」


 救急当番の医療事務職員で「送りの高峰さん」で名を馳せる彼女が、扉や室内の片づけに来たのだろう、ひとり佇んでいた物珍しい医師に声を掛けてきていた。


「そうですか、もしかするとすぐ使うかもしれませんので片付けをしますね」


 てきぱきとした動作で置かれている椅子やソファーなどの吹き掃除を始めた。病院で患者さん全員が完治するということはない。それは医療技術が進歩してもどうにも手を尽くすことができないということも現実としてあって穏やかな死へ送り出すことも大切な勤めでもあるともいえるのかもしれない。


「あら、シミができてますね、業者さんに手入れして貰わないと…」


 そう言って高峰さんはメモに壁紙の状況を書き留めた。そして手早く準備を進めていく。祭壇や、お線香や蝋燭の補充、使用されて減っているものの補充や取替を手早く進めていく。そのすべてが白か白色に近しいものばかりだ。


「白が多いね」


「ええ、そうですよ、始まりと終わりの色ですからね」


 掃き掃除へと作業を移したしていた高峰さんが手を止めてそう言った。やがてその手が作業をやめて霊安室にある唯一の障子付きの小窓を開いた。

 囲いの生垣には紅白のまだら模様の椿の花が咲いていて、唯一の赤い色がひどく目立つ。風はそれほど強くもなく、先ほどまでの暖房の効いた室内に流れ込んできてはその空気と溶け合って外へと共に去っていくのが感じ取れた。


「それはどういうこと?」


 始まりと終わりの色と聞いて興味本位でそんな質問をしてみる。


「そうですね、どう言い表したらいいんでしょう…。先生ならご存じかもしれないですけど、私は子供を失ってるんです、1人目は5歳で…2人目は成人前に…」


「あ、ああ…」


 どう返事を返してよいのか見当がつかずにそのまま濁す様な戸惑いが口から出た。


「今はもうある程度は落ち着きましたから気にしないでくださいね。色の説明は長くなりますけど、聞きたいですか?」


「気になりますね。お願いします」


 折角の機会、と言う言い方は失礼だけれど、頷いて頭を下げる。


「ふふ、雪島先生らしいですね。2人目を失って途方に暮れて死んでしまいたいくらいに辛くて苦しくて、しばらくは実家に帰って引きこもっていました。その姿を心配した母親が檀家のお坊さんに相談したら一度連れてきては如何ですか?と言われたそうでして、一緒に檀家のお寺へ伺うことになったんです」


 とんとんと近くの椅子を叩く高峰さんに、座る様にとも促されている気がして近くの椅子へと腰を下ろす。


「居たのはいつもの住職さんではなくて、若いお坊さんでした。先生や今田先生がここに来たくらいの若さだったと思います。本堂に通されて仏様の近くに案内されました。そうしたら真っ白な反物を目の前に出されました」


「反物?」


「ええ、和服とか使う反物です。それを渡されまして、なんだろうと戸惑っていたら、畳の上に広げてくださいって、仕方なしに立ち上がって綺麗に広げようとしたら、放り投げる様に広げなさいって言われて投げたんです」


「なかなか斬新なお坊さんですね」


「ええ、ほんとに、こっちもなんだと更にイライラが溜まっていたんだと思います。思いっきり、投げる様に広げてやりました。本堂の端まで白い反物がほぼまっすぐに伸びて真っ白い線のように驚くほど伸びましたよ」


 けらけらとしながらもどこか寂しそうな笑いだった。


「そしたらね、お坊さんがその上を歩いて端まで行きなさいって、いい加減にしてくださいって言ったら、初めて怒りましたねって、色が着きましたね、あっけに取られてしまっていたら、自ら真っ白になるのは早すぎますって言ってこられて…」


「なんか、凄い話ですね…」


「そうでしょ、いきなりそんなこと言われて、なんだってなるじゃないですか、だから、勝手事ばかりって、もう吹っ切れたように怒り心頭で罵詈雑言をぶつけてやりました。もう、引きこもって吹き溜まっていたものすべてをぶつける様にです」


「お坊さんはどうしてたんです」


「どうもこうも、胸倉掴んでも、半狂乱になってどれだけ怒鳴りらしても、じっと私を見つめて話を聞いていました。笑う訳でもなく、悲しむわけでもなく、真摯にというよりは静謐に聞いて、なおさらそれに腹が立って、帰ろうとも思ったんですけど、それだとこのくそ坊主に負けた気がしてしまって…」


「くそ坊主ですか…」


「ふふ、ええ、その時はそう思いましたから、で、本堂に夕日が差し込むくらいになって、私が蹲って泣いて視線を上げたら、広げていた反物が夕日の光で金色に輝いていました。見たこともないほどに綺麗で、でも、恐ろしいほどに怖い輝きで…」


「怖い輝き?」


「怖かったのです。本当に綺麗すぎて…。自然の光っていうのは時に見知っている色と違うことがあるんです。で、言葉を失ってその光をじっと見つめてました。金色から徐々に徐々に夜の闇に染まるまで、そうしてやがて本堂内が真っ暗になって、でも、今度は月明りが差し込んできて反物がまるで白い道のように光りいて…」


 光景を思い出したのだろう、目元をハンカチで拭いながら少し掠れた声で高峰さんは言葉を切った。


「お坊さんは何も言わずにそのままずっと座っておられて、さっきまで罵る様に言っていた言葉が急に恥ずかしくなってしまって、お坊さんにその場で謝りました。でも、謝る必要なんてないっておっしゃって、どうしてですって尋ねたんです。そうしたら、貴女が子供達のことを心から愛して想っていた気持ちなんですって。真剣に愛していたから、だから、必死に耐えて偲んで、そして、心の底に吹き溜まった想いが自分自身を雁字搦めに捕らえてしまっていたんですねって」


「愛しているが故に…ですか…」


「はい。でも、言葉が過ぎましたって、今思い出してもとんでもない言葉をぶつけていたんです。でも、お坊さんは首を振りました。それくらい辛い思いを抱えていたんです。それは只の暴言ではなく、どうしようないほどの苦しみの暴言なんですよって、それを素直に吐き出すことができないほど、いや、少しずつでも話していくことすらできないほどに、苦しんでいたんですからって、真顔でそうおっしゃってから立ち上がって反物を手にされました」


 拭き掃除で使っている不織布の殺菌シートを高峰さんが握りしめた。


「白色は人間が生まれてから死ぬまでに最初と最後を飾り常に傍にある色、この反物は先ほど端まで転がりましたが、これが人の道でもあるんですって、人生は真っ白で文字を書いたり、色を塗ったりとしながら、自分なりに染めて育っていくんです。たとえ小さな子供であっても、それは変わらない、母親の愛情や父親の愛情、そして人達の心に包まれて、いろんな色に染まっていた。きっとそれはとても優しくてとても美しい色に染まっていたんです。生きている時は色々な色に染まるし染められるものです、しかし最後は真っ白で終わるのです。命が終われば真っ白へと戻る。それは誰しも変わらないし、どの人にも平等なんですって、でも、最後が違うのは本人の白は他人を白でない何かに染めてしまうそうなんです。それが故人の想いとは違っても、他人を別の色で染めて捉えてしまう。それが時には苦しませるということもあるのですって言われて、ハッとしました」


「なるほど」


 高峰さんの言葉に頷くと彼女も同じように頷いた。


「でも、その苦しみは個々其々に違い、誰かが頑張って克服したからといって、別の誰かが克服できるのかということでもない、年月や時間がかかり一生の人もいるかもしれない。それは強さや弱さとは関係なく、自分の染まってしまった色を、どのように時間をかけて薄め溶かして次の色へ移せるかが大切だと。やがてそれが新しい弔いに繋がるんですと言っておられました」


「色へ…」


 話を聞いて純粋に率直に口から漏れ出でた言葉だった。


「ええ、もちろん、その話をされても素直に納得をすることは難しかったんですけどね、でも、月日が流れて色々なことを考えているうちに、川の流れのように自然と納得しました。家の中から動くようにし始めて、段々と外へと出るようになって、我慢強く待っていてくれた夫と一緒に過ごすようになって、ここに働きに出れるぐらいまでにはなれました。もちろん、子供達のことを考えると辛いですけど…でも、子供達の色、私の一部となった大切な色を失うわけにはいきませんから…」


「それは…」


 はやり良い受け答えができずに戸惑うと高峰さんは素敵に微笑んだ。


「あはは、雪島先生らしいです。変に気を使われたりするのは嫌ですから、気にしないでください。こんな話をしてしまってごめんなさい」


「いや…。為になる良い話を聞かせてもらえました。そろそろ、時間なので戻りますね」


「長々と話し込んでしまってすみませんでした」


「いえ、こちらこそ聞かせて頂いてありがとうございます」


 霊安室を出ると少し足早に病棟へと向かうことにした。

一旦、医局に戻って白衣を交換して手をしっかり洗い、そして担当病棟ではない産婦人科病棟の506号室の扉に手をかけた。ゆっくりと開くと温かみのある色合いの部屋が見えて、薄ピンクのマタニティウェアを着た奏と、その両腕に大切に抱かれるおくるみに包まれた我が子の「しずく」が寝入っていた。


「どうしたの?仕事中でしょ、お見送りしてきたんじゃないの?」


「う、うん」


その傍らにはナース用のキャスター台に乗せられたノートパソコンが開かれている。統計データなどの数多くウインドゥが開かれていた。出産に伴う休職中とはいえ、看護師資格以外にも資格を取得している奏は、更新のための論文などを纏めているから、それをしている途中だったのだろう。


「そのままで触らないでよ。部屋にも入っちゃダメ、そもそも、病棟に来たらダメだよ」


「一応、白衣も変えて手も洗ったけど…」


「それでもダメ、もう、わかってるでしょ」


「そうだね、うん、わかってる。でも声が聞けてよかったよ」


心配してくれる声でそう奏がそう言った直後、その腕の中で可愛らしい泣き声が部屋に聞こえ始める。


「ふえぇ…」


「しずく、大丈夫よ、パパが来ただけだからね」


「ごめん、起こしちゃったみたいだ。また終わったら来るよ」


「うん、待ってる。あ、シャワーだけは浴びてきてね」


「はいはい、わかったよ」


扉を閉めながらも2人の様子が最後まで視線から離れない。

2人が居てくれることは本当にありがたいことで、そして、素晴らしいことだと改めて思い知らされた気がする。奏がいる空間は朗らかな陽の光が差し込んでいる色合いの場所と言えるだろう。だからこそ、高峰さんが失った色は途轍もなく言い表すことのできないほどだ。それを克服という言い方はおかしいのかもしれないが、自分の中で乗り越えて今をしっかり生きていく姿は正直に言って凄いとしか言いようがない。


部屋を後にして担当患者さんのいる病棟へ向かおうとすると、1台のストレッチャーとすれ違った。廊下はある程度人払いがされていて、掛け布団が頭の先までしっかりと覆われた患者さんが休まれていて、その脇を奥様だろうか、気落ちし疲れ果ててしまっている年配の女性と家族が付き従うように続いていく。その女性の脇を支えるようにではないけれども、さり気なく一緒に歩いてゆくのは高峰さんだった。


『送りの高峰さん』


最後の最後までのお見送りを担当し、そして、ご家族さまの不安などの訴えにも耳を傾ける。警備員も飛んで来るような事態後であっても臆することなく、最後まできちんと見送り届けることで有名な医療事務員。時には名指しのお礼状さえ届くほどだ。


その後ろ姿と先ほど伺った話を考えながら、ふと白布のような人だと感じた。


白色の白布が近くにあれば、淀んだ色に変色してしまったとしても、その色を吸い取って薄める手伝いをして、家族を救ってくれるのかもしれない。


きっとそれは自らが苦しんだからこそできる、治療さえ言えるかもしれないだろう。通られた患者さんとご家族さんに、そしてその後ろ姿にも頭を下げたのだった。

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