黄金の白

古博かん

かつて白磁器は黄金と同等価値のある貴重品だった時代があった

 ヨーロッパを代表する高級食器といえば、何が思い浮かぶだろうか?


 他国に先駆けて初開窯かいようを果たしたドイツを代表するマイセン。

 欧州最古の王室を持つデンマークを代表するロイヤルコペンハーゲン。

 長年イギリス王室御用達を務めたウェッジウッド。


 他にも枚挙にいとまがない錚々そうそうたる名窯が並ぶ。

 これら欧州窯に影響を与えた——というよりも、開業させるに至ったきっかけが、日本や中国の磁器製品だった。


 今からおよそ三百年ほど遡り、だいたい十七世紀から十八世紀頃にかけて、シノワズリ、ジャポニズム趣味と呼ばれた流行の中で、東洋磁器が欧州を席巻した時代がある。

 日本では江戸時代、古伊万里こいまり柿右衛門かきえもんが、お隣中国では明朝清朝を跨ぎつつになるが景徳鎮けいとくちんが東インド会社を経由して海を越えた。


 イメージに反して、当時のヨーロッパにはいわゆる白磁と呼ばれる焼き物が存在しなかった。

 日常的に使用していたのは銀器や銅鍋といった金属製品や、水の浸透しやすく匂い移りしやすい陶器類だった。

 ラノベ界隈で描かれる中近世ナーロッパ風世界での優雅なお茶会は鉄板ネタだが、実際のヨーロッパでは、まだ絵付けの美しい白磁器は存在しないのが現実の世界線である。


 そんな折、彼らの認識では未開の野蛮地であった東洋からもたらされた絵付けの美しい白磁器——特に素地の透き通るような白さは「白い金(決して白金ではない)」と讃えられ、実際に黄金に値する取引材料として、SSR級の貴重な財源となった。


 王侯諸貴族はこぞって大金をはたいて、これら白磁器を手に入れようと躍起になっていたのである。

 一枚の皿が、兵士の命よりも重い——という狂った価値観さえ存在した。


 加熱する磁器収集。

 需要と供給のアンバランスさと、莫大な金を産む経済産業的な価値の高さからヨーロッパでも磁器生産に乗り出す動きを見せるのだが、これが苦難の連続であった。


 何せ、磁器焼成に関する知識もスキルもない。

 輸入元の東洋でも当然のように門外不出とされ、物理的な距離もあって技術を盗む術もない。

 欧州内で優秀な学者や薬剤師、果ては錬金術師らを取り合って半ば軟禁状態で研究に明け暮れさせた。


 そんな中で最初の磁器窯が産声を上げる——ザクセン王国のマイセン窯である。

 マイセン開窯にあたり、無くして語れない名前がある。


 大パトロンであったザクセン強健王アウグスト二世。

 そして、金を産む白い素地の開発に命を捧げ(させられ)た自称錬金術師ヨハン・フリードリヒ=ベトガー。


 元々ベトガーはザクセンのお隣、プロイセンで薬剤師をしていた少年だ。

 幼少期よりその頭脳を見込まれてその道を進むが、彼自身は調薬そのものよりも、その過程で生ずる一種の化学反応に興味津々という根っからの研究バタであった。


 次第に、薬剤調合よりも錬金術にのめり込んでいく。

 錬金術という呼称は、いかにも詐欺くさいファンタジー臭がするが、現代風にいうなら化学者ないし研究者と思えば良い。

 優秀な錬金術師がいるらしい——その噂は瞬く間に広がり、プロイセン王に目を付けられる。

 初めこそ支援や厚遇を受けたベトガーだったが、いかに研究を重ねたとはいえ、おいそれと黄金が生成できるわけもなく、成果を報告できない若き研究者への圧力は相当なものになっていく。


 そんな中、耐えかねたベトガーは隣国ザクセンへと命からがら逃げ出し亡命する。当然追手がかかったが、そこで救いの手を差し伸べたのがザクセン王アウグスト二世だった。

 アウグスト二世は、ザクセンの首都ドレスデン内に所有する自身の城の一つにベトガーを招き、保護した。


 これだけを記すとまるで美談だが、ただの親切心で国際指名手配犯を助けるわけもなく、売った恩を盾に自国用に黄金を生成することを要請したのである。

 事実上、またも軟禁されたベトガーは、この時まだ十九歳の青年だった。


 今でこそ、ざっくりと「ドイツ国」である界隈だが、当時はそれぞれに独立した小王国であり、隣近所で仲良くするどころか利害でバッチバチにやり合っていた複雑な国際情勢がある。


 さて、研究支援と場所の提供という名目で閉じ込められたベトガーは、命がかかっているから錬金術の研究に勤しむものの、プロイセンで失敗したものが、そう易々と克服できるわけもなく、失敗に失敗を重ねるたびに追い詰められ、徐々に心身を病んでいった。

 残された手紙や記録から現代医学に照らし合わせると、この時点で彼は既に躁鬱そううつ病を患い、重度のアルコール依存症にかかっていたと考えられる。


 ここまでの話は錬金術による黄金生成の失敗談である。

 ここからは磁器焼成へ向けて、起死回生の研究シフトチェンジが起こる。


 実際に、アウグスト二世も渋々の研究資金として莫大なカネをかけているため、今更「無理でしたーごめんね、ごめんねー」を受け入れられるはずもなく、いよいよベトガーの命の保証も怪しくなってきた頃、一条の光明が差した。


 同じ研究バタであり、哲学者、物理学者でもあった貴族出自のエーレンフリート・ヴァルター・フォン=チルンハウス伯爵が、ボッチだったベトガーを監修することになったのである。


 このチルンハウス伯爵が他でもない、当時流行の最先端であった磁器研究の第一人者。

 研究段階とはいえ、理論上、磁器焼成を一部成功させていたが、「黄金の白」への道のりはまだまだ遠く、その研究をベトガーに引き継ぐようアウグスト二世の要請がくだった。

 というのも、この時点で伯爵は既に当時としては十分に高齢であり、いつ死んでもおかしくない状況だったという事情を含んでのことだった。


 研究バタ同士の交流。

 未知の分野とはいえ、ベトガーは確かに頭脳明晰な若き研究者であった。

 チルンハウスの研究内容を理解、分析し、行き詰まる白磁器焼成の問題点が「土の配合」と「焼成温度」にあることを突き止める。


 ベトガーからの報告を受けて、アウグスト二世はすぐさま各地から種々様々の「土」を調達した。

 運搬費と人件費を除けば実質タダである「土」となれば、行動の早いアウグスト二世——彼の倹節ぶりは有名な話である。


 各地から集めた土を配合しては焼き、焼いては配合を見直して焼く。

 延々と気の遠くなる作業を繰り返したベトガーの苦労は、カオリンの発見と共に報われることになる。


 和名を高陵石。

 ケイ素ー酸素の層とアルミニウムーヒドロキシルの層が交互に重なる構造を持つ粘土類鉱物の一つであるカオリンは、水で精製し漂白することで不純物を取り除くと高白色となる。

 この純度の高い白色の土(実際には粉末にした岩)を一〇〇〇度以上の高温で焼成処理することで、硬度と白色度を増し耐候性、耐薬品性に優れた素地となる。


 このカオリン命名の由来は中国の高嶺山にあり、景徳鎮はこの山から採れる岩石を基に焼成される世界最高級白磁器として垂涎の逸品であった。

 ベトガーがたどり着くまで、カオリン焼成磁器はほぼ景徳鎮の独壇場だったのである。

 そのカオリンが、どうやら国内で採掘できる—— 一七〇九年、五年の歳月を経て周囲の期待を遥かに上回る成果を上げた二十七歳のベトガー会心の一撃であった。


 これで晴れて自由の身になれる!


 否。

 現実では、ここからベトガー苦難の第二章(プロイセン時代からだと第三章)が始まる。


 アウグスト二世が要請したのは、黄金の白磁を安定供給する体制を整えること——ベトガーに課されたのは、営業と経理と経営者としての手腕を発揮することだった。


 しかし、根っからの研究バタであり、これまでひたすら引き篭もらざるを得ない生活を余儀なくされてきた若き研究者に、経営手腕を発揮する手立てなど、そもそも無かった。

 貴族出自でそれなりのコネクションがあり、研究バタで製品知識を共有できるチルンハウス伯爵が、そこを担えていれば、のちのベトガーの苦労は半減したかもしれない。

 しかし、白磁器焼成を成し遂げる前年、チルンハウスはこの世を去った。

 白磁器生産、販売体制を整える重圧は、再びボッチになってしまったベトガーの双肩にのしかかるのである。


 一七一〇年、かくしてマイセン窯は欧州初の磁器工房として開窯する。それなりに作って、それなりに売れているはずなのに、なぜか利益が得られない。

 一説によると、雇った営業と経理担当が売り上げを横領、着服していたらしいという話もあるが、真偽のほどは分からない。


 間違いなく世紀の偉業を成し遂げたはずのベトガーは、重要な国家機密の知識保有者として、相変わらずザクセン王国の監視下に置かれて自由を制限される余生を過ごした。


 過度のストレスからくる躁鬱病に苦しめられ、軟禁状態に置かれて酒浸りになった心身はとっくに限界を越えていた。

 実験に使用した薬品類による薬害、常軌を逸する高温に連日連夜接し続けた両眼は、晩年、その視力を失った。


 一七一九年三月十三日、多少緩和されたとはいえ、依然、軟禁状態が続くベトガーは、三十七年の生涯をひっそりと閉じた。


 それでも、国家機密は漏れるときは漏れるのである。


 遡ることベトガー急逝の二年前、同僚であった陶工二名が磁器制作情報を携え隣国オーストリアへ逃亡。

 しかし、期待したほどの情報料を得られずに再度ザクセンへ舞い戻ってくるという厚顔無恥も甚だしい重罪を犯す。


 この情報漏洩によって、欧州で二番目に磁器焼成に成功したのがオーストリアを代表するウィーン窯——現在のアウガルテンである。


 いざ帰国とは簡単に言えど、手ぶらで帰れば殺されることを理解していた逃亡陶工は、オーストリアから、あたかもヘッドハンティングしてきましたの体で有名画家を引っこ抜いてきた。

 それが、マイセン窯躍進の第二章を担う天才絵付け師、画家のヨハン・グレゴリウス=ヘロルトである。


 現在も続くマイセン絵付けの色彩は一万色にも及ぶと言われているが、その礎を築き後世に残したのが、このヘロルトだ。

 代名詞「ブルーオニオン」もヘロルトによる模写から始まった図案である。

 そして、多彩な絵付け用絵の具開発の手本となったのが日本の柿右衛門だった。


 この後、マイセンは凄腕の彫像師を引き入れて立体彫像焼成を成功させ、第三章に進むことになるが、色とはテーマが別れていくため、ここでは詳細を割愛する。


 欧州ではその後、各地でカオリンの採掘が進み、フランスのセーヴルやハンガリーのヘレンド、イタリアのリチャードジノリやデンマークのロイヤルコペンハーゲンなど、次々と一流どころに成長する窯元が開かれて白磁器の一大産業を築いていく。


 一方で、同じ欧州でカオリンの採れない国もある。

 カオリンの採れない国代表イギリスでは、代わりに骨灰こっかい(牛の骨を粉末状にしたもの)を使用することで、とろみを帯びた乳白色の磁器を焼成することに成功した。

 主にイギリス食器をさして「ボーン・チャイナ」と呼ばれる所以である。決して中国生まれという意味ではない。


 このボーン・チャイナを名乗るには、満たさなければならない一応の基準がある。


 素地に含まれる骨灰の配合が、イギリスでは35%以上、日本では30%以上、アメリカでは28%以上含有していることとされ、さらに50%以上含有している場合は、上位ランクとして「ファイン・ボーン・チャイナ」と呼び分けられる。


 骨灰にカルシウム分を含むこと、また焼成温度がカオリンに比べて高く、酸素を多く含む炎で焼くことで化学反応を起こすボーン・チャイナは、より頑強に作られる。

 高温多酸素で焼成すると乳白色に、若干低音低酸素(それでも一〇〇〇度以上ある)で焼くと白色になるという、「白色には百色あんねん」を地でいく面白い素地である。


 白色の仕上がり具合で焼成温度が何度程度か、炎にどれだけ酸素が含まれていたか、そして生産国を示すバックスタンプを確認することで、どの程度骨灰を含有しているか、どの年代の製造か、ある程度推察することができる。


 もっとも、ここまでいくと完全な焼き物オタクの仲間入りである。

 ようこそ、シェイクハンド。


 このボーン・チャイナ開発の成功を機に、英国陶磁器産業の功労者として叙勲されるに至ったのが、イギリス陶工の父、初代ジョサイヤ・ウェッジウッド——現在のウェッジウッドグループの創始者である。

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