失楽園(1)
ぷしゅ、という気の抜けた音がして、電車の扉が開く。待ち合わせに選んだ駅のホームには、ぎらぎらと刺すような日差しが降り注いでいた。私は、日傘を家に置いてきたことを後悔しながら、きょろきょろと菅原くんを探す。彼からは、つい先ほど到着した旨を知らせるメッセージが来ていたはずだ。
「あ、伊野さん」
背後から声をかけられて、私は飛び上がりそうになった。
「……こんにちは、菅原くん」
菅原くんは、茶色のチノパンに白いポロシャツを着ていた。いつもと変わらない服装だけど、こうやって普段とは違う駅に立っていると、どことなく雰囲気も違うような気がする。
「じゃあ、行こうか」
電車に乗っている間、私たちはほとんど無言だった。吊り革につかまって、ただ左右に揺られている。沈黙すら心地よいという気持ちは、私が彼に出会ったころから抱いているものだった。
プレゼンテーションは、まあまあ評判がよかった。先生からは、他の班に比べて少し長めの講評をもらった。菅原くんのおかげということもあるが、何より、きちんと努力してよかったと思う。
何度か電車を乗り換えて、神保町駅までたどり着く。神田という名前の駅があるのだから、すっかりそこで降りるものだと思っていたが、どうやら違うのだ。昨日調べていて驚いた。東京の電車には未だに慣れない。
私たちは、カフェのような店で昼食を食べて、ゆっくりと古書店の並んだ通りを進んで行った。
書店は、皆通りの南側に並んでいた。入口が北側を向くことになるから、おそらく日当たりを考慮してのことだろう。碁盤の目状になった通りの片側に、古いレンガの壁を持つ建物がずらりと並んでいる。歩道を占領せんばかりの冊数の本を、ワゴンで出している店もあれば、きっちりと背表紙の並んだ棚を通りに向けている本屋もあった。雑然としている。歩いても歩いても、無造作に存在する書籍が私を出迎える。奇妙で、しかし不思議な魔力を持った空間だった。
きょろきょろとあたりを見回しながら、私は菅原くんの後ろを歩いた。
「入りたい店ないの?」
通りを歩くだけで満足しかねない私に、彼が苦笑いしながら声をかけた。私は、ゆっくりを視線を店頭に滑らせながら進む。
「あ、ここ、入ってみたい」
私が選んだのは、いかにもな雰囲気を持った店だった。店頭には、カラフルな背表紙の古びた文庫本が並んでいる。書店によっては、古すぎると思うのではないかというような書籍が並んでいるところもあったが、ここなら読める掘り出し物がありそうだ。こじんまりとした店の雰囲気も気に入った。
いざ足を踏み入れてみると、古書店には独特の空気の重さがあった。湿ってはおらず、むしろ乾いた空気ではあるが、古びた紙の匂いが鼻をつく。本棚の間に棚があり、実質二重になって本が並べられていた。通路は、人ひとり通るのがやっと。並んだ背表紙の高さはまちまちで、ぎっしりと詰められている様子には迫力すらあった。眼前に広がる、混沌とした世界は、まさに思い描いていたような古本屋で、埃っぽい空気でさえも心から愛せるような気がする。
背表紙を見ていると、ふと目に留まる一冊があった。年月を帯びたワインレッドの背。和紙に近い質感で、箔押しされていたのだろう書名は、箔が取れてただくぼんでいるだけになっている。きっとそんなに価値の高い作品ではないだろう、しかし、どこか手に取りたくなる光を放っていた。
息をつめて、ゆっくりとその本を取り出す。引き出された表紙も、深くて渋い深紅だった。ゆっくりとページをめくる。埃が鼻をくすぐるが、そんなことは気にならない。どうやら恋愛小説のようだった。今よりやや細いフォントに、年月を経てややぱりぱりとした紙。時間に触れている、と思った。私は、気が付くと息を止めて、指先にだけ感覚を集中させている。
「買うの?」
そう、後ろから声をかけられて、ふと現実に引き戻された。くらくらする。空気のせいではない。この空間は、あまりにも多くの人生を、時間を詰め込んでいる。
手に持った本の奥付を開くと、昭和××年、と書かれていた。そこまで骨董品とは思えないのに、しっかり古い。この本は、私の三倍以上の時間を生きていることになる。
「あ、いや……それはいいかな」
私は、この世界に圧倒されていた。書籍は、知恵そのものであり、時間であり、人生である。私を、時間も空間も飛び越えた旅に連れて行ってくれる。それは、希望の光であり、嵐でもある。私は、眼の前に広がる書籍の海を見つめて、そう思った。
結局、そのあといくつか見て回った古書店では、私は何も買えなかった。なんとなく気押されてしまったということと、優柔不断なところが邪魔をして、本当に欲しい本を絞れなかったことが原因だ。菅原くんは、理系の本が沢山売っている店で後期の参考書を買っていた。相変わらず用意周到だ。古書店は、書店ごとに色が大きく違っていた。地震に耐えうるとは思えないような、溢れんばかりの陳列棚を持つ店もあれば、理路整然とした店も、雑貨づかいのうまい店もある。並べている本も千差万別で、一般文芸書から、思想がきわどい本、詳しすぎて需要があるのかどうか分からない専門書、おまけに雑誌のバックナンバーまで、正直なんでもあった。巻物とか、和綴じの本を見た時には、思わず声を上げてしまったものだ。
最後に、古本屋ではない一般的な本屋に寄った。私は、そこで、狙いをつけていた作家の新刊を買った。今日はこれで満足だ。なんとなく、この街には、もう一度来るだろうと思えた。買い物はその時でいい。時間はたっぷりあるのだから、本当に欲しい一冊はゆっくり決めていけばいいのだ。
菅原くんは、私が並べられた本に釘付けになっている間、ずっとその店で何かしらを読んでいた。特に言葉を交わすわけでもなく、それでも、私たちが、この厳かな空間における感情を共有していることが分かる。好きとか嫌いというような感情の前に、私の菅原くんへの気持ちは居心地の良さが一番だった。
「結局、買うのは新刊なんだ」
「前からほしいと思っていたやつだから……」
帰りの道に出ると、太陽はだいぶ高度を下げていた。夏真っただ中のため、空の端は紺に染まり始めてはいないが、うなじを焼く陽光が明らかに柔らかくなった。
いい一日だった、と思う。本というものの力を感じられた。そうして、私は何度でも気が付かされるのだ。自分が、書籍と呼ばれるものを本当に愛していることを。物語を、心の底から愛していることを。それに触れることが、生きがいの一つであることを。
どうして、今まで忘れていたんだろう。幼少期から、本を読むことは私の唯一の楽しみであった。両親の影響を受けて始まった経験ではあったが、今となっては、私を構成する唯一の夢中になれるものだ。
「楽しかったね」
「そう? ならよかった」
正直、本好きなら必ず気に入るとは限らないから、少し博打だったんだよね、と菅原くんは付け加えた。
「そうなの?」
「そう。だって、あの辺決して綺麗とは言えないし、そもそも今のエンタメ小説とかを読みたいなら、わざわざ古書店に行く必要ないだろ」
確かにその通りだ。
「でも、すごく楽しかったよ。世界には、こんな風に面白い本があるんだって……物語の歴史を感じられてよかった。今度は何か買いたいな」
「はは、気に入ってくれたならよかった」
私たちは、昼に辿った道のりをゆっくりと逆向きに辿って行った。終わりが近づく。斜陽に近づいた太陽が、その事実を私の背中に刻み付ける。この後どうなるのだろう。プレゼンテーションは終わってしまった。私たちは、話をする理由もなければ、会う理由なんてもっとない。今までと同じように、必修の授業の教室でだけ顔を合わせるようになるのだろう。そんな風に緩やかに切れていく関係を、寂しいと思ったのは初めてだった。電車の規則的な揺れに体を委ねながら、私はつらつらと考えた。最後は何を伝えたらいいんだろう。好きだとか、そういうものじゃない。もっと何か、自分勝手な言葉ではないもの。この気持ちは何だろう。憧れであって、恋であって、でも、私が伝えたいのはそんなものではない。言葉を手繰り寄せようとして、何一つうまくいかなくて、膝の上の手を握りしめる。私は、自分の言語を操る力に半ば失望していた。
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