覚醒(2)

 前期の英語の授業も終盤に差し掛かったある日、私たちは初めて一緒に帰った。どちらかが誘ったということはなく、なんとなく流れで駅まで歩いただけだ。こうやって誰かと歩くのは大いに久しぶりで、何だか奇妙な気持ちになる。私は、菅原くんを異性としてというよりは、数少ない友達として大切にしていた。彼は、踏み込んだ発言をしない。下卑た笑い声も出さない。遊びの誘いを断る必要もないし、自分との違いを意識させられるようなことも、頭脳面以外では、今のところなかった。


「いやあ、プレゼンうまくいきそうでよかった」

 菅原くんは、両腕を上空に伸ばしならそう言った。夏休みの近づいた辺りは、彩度が上がって、全てのものが斜陽を反射してきらきらと輝いている。私は、額に浮いた汗を拭いながら答えた。

「うん……菅原くんにはすごくお世話になっちゃったなあ」

「そんなことないよ。伊野さん仕事丁寧だし、きちんと伝わっていないところは質問してくれるし、助かる」

 そんな風に言われたのは初めてで、私は少し驚いた。

「いやいや、作業は好きでやっていることだし……分からなかったら初めに聞いておかないと、後で上手くいかなくて、怒られるから……」

「別に怒らないでしょ」

 菅原くんは少し首を傾げた。菅原くんはとても寛容な人だ。他人にはあまり興味を示さないが、代わりに他人に対してノーを突き付けることもない。


 私は、小さなころから怒られることがひどく嫌だった。両親や先生、友達……少しでも誰かに怒られると、なぜか涙が出てきた。私が悪かったと反省しているのに、体は震え続ける。それが火に油を注ぐようになってしまい、一層怒られたり、後で情けない奴だと言われたりするようなことが増えた。涙を止める方法は、ずっと分からなくて、代わりに怒られないようにするための術を身に着けた。つまり、先回りして怒られないように準備しておくのだ。やれと言われそうなことをやっておく。間違えたらまず謝る。私は、いつしか真面目と言われるようになっていた。


 うなじをなでる生ぬるい風が、頭をくらくらと揺さぶる。夕方になっても、まだ暑さは健在で、私たちは重くなった足をのろのろと引きずっていた。

「今週もやっと終わりかあ」

 菅原くんは満足げに言った。大学の一週間は長い。後期になって、実験が始まったら、なおさら長く感じるか、もしくは課題に追われて逆に時の進みが早くなるかのどちらかだろう。

「……週末は何かあるの?」

 そう尋ねると、彼は首を横に振る。

「別に。多分ずっと家にいるかな」

「菅原くんは、普段家にいるときは何をしているの?」

 そういえば、私は彼について何も知らない。なんとなく気分がよかったこともあり、私は続けて質問した。

「うーん、特に何かしているわけじゃないけど。本読んでるか、ゲームしてるか、動画見てるか、勉強してるか。ああ、でも最近はちょっと面白い研究見つけたからそれを追ったりもしてるけど」

 だいぶ数が多い。

「前、プログラミングみたいなこともしてなかった?」

「ああ、よく覚えてるね。入学したばかりのころはまってたんだけど、一通りやっちゃったからもうやってないや。またやらないと忘れるな」

 菅原くんは頭を掻く。私は、圧倒されて言葉を失ってしまった。

「いろいろ、やってるんだね……」

「数が多いだけ」

 菅原くんは、ふいと横を向いた。何か気分を損ねるようなことを言ってしまっただろうか。私は、あたふたと考えて、でも結局何も分からなくて、黙り込んでしまった。


 私には、趣味と呼べるものがほとんどなかった。強いて言うなら、読書くらいだ。その読書も、高校生になってから、読む量ががくんと減り、大学に入ってからは、一冊も読んでいない。読むのが面倒になった、という言い方が正しいのかどうかは分からない。というよりも、もう、全体的に色々なことが面倒になっている。一人暮らしの部屋にはテレビはない。ゲームなんて、もっとあるわけがない。毎日、狭い部屋のベッドに寝転がって、スマホを見て、寝て、たまに勉強するくらいの生活しかしていない。あとは、きちんとやらないと母親に怒られる、家事。家を出たらやってみたいと思っていたことはたくさんあったのに、いざ家を出たら、それで満足してしまっている節がある。自分の行動力のなさ、もとい受動性にはほとほと嫌になる。


「伊野さんは?」

「え?」

「あ、いや、趣味とかないのかなって」

 変に聞き返してしまい、後悔する。せっかく気を使ってくれているのに、申し訳ない。菅原くんには、いつも迷惑をかけている気がする。

「ええと、本読んだりとか……? でも最近は読めてないし、あんまり趣味って言えるものはないかも」

 言いながら恥ずかしくなってきた。私には、本当に何もないんだ。大学に入って、家を出て、身近な友達をみんな失って、そうして初めて気が付いた。勉強くらいしかしてこなかったのに、その勉強だって菅原くんの足元にも及ばない。

「小説?」

「あ、うん。その年賞を取ったやつとか」

 もともとは、母親が小説賞を気にする人だったのが始まりだ。芥川賞も、直木賞も、去年までは全部読んでいたけれど、今年はもう読まないかもしれない。直木賞はともかく、芥川賞は癖が強いから、必ずしも面白いとは限らない。私は割と好きだけれど。

「伊野さんって感じ」

 なぜか、それが菅原くんの感想だった。

「おすすめの本とかないの? 俺、基本新書ばかり読んでるから」

「うーん、最近はあまり読んでいないからなあ……賞を取った作品だと、とっつきやすいのは直木賞とか、本屋大賞かな。エンターテイメント小説って言われている作品は、読みやすいと思うから。他にはミステリ系もおすすめかな」

 あらすじ見て気になるやつを読んだらいいと思うよ、と付け加えると、菅原くんは朗らかに笑った。何か変なことを言っただろうか。黙り込んでいると、彼はこう答える。

「いや、伊野さんがこんなに話しているのって初めて見たなと思って。そうか、そんなに面白いなら読んでみようかな」

 そういわれてみればそうかもしれない。私は、あまり自分から積極的に話すタイプではないから。尋ねられたことで、調子に乗ってたくさん答えてしまった。恥ずかしい。

「伊野さん個人のことって初めて聞いたかも」

 それはそうだろう。私は、自分のことをべらべら話さない。一気に二文以上話すのは、かなり久しぶりだ。緊張せずにすらすらと、という条件を付けると、本当に数年ぶりかもしれない。

「菅原くんのことも、なんだかんだきちんと聞いたのは初めてだよね」

「そうかな」

 そうだと思うよ、と返すと、彼は肩をすくめた。

「なんか色々話した気になってたな。伊野さん、きちんと話せるんだから、他の人とも話せばいいのに」

「それは菅原くんも同じじゃない?」

 間髪入れずに返すと、彼は苦笑した。

「手厳しいなあ。そうなんだけどね、俺は一人でも平気だし」

「でも、菅原くんと話してみたら面白いっていう人はたくさんいると思うよ」

 これは、私の心からの本音だった。始めは陰気な人かと思っていたが、全然そんなことはなく、むしろ程よく気さくで、しかも色々なことに造詣が深い。私は話すのが苦手なので、適度に確認を取ってくれて、たまに雑学を言うくらいしかしない菅原くんとの関係は、なかなか付き合いやすいものだった。

「そうかね」

 菅原くんの声は、いつもよりも少しだけ細くなったように感じられた。


 いつの間にか、駅の改札前に来ていた。私の家は、この線路の向こうで、菅原くんは電車通学なので、ここが分岐点だ。

「じゃあ、ここで」

 私がそう言って踵を返そうとすると、彼は、定期券のケースを握りしめたまま手を振った。

「じゃあ。それと、浩でいいよ」

 名字、あんまり好きじゃないんだ。そんな言葉が聞こえた気がして振り返ったけれど、彼はもう改札口の中だった。

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