覚醒(3)
その日、私は家に帰ってから、ワンルームアパートの角にある本棚から本を取り出した。田舎から持ってきた、何冊かのお気に入りの本が並んでいる。私が手に取ったのは、いじめられている女の子が、とある不思議な出来事に巻き込まれ、そこで出会った友達と共に、前を向いて歩きだすという物語だった。
私の家には、娯楽が少なかった。テレビゲームはもちろん、漫画は家に一冊もない。アニメを見ることもほとんど許されなかった。自分の家がどうやらおかしいと気が付いたのは、小学生になってからだ。周りの子供の話に、全くついていけなかったのである。そのため、今のように友達が皆無だったわけではないが、友人の輪は狭かった。もともと内向的であった私が、小学生時代に最も話をしたのは、図書室の司書の先生だろう。
本が好きだったのか、と聞かれたらその答えはイエスだろう。けれど、今もそうなのかはよく分からない。本が好きというよりは、本を読むより他にやることがなかったのかもしれないとすら思うようになった。熱烈な気持ちはそこにはないのだ。私は、いつもそうだった。受動的で、内向的で、自分からは何も決められない。今だって、誰かが私に声をかけてくれるのを待っている。
私と菅原くんは、同じようで全く違う。私は彼のような一匹狼にはなれない。
本棚に並んで薄く埃をかぶった本を眺める。膝の上に置いた一冊の表紙を掌でなぞった。
この本を読んで、私は何を思ったのか、そういった類のものはほとんど忘れてしまっていた。ストーリーラインだけは、ぼんやりとだけ覚えている。私はそういう人間だ。
もう一度読んでみようか。
生まれて初めて、そう思った。私は基本的に、一度読んだ本をもう一度読むことはしない。けれど、菅原くんにおすすめの本を尋ねられて、きちんと答えられなかったのが、なんだか悔しかった。どうせ人に薦めるなら、内容も感想も分かった状態で薦めたい。昔、数少ない友人の一人に、「ひかりちゃんって、細かいこと気にしすぎじゃない?」と苦笑されたことが脳裏に翻ったが、今回はそんなことは忘れることにする。
床に座って、手に取った一冊をはじめから読み進める。久しぶりの、視線を活字の上で滑らせていく感覚は、妙に心地よかった。
ピンポーン。
どれくらい時間がたっただろうか。インターホンが鳴って、私は顔を上げた。手元の本は、半分以上のページが右手の中に納まっていて、硬い床にそのまま座っていた私の腰は悲鳴を上げる寸前だった。
「うう」
凝り固まった背中を伸ばしながら、私は玄関に向かう。
「はい」
のぞき窓の向こうに見えたのは、運送会社の人だった。いつも、私の家に実家からの荷物を運んでくれているおじさんだ。印鑑を片手に鍵を開ける。
「ご実家からですよ」
「いつもありがとうございます」
受け取った段ボール箱は、両手できちんと抱えないと持てない大きさだった。重さから考えるに、野菜だろう。地元の母の実家は農家で、しょっちゅう規格外の野菜が送られてくる。自由なお金が多いわけではない一人暮らしにとっては大いに助かる話だった。玄関の鍵をなんとか閉め、荷物を下ろして封を切る。
緩衝材の上に、桃色の封筒に入った手紙が乗っていた。持ち上げてみると、まあまあ分厚い。母が書いたのだろう。父は手紙なんて書いているところを見たことがない。この手紙は、毎月二回は送られてくる荷物には、必ず入っている、今となっては恒例行事だ。しょっちゅう電話をしているのに、毎回几帳面なことだと感心する。
ハサミで封を切って、本文を読み進める。毎回、私の健康を気遣う言葉から始まって、両親と祖父母の近況報告、そして、私の近況報告を促す言葉が並んでいる。近況報告を読むのは好きだったが、私への言葉を読むのは少し苦痛だった。料理、掃除、洗濯をきちんとやるように、という言葉はもちろん、早く寝ないと健康が損なわれるとかいうことも書いてある。そんなの分かってるし、ということを逐一口に出して注意してくるのは、母の昔からの癖だった。とはいえ、一番憂鬱なのは、規則正しい生活や金銭管理の話題ではなかった。そう、交友関係の話題である。未だ、友人が大学に一人しかいないという危機的状況にある私は、この話題を避ける方法について、ここ三、四か月頭を悩ませてきた。私は、友達がいなかろうが、少し憂鬱なだけだが、母親の方としては心配極まりないだろう。とはいえ、菅原くんのことを包み隠さず書いたら、それはそれで心配されるような気がする。最初にできた友達が異性だなんて聞いたら、母は失神しかけるに違いない。
返事を書くか……。いや、その前に野菜を冷蔵庫にしまわなくては。
私は、重い腰を持ち上げて立ち上がった。
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