反旗(1)
いよいよ、プレゼンが来週に迫ったというとき、
『俺、来週忙しいから、明日か明後日には読み合わせまでしたいんだけど、どうかな?』
というメッセージが送られてきた。通知が来なくなって久しい私のスマホが震えるのは、最近は菅原くんから連絡が来るときくらいだ。私は、すぐにアプリを開いて返信する。
『いいよ。いつどこに集まる?』
『明日の五限のあと、空いてる?』
五限は必修の化学だったはずだ。
『空いてるよ』
『じゃ、それで。場所は五限やる階のロビーでいいかな』
スタンプを返して会話を終わらせるかどうか迷って、私はもう一つの選択肢を選んだ。
『いいよ』
『それと、よければ数学を教えてほしいんだけど』
一瞬間があって、次のメッセ―ジが画面に表示された。
『いいよ。教科書持っていく』
助かった。私は、心の中で万歳をした。推薦で悠々と入学し、真面目に勉強している私だが、正直なところ厳しさもある。根本的理解のためには、どうしても誰かの助けが必要だった。菅原くんは、私が今まで出会った人の中ではかなり頭がいいから、うってつけの役だ。
次の日、私たちは大学構内で集合した。電車に乗って二駅。駅に隣接したショッピングモールの一階に位置する、ハンバーガーが有名なファストフード店に入る。こういうところに来るのは、初めてかもしれない。マットな白色の壁に、時折混ざるカラフルな掲示物。テーブルは黒と白の二種類で、カウンターでは原色のユニフォームに身を包んだお姉さんが、笑顔で商品を渡していた。私たちは、それぞれコーヒーと軽いお菓子を購入する。私は、見様見真似で菅原くんと同じものを注文した。
菅原くんが選んだ席は、店の一番壁側、窓の外からは絶対に見えない場所だった。少し手元が薄暗く、空気がわだかまったようなその席は、初めてくる場所にしては心地よい。菅原くんがここを選んでくれたことに感謝しながら、私は奥のソファ席に腰を下ろした。
「じゃあ、読み合わせしちゃおうか」
原稿の日本語版を書いたのは私だった。翻訳は、辞書と菅原くんの訂正に頼り切ったので、胸を張れるわけではないが、何かしら力になれることがあってよかったと思う。
読み合わせと資料の手直しは、一時間程度で終わった。予想通りだ。資料の出来も、二人の読みもほぼ完璧と言って問題ないだろう。菅原くんには頭が上がらない。トピック探しから、資料構成、原稿作りと、全ての段階において、菅原くんがいなければこんな風にスムーズにできるはずがなかった。
「じゃあ、数学やる?」
私は頷いて、教科書を取り出す。計算方法は分かるけれど、原理や証明がさっぱり分からない単元を、まとめて解説してもらえたらいいなというのが私の勝手な願いだった。
「うわ、教科書すごいね」
菅原くんは、やや面食らったように私の教科書を見下ろした。ところどころ付箋がつけられて、定理には線を引いた教科書。私は、昔からこういったところだけは几帳面だった。
「で、どこが聞きたいの?」
「ええと……優先して聞きたいのはピンクの付箋のところだから」
了解、と言って彼の手が、私の教科書を持ち上げた。筋張った、どちらかと言えば痩せた手。視線を教科書に落とした彼は、ふとこちらを見て尋ねた。
「え、もしかして、優先してってことは他にも聞きたいところがあるの?」
私の教科書には、大体三色の付箋が付いている。ピンクは最優先で誰かに聞きたい疑問。黄色は頑張ればわかりそうな疑問と、最悪の場合分からないままでもよい疑問。そして最後の水色は、すぐに開けるようにしておきたい重要なページだ。
「え、あ、うん。そうだけど、でも他は数が多いから……」
別にいいよ、という前に、菅原くんは教科書を置いた。
「そこも教えようか? 多分教えられると思うけれど」
「いや、そんな! 時間かかっちゃうよ」
私は勢いよく首を振って断ろうと試みる。ここ最近で一番大きな声が出たような気がした。そこまでお世話になってしまったら、非対称な関係性すぎる。そんな状態では、こちらが居心地が悪くなってしまうではないか。
「別にいいよ。特に用事もないし。家に帰ってもどうせテレビかネット見て終わるから」
ここにいて伊野さんと勉強していた方が生産性のある時間だよ、と菅原くんは笑う。
「そっか……」
その笑顔に丸め込まれてしまい、私はソファに座りなおした。どうしてか分からないが、菅原くんの言葉には不思議と棘がなかった。普段なら、謙遜のふりをした傲慢だとか、言外に込められた悪意があると思ってしまうような言葉も、菅原くんのものなら信じられる。それは、彼の、曲がった背中とは対照的な、まっすぐで自分を持った生き方のせいなのかもしれなかった。
菅原くんは、案の定教えるのがうまかった。私に分かったかどうか確認しつつ、ポイントを押さえて手短に解説してくれる。時折、問題を解く時間も与えてくれたため、その場で演習方法の確認も出来た。私が演習をやっている間、ずっと何かのレポートを書いている彼を、そっと盗み見る。タダでこんなに教えてもらっていいのだろうか。むしろこちらが心配になる。
最後の問題が終わる頃には、午後八時を優に回っていた。
「うわ、もうこんな時間か」
私も菅原くんも、夢中になると時間を忘れるタイプだったようだ。現在時刻を自覚すると、お腹が空腹を訴えてくる。
「俺はここで夕飯食べていくけれど、伊野さんはどうする?」
私は、今月の残りの食費を計算した。大丈夫だ。そもそもお金を使うような生活をしていないので、ファストフード店で一度食べるくらいの金額は、難なく捻出できるはずだった。
「私も食べてから帰ろうかな」
「じゃあ、各自注文で。先に注文してきていいよ、俺ここで待っているから」
そう言われて、私は面食らった。注文してくる? ああそうか、自分でカウンターに行って購入するということか。
「メニューってないんだっけ……」
私は自分の座っているテーブルの上を見渡した。乗っているのは、二つのコーヒーのカップだけ。これでは、何を注文したらいいか分からない。
「え、注文カウンターにメニューあるだろ」
「だって、先に選んでいかないとパニックになっちゃうから……」
私は本当に会話が苦手なので、いきなりその場でメニューを決めるのはきつい。
「いつも頼んでるのとかないの?」
「き、今日初めて来た……」
え、と菅原くんは割と大きな声を出した。あまり大きくない目が見開かれて、少しうろたえたようにこちらを覗き込む。
「嘘だろ」
「本当です……」
菅原くんは、スマートフォンを操作して店のメニュー一覧のホームページをこちらに見せた。
「おすすめはある?」
「一度も来たことがないなら、オーソドックスなハンバーガーを食べておいたら?」
彼は苦笑しながら、メニューの一番上を指さした。
「ドリンクとポテトが付いてるセットがあるんだよ。一応会計ついて行くよ」
店内はすっかり空いて、喧騒から遠ざかっていた。私たちは、いったん席を片付けて、夕食を注文して戻ってくる。当然のように、一度立った席は空席のままだったので、そのままそこに腰を下ろした。
緑色のトレイの上に、店のロゴマークが印刷された紙に包まれたハンバーガーが乗っている。その隣には、ポテト。飲み物は、先ほど無理をしてコーヒーを飲んだので、アイスティーにした。
「いただきます」
ハンバーガーの温かさをほんのりと通す包み紙を開く。小麦色をしたパンの間に、レタスやトマト、ハンバーグが挟まっているのが見えた。食材の匂いに混ざって、少し強いケチャップソースなどの香りが鼻をつく。私は、温かい空気を思い切り吸い込んだ。
「本当に初めて食べるの?」
「うーん、一度くらいは食べたことあるかもしれないけど、こうやってお店で食べるのは初めてだと思う。うちは、基本的ファストフード食べないから」
おっかなびっくり、ハンバーガーにかぶりつく。ふかふかしたパンがきゅっと潰れて、肉汁が口の中に広がった。
「おいしい?」
目の前で、一つ目のハンバーガーを半分以上食べ終わった菅原くんが尋ねた。彼は、私よりも大きいハンバーガーを二種類買っていた。
「うん。でもちょっと味が濃いかな」
ケチャップソースと、酸味の効いたオニオンソースが混ざった味は、私には馴染みのない刺激だった。しかし、総合的にはかなりおいしい。慣れたら、かなり癖になりそうな味だった。
「伊野さんは料理は薄味派なんだ」
「薄味派というか、母の料理がそうだったから」
私の母親は、かなり料理に凝った人間だった。手の込んだ料理をするのが好きで、食材にもこだわりがある。さらに、健康志向のため、調味料やその配合にも気を遣っていた。母は、ファストフード等のジャンクな食品を嫌っており、父も外食をするお金は無駄だという思考だったため、私には外食の記憶、特に庶民レベルの店に行った記憶があまりない。
「伊野さんってもしかして箱入り?」
菅原くんが苦笑した。彼の細くて、決して目つきがいいとは言えない目が細められる。
「もしかしたらそうなのかも」
「家、厳しそうだね」
「厳しいというより、両親が心配性なのかも。一人で遊びに行くなんて危ない、クラスの友達は基本信用してはいけない、健康には気を遣って生きなくちゃいけない、とか」
私の家は、一般的に言う「過保護」な家庭だった。それに気が付いたのは、小学校中学年の時だ。放課後に遊びに行くときは、一週間前から母親に予定を打診しなくてはいけなかった。毎日、今日の休み時間は誰と何をして遊んだのか、根掘り葉掘り聞かれた。ゲームやスマホ、スナック菓子など、健康を害する恐れのあるものは、ことごとく遠ざけられた。未だに、ゲームセンターには一度も行ったことはない。その代わり、雨の日の通学は送り迎えだった。そんな生活をしていたから、私はクラスで浮いていた。小学生という生き物は、とても排他的だ。楽しい時間を共有できない人間を、コミュニティに入れてくれるような世界ではない。私立の中高一貫校に入学してからは、人間関係は少し良くなったが、やはり厳しすぎる家庭だと揶揄されることはあった。
これらの過保護を先導しているのは、基本母だったが、父も反対している様子は見受けられなかった。むしろ、「我が家のルール」への違反を見つけた時には、母よりも厳しかったと言えるだろう。寡黙な父と、時に饒舌な母がどうして結婚したのか謎だと思っていた時期もあったけれど、年を経るにつれて、二人の「こだわり」に共通点があることに、私は気が付いた。
「ええ……それはかなり厳しいね」
目の前の青年は、面食らっているようだった。いつもは歯切れのよい返事を返す菅原くんがもごもごとしゃべっている様子が面白くて、私は笑みをこぼす。
「そうみたい。そこで育ってきたから違和感を感じてはいなかったんだけど」
高校生の時も、時間割を把握されていたので、寄り道をすると怒られた。それ以前に、スマホの位置情報アプリで、不審な行動は管理されていた。別にそれでも構わないと思っていたのだ。両親の厳しい方針が、私に不利益をもたらしたことはほとんどなかったからだ。友達はたくさんはいらない。ゲームをしたいとも、寄り道をしたいとも思わなかったし、食事に至っては健康体になれる食事の方がいいに決まっている。
「カップラーメンとかも食べたことなさそう」
「ないかもねえ。ゲームも持っていなければ、ゲームセンターに行ったこともないよ……テレビも基本ニュースしか見なかったし」
私がそう答えると、菅原くんは渋い顔をした。
「ええ、なんか俺の毎日の生きがいが結構削られていくんだけど」
「別に、あんまり困らないよ」
「そうかあ、まあ、確かになくても生活はできるよね。それこそ本を読むとか」
私は、私の家族のことが好きだった。毎日に不満はなかった。けれど、友人には「ひかりちゃんの家っておかしいよね」とよく言われた。そう言われてしまうと、居心地が悪かった。そんなにみんなと同じでなくてはいけないのか。だから、菅原くんが、私の生き方を否定しなかったのが、少しだけ救いだった。
私は、ハンバーガーにもう一度かぶりつく。おいしい。一つしか買わなかったことが悔やまれる。ついでに、原型がない細さに成形されたポテトを口に放り込む。塩味の効いた黄金のそれは、背徳の味がした。
私は、ずっと、俗世的な生き方を否定して生きてきた。そうするように、躾けられてきた。けれど、こうやって、いざそちら側に回ってみると、自分がどんどんそちらに引っ張られていくのを感じる。窓の外の紺碧の空を眺めながら、たった一人の友人と食べる油だらけの夕食が、こんなにおいしいだなんて、両親は知らないだろう。どうしてこんなに心惹かれるのか、それを言語化する手段を私は持たなかった。
「おいしいね」
思わずそう漏らす。菅原くんは、二つ目のハンバーガーに取り掛かっていた。
「それはよかった」
菅原くんの声は、心地よく耳に馴染む。大げさすぎない表情だとか、理路整然とした言葉の中に見えるほんの少しの感情だとか、そういうところが彼と居て過ごしやすい理由だった。
ふと、この人とだから楽しいのかもしれない、と思った。
聡明で、奔放で、でも穏やか。眩しくて手の届かない存在。隣に並ぶことのできない存在。でも、その眩しさは太陽のような仰々しい眩しさではなく、月光のような柔らかさを孕んでいる。
上京し、一人暮らしを初めて、私は自由になった。いや、違う。それまでが自由ではなかったことに気が付いた。気が付いたとはいえ、これからどうしていけばよいのかは全く分からなかった。そんな私の目の前に現れた菅原くんは、憧れだった。こんな風に生きられたらと思った。私は、小さなころから、友人に理解されない人生を送ってきた。家族を愛して、家庭のやり方を認めていたけれど、どうしても「友人に認めてもらえない」ということがしこりになっていた。他人から認められないことを、真っ直ぐに信じられるほど、私は強くなかった。大学に友人がいないことを恥じていた。世間では、「友達百人できるかな」という歌が流行るくらい、友人は持つべきものだとされてきたからだ。
しかし、菅原くんは違った。彼は、孤独を恥じていないようだった。しかも、他者を拒絶するのではなく、私のような周囲の人間には、手を差し伸べられる人だった。私は、彼に救われたのだ。彼の生き様を見ているだけで、強くなれたような気がした。こうありたいと思える人に、生まれて初めて出会った。
「伊野さんのファストフードデビューがいい思い出になりそうでよかったよ」
ああ、それでも。私はこの人に渡せるものがないのだ。手が届かない。隣には並べない。私には何もないのだ。両親の構築する世界で、受動的に生きてきた私には。
その時、椅子の上に置いた私のカバンの中から着信音がなった。穏やかな恋愛ソングの着信音。母だ。
「鳴ってるよ」
もうそんな時間か。母親は、いつも夜九時前後に電話をかけてくる。これまでは欠かさず出て、毎日近況報告をしていた。例の如く、交友関係について聞かれるので憂鬱なわけだが。
「うん、でもいいや」
そうなの? と菅原くんは首を傾げた。よくはないだろう。おそらく怒られる。でも、今日の私はなんだか気分が良くて、母に怒られることなど怖くなかった。大体、大学生にもなって毎日連絡しなくちゃいけないなんておかしな話ではないか。今はおいしい食事の際中なのに。そんな意識が、私の中に頭をもたげる。
「ならいいけど」
菅原くんは肩をすくめて、セットドリンクのコーヒーに口をつけた。
しばらくすると、携帯電話は鳴りやんだ。母親からの電話を取らなかったのは、これが初めてだった。
「そうだ、伊野さん本が好きって言ってたよね」
「うん」
突然話が変わって困惑する。私は、ポテトを口に突っ込んだまま彼を見上げた。
「前期の試験が終わったらさ、神田に行こうよ」
「神田?」
「古本屋が沢山ある。あんまりきれいじゃないけど」
菅原くんは、珍しいものがあるんだよな、本がなんでも好きなら面白いと思うけれど、と付け加えた。
ああ、そういえばそんなことを聞いたことがある。小さなころ、本屋が沢山並んだ場所が東京にはあると聞いて、いつか行けたらと思ったことを思い出す。
あの日、菅原くんが私に趣味を聞いた時から、私は五冊以上の本を読んだ。区の図書館の利用カードを作って、文豪の作品からエンタメ小説まで、色々な作品を読んでいる。活字を追うのは楽しい。物語は、私を遠くに連れ出してくれる。世界は広くて、希望に満ち溢れていると教えてくれる。一人で冒険した気持ちになれる物語が、私は好きだったのだと、鮮明に思い出す。
「行きたい!」
少し大きな声が出てしまった。前身を乗り出す私を見て、菅原くんの表情はやや明るくなったように感じられた。
「よし、じゃあプレゼンが終わったら予定立てよう。お互い頑張りますか」
私は、大きく頷いた。何かを返せるとか返せないとかじゃない。今は、この人と楽しめる時間を、精一杯楽しむべきなのではないかと、そう思った。
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