反旗(2)

 結局、そのあとも少し話をして、家に帰りついたのは十時に近くなったころだった。こんな時間に一人で外を歩いたのは初めてだ。悪いことをしているわけではないのに、なんだかドキドキする。先ほどまで口の中に広がっていた庶民の味は、最後にアイスティーを飲んだため消え去っていたが、ふわふわした足取りに余韻は残っていた。

 薄暗くて無機質な玄関を入って手を洗い、湯舟にお湯を張り始めた。それから、洗面所で歯磨きをする。今日はきちんと磨かないとまずいだろう。死ぬまで歯はきれいなままでいたい。


 口をゆすいで、風呂が入るのを待とうとキッチン横のスツールに腰を下ろしたところで、着信音が鳴った。バラードのラブソング。母の好きな一曲。

「もしもし」

 夢から覚めつつある私は、電話に出ざるを得なかった。

『ひかり! こんな時間までどこに行ってたの!?』

 開口一番に聞こえてきたのは、母の心配と憤怒の混ざった怒号で、私は思わず携帯電話を耳から離した。

「ごめんごめん、ちょっと友達と課題をやってて」

 嘘は言っていない。

『課題? ショッピングモールで?』

 背筋が冷えた。そうだ、どうして気が付かなかったのだろう。私は、両親と位置情報を共有している。十時近くまで、ファストフード店にいるなんて、母親にばれたらどうなるかわかっていたはずだったのに。私は、菅原くんと一緒にいると、つい気が大きくなってしまう自分を心の底から殴りたくなった。

「そう。店でやってたの」

 私は、携帯電話を握りしめてゆっくりと返す。とりあえず、菅原くんが異性だということは隠しておこう。根掘り葉掘り聞かれたら面倒だ。ばれないようにやらなくては。これが、ビデオじゃなくてよかった。顔を見れば、両親には、私が何か隠していることがあると分かってしまうだろうから。

『どんなお友達なの? 夜遊びとかしている悪い子じゃないんでしょうね?』

 始まった。いつもそうだ。母親は私の友人を品定めしてくる。一体誰に、他の人間を品定めするような権利があるだろう。私だって、確かに学科の人々を、下品だとか勉強ができないとか感じることはあるけれど、あくまでそれが主観だとは分かっている。

「いい子だよ。菅原さんっていう、すごく勉強のできる子で、教え方が分かりやすいの」

 なるべく明るい声で、そう答える。手が震えて、携帯電話がずり落ちそうだった。怖い。母がきっと、菅原くんのことを悪く言うのだろうと考えると。私は両親に反抗できない。もう会うなと言われてしまったら、以前のように楽しく会うことは不可能になってしまう。例え、こっそり会い続けても、きっとその間、罪悪感を感じ続けることになってしまう。

『こんな時間まで、女の子二人でいるなんて危険じゃない。そんなことも分からない非常識な子なの?』

「非常識じゃないよ。私が、無理を言って、たくさん教えてもらってたの」

 大丈夫、大丈夫だ。ゆっくり話せばきっと、分かってくれる。私はもう大学生だ。自分のことは自分で決める。菅原くんのように、一人でも毅然と前を向ける人間になりたい。その一歩を、踏み出さなくてはいけない。

『その子は、十時頃まで遊んでいて大丈夫なの? 明日だって、必修の授業が一限からあるじゃない。親御さんは心配しないの?』

 それに関しては、おそらく菅原くんは大丈夫だろう。特に彼は、実家の親にはほとんど放任されているようだから。

「大丈夫だと思うよ」

『本当に? 大学って、怖いところだから気をつけなさいよ。ひかりが何かトラブルに巻き込まれるのも嫌だけど、お友達を巻き込むことになっちゃうのも怖いでしょう。とにかく、こんなに遅い時間まで遊ぶようなことは駄目』

「……遊んでいた訳じゃない」

 私がぼそりと呟くと、電話越しにため息が聞こえた。

『友達と勉強なんて、遊んでいるようなものです。勉強っていうのは一人でやるものなのよ……ちょっと、お父さんも言ってあげて』

 一体どうして、そんな風に自分こそが正しいと思えるのだろう。両親は、がちがちに固まった二人のルールの世界でしか、物事を見られないのだろうか。


『ひかり』

 電話越しに、低くて重い声が聞こえる。父だ。電話で話すのは久しぶりな気がする。

『ひかりは意識したことがないかもしれないが、女性だというだけで危ないんだ。夜九時を回ったら、外には出歩かないようにしなさい。巷には変な大学生も多い。大学生活を、そんなくだらないことで棒に振りたくないだろう?』

 くだらないことなのか。私が食べた夕食も、窓の外の灯りで白んだ夜空も、目の前で笑っていた菅原くんも。全部全部、両親にとってはくだらないのだろう。それでも、私にとっては、全部が宝物だ。自分の本当の気持ちに気が付けたその証だ。

 どうして、私の大切な人のことを馬鹿にするんだろう。どうして、私の大切な人の生き方を否定するんだろう。どうして、自分たちこそが正しいと思い込んでいるのだろう。それは、昨日まで、いや、菅原くんと出会う前の私もそうだった。でも、私は、同時に、その思想が自衛であることをも知っている。そう思わなければ、やっていけない時が、時にはある。


 本当は抱きしめたくてたまらないものを、蔑んで、糾弾して、愚かなことだと信じていた。友達はほしかったし、仲間に入れてもらえないのは嫌だった。俗な青春だって経験したかった。同時に、菅原くんのように孤独をものともしない姿勢にも憧れた。両親を愛している。でも同時に、そのやり方が招いた結果にやるせなさも感じている。人間は矛盾している。高潔でありたいと願うその心で楽に生きたいとも祈る。矛盾を受け入れることは難しい。だから、頑なになる。

 私の心を解いたのは、菅原くんだった。彼の潔さと、適当さのバランスが、私の心を照らした。そうして、本当に好きなものまでも思い出させてくれた。そんな人のことを、悪く言わないでほしい。私の大好きな両親には、特に。

 ああそうか、と思った。私は、菅原くんのことが好きなんだ。何も返せなくても、どうして彼が私なんかに手を差し伸べてくれるのか分からなくても、この気持ちは変わらない。強くてまっすぐで、そして優しい。そんな彼のことが大好きなんだ。だからこそ、こんなに悲しい。こんなに腹が立つ。

「くだらなくないよ」

 私は、菅原くんの笑顔を思い出しながらそう言った。ゆっくりと、腹に力を込めて。

「大事な友達なんだ。私の大切な友達のことを、よく知りもしないで、悪く言うのはやめてほしい」

 父に反抗するのは、ほとんど初めてと言ってよかった。母親には何度か反抗したことはあるが、毎回、母に加勢する父に気おされて、結局は刃を収めてきた。

『知りもしないで、というけど、ひかりだってその子のすべてを知っているわけじゃないだろう』

「そうだよ。私は、お父さんとお母さんの全てすらも知らない」

 携帯電話を持った右手は、まだ震えていた。悲しみ、恐怖、怒り、そして興奮。左手を添えて、私はこう返答する。

「でも、これから知っていくんだ。知っていきたいんだよ。私は、もう、何でも拒絶したくないんだ」

 私は、父の返答を聞く前に、電話を切った。そんなことをしたのは、人生で初めてだった。床に座り込んで、息を整える。


 ねえ、菅原くん。

 私はあなたに近づけただろうか。これでよかったのだろうか。答えはない。それでも、今までよりずっと、彼に近づいたような気がした。

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