月光と箱庭
藤石かけす
覚醒(1)
私が彼と初めて会話をしたのは、英語の授業だった。金曜最後の授業であり、多くの生徒が、一週間の疲れにより気力を失っているか、週末に向けて上の空である状況はちょっとした地獄だ。事態の改善を図ったのか、先生は、ペアワークと称して、学生を二人組にして問題を解かせるようになった。ただでさえ楽しいことなどないのに、大学がより一層憂鬱になる。
二人組を作ろうという言葉は、小さなころから嫌いだった。私を一番に選んでくれる人はいなかったからだ。小中高の、友達がいる環境でもそうだったのだから、地方出身のため、知り合いの一人もいない大学ではなおさらだ。授業が始まって一か月以上、私は最前列で一人で授業を受けていた。勉強のやる気は人一倍ある。だが、生来の人見知りと話下手が不幸して、友達づくりには大いに失敗していた。
先生が、隣同士で座っている、髪を染めて肩の開いた服を着た女の子たちを二人組に指定していくのを見ながら、私はずっと英単語帳を見ていた。
「あなたはここね」
先生が指さした先は、教室の反対側、二列目に一人で座っている男の子の隣だった。
最悪だ。ただでさえ初対面の人が苦手なのに、どうして男子となんか組まなくてはいけないんだろう。灰色だった大学生活が、一気に、全部の絵の具を混ぜたみたいな曇った色に変わった気がした。
「あー、
その子の隣にまで移動した私に、彼は一瞥くれただけで、パソコンの作業に戻ってしまった。よろしくの一言もない。
「あ、ええと……
よろしくお願いします、とぼそぼそと呟くと、向こうは低く頭を下げてきた。やりづらいったらありやしない。私が言うのもなんだが、もう少し愛想よくできないものか。私は、もぞもぞと体を動かしてもう一度単語帳を開こうとした。
「おい、作業するんじゃないの」
急に声がかかって、驚いて飛び上がるところだった。
「あなたも……しようとしてないですよね」
思わず、間髪入れずに反論してしまう。彼は、少し目をみはって、ああ、と言った。
「確かに」
納得したように呟いて、彼はパソコンを閉じた。
「じゃあやるか。グループワークって面倒」
変な人だ。不愛想かと思えば、そうでもないらしい。
一瞬見えたパソコンの画面には、びっしりとプログラムコードが並んでいた。
その時のグループワークの内容は、今日の英文の和訳だった。授業の最後に、学期末の授業で、その二人組でプレゼンをしてもらいます、と教授が言った。生徒たちは
「あー、じゃあ、とりあえず連絡先交換しようか」
隣に座った青年が、スマホを差し出した。チャットアプリのプロフィールには「浩」と名前だけが表示されていた。アイコンは、単色のグレー。見た目と大差なく、地味で印象が薄い。私は、大学に入って初めて、誰かと連絡先を交換した。
菅原くんは、真面目とずぼらの混ざったような人だった。授業の内容は真面目に覚えているのに、授業中は堂々と寝ていることがある。メッセージの返信速度もムラが大きい。細い手足に、丸まった背中も相まって、なんだか猫のような人だと私は思った。
英語のペアワークは、菅原くんのおかげで何とかなりそうだった。菅原くんは、頭がいい。頭の回転が速く、物事の見通しを立てるのがうまい上に、ものをよく知っている。私は学科の中では、明らかに真面目な方だったが、いかんせん英語が苦手だ。その上、コミュニケーションをとるのも、段取りよく物事をやるのも苦手なのだから、ペアが彼でなければ、プレゼンが完成しなかった確率も高い。彼には頭が上がらないな、というのが、三週ほど一緒に活動してみた感想だ。
「イノベーションはさ、もともとは科学の言葉ではないんだよ」
菅原くんは、手に持ったシャープペンシルを回しながらそう言った。プレゼンのお題は「科学史におけるイノベーション紹介」だった。理系らしく、科学に絡めたプレゼンをさせたいようだが、私個人としては人文社会系にしてくれた方が助かった。ちなみにそれは、菅原くんの方も同じようで、「科学系の英語のプレゼンなんて、聞いてもお互いの専門用語が分からないだろ」と文句を言っていた。
「そうなの?」
「もとは経済用語なんだ。技術革新っていう訳が一般的だけど、原義は、経済システムを変化させる力を持つものを作ることだから」
だから、みんなが調べているものが必ずしもイノベーションに当てはまるとは限らない、と彼は肩をすくめる。
「まあ誤用も定着するときがあるし、仕方がないと思うけれど」
シャープペンシルの先が、プレゼンの計画を書いた紙をつつく。
「とりあえず、文献は集まったし、資料作る?」
「そうだね。じゃあ私は……一つ目の議題から」
私たちは、時折ぽつぽつと会話をしながら、作業を進めた。私は、もともとあまりたくさん話す人間ではない。菅原くんの方は、話題を振れば返してくれるが、こちらも冗長に話をするタイプではなかった。二人で作業をしている間は、沈黙が下りることが多い。けれども、決して気まずくなることはなく、むしろその静寂が心地よいほどだった。
私たちは、なんとなく、授業でも近くの席に座るようになった。特に示し合わせたわけでもなく、ただ三、四人用の席の両端に座って、ノートを取る。会話があるわけではないが、頭を下げて挨拶くらいはする。教室の前列両端を占領していたぼっちが固まっただけの話だ。
いつしか、外を歩くのに上着が必要なくなった。相変わらず女子の友達はできないし、昼食も一人だ。けれど、大学は、以前よりもずっと息のしやすい場所になっていた。
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