失楽園(2)
待ち合わせをした駅まで戻ってきた。電車の扉が開いて、私たちは押し出される。ここで乗り換えをしたら、この旅は終わりだ。
どちらも言葉を発しないまま、私たちは構内を進んで行った。私は、このまま三番線へ。菅原くんは、改札を出て他の路線に乗り換えて帰る。
「あれ浩じゃん」
その時、背後から声がかかった。菅原くんのことだろうか。反射的に振り向いてしまう。果たして、後ろに立っていたのは、菅原くんよりやや背が高く、ガタイのよい青年だった。
菅原くんの右手が身じろぎして、少しためらうように上半身が振り向いた。その顔からは、表情が抜け落ちてのっぺりとしている。いや、違う。血の気が引いているのだ。私は、菅原くんの手の平に食い込む爪を見つめた。
「……兄貴」
「珍しいじゃん、日曜に家出てるの」
菅原くんは黙ったままだった。私は、二人の間に挟まれて、何とも言い難いような位置に収まる。そんな私の不自然な動きに気が付いたらしく、青年はこちらに視線を流した。
「ああ、そういうこと」
菅原くんのお兄さんは、菅原くんよりもはっきりした顔だちをしていた。そこそこ見た目が良いと言っていいだろう。そんなことに興味はないが。それよりも、私は、私をみる彼の視線に耐えられなかった。ああ、この人は「強い」人だ、と思う。菅原くんの強さとは違う。他人に対して鈍感でいられる強さ。決して悪いことではない。自分たちの世界のルールを、他人も受け入れてくれると信じている人の強さ。人の強さは、常に愚かしさと表裏一体だ。その笑いには、彼の人となり、辿ってきた人生が顕著に表れていた。
「やあ、浩の兄の
爽やかな笑顔だった。きっと、他人に拒絶されたことなどないのだろう。私はため息をついた。面食いで、明るい男性が好きな女子ならすぐに落ちそうな笑顔。私は、どうしてもそういう人、価値観が苦手だった。それに、おそらくこの人は勘違いをしている。私は、菅原くんにとっては、ただの友達だ。
彼は、菅原くんの肩を抱いて耳もとに囁いた。
「彼女できてたなら言えよ。しっかりきちんとした女捕まえてるじゃん」
聞こえていますが。
そういう風にからったとしても、自分が嫌われることはないと分かってやっているのだろう。きっと、この人とは仲良くなれないだろうと思った。
「うるさいよ。だいたい彼女じゃないし」
「じゃあ何なんだよ。女友達とかいるようなタイプじゃないだろ。水臭いなあ、初彼女でうかれてるんだろ」
優さんは、心底楽しそうにそう言っていた。ああ、嫌だ。気持ちが悪い。どうしてこの人は、弟である菅原くんと感覚を共有していないんだろう。菅原くんは、こんな風に下卑た話はしない。絶対に。
「……気持ち悪い」
その言葉が、私の口から滑り出たのだと気が付くまで、長い時間がかかった。菅原くんが目を見開いてこちらを見て、優さんはぎょっとしたように動きを止めている。
まずいことを言ってしまったかもしれない。
ああ、そういえばそうだったと思い出す。私は、うまく話ができないから、口を開くと人の気分を害してしまうことがたまにあるのだ。
優さんは、スッと目を細め、眉をひそめる。皮肉なことに、そうすると、彼の顔立ちはやはり、弟に似ていた。
「なあ、浩。お前の言っていることを信じるんだけど、初対面の人にこんなことを言う女はやめた方がいいと思うぞ」
まあその通りだ。やってしまった。
優さんの言い方には棘があったけれど、私は何も反論できずにうつむいた。
「うるさい」
隣から、低い声がした。
「何も知らないで言うなよ。いつもいつも失礼なんだよ」
菅原くんだった。私は、こんな風な物言いをする彼を、初めて見た。おそらく、それは優さんも同じだったのだろう。その場の空気が、一瞬で鋭利で冷たいものに変わった。
「いつもそうだ。自分が色々知っている気になるなよ。実際に知ってるのかもしれないけど」
伊野さんに関しては、俺の方がずっと知ってるよ、と彼はそう付け加えた。その右手が、小さく震えている。噛んだ唇が、真っ青に近くなっているのが見えた。
私は、その言葉を心の中で反芻した。菅原くんは、私のことを知っていると言えるくらいには、私を知ろうとしてくれている。比較対象が初対面の人だから何の意味もないかもしれないけれど、それでも、嬉しくてたまらなかった。
そうだ。私はこの人のことが好きなのだ。私を知ろうとしてくれる彼が。私を外に連れ出してくれる彼が。そして、私のことで怒ってくれる彼が。
「行こう」
私は、菅原くんの手を取った。優さんが面食らったように呼び止めるが、私は振り返らず、ずんずんと進んで行って改札を出た。
「ちょっと待てよ、どこに行くんだよ」
この駅では何度か降りたことがある。勝手は分かっているつもりだった。
改札を出て、繁華街ではない東口に出る。少し走った先に、緑の看板が見えた。『レンタカー』と書かれたその看板を掲げた店に、私はずんずんと入っていく。
「え、おい、伊野さん! ちょっと待ってよ」
私に手を離された菅原くんは、面食らったように叫んだ。私は、それに構わず店員に話しかけた。
「あの、一台借りたいんですけど」
「はい、ではこちらに記入をお願いします」
私が、紺色のセダンの鍵を掲げて店の外に出ると、菅原くんは捨てられた子猫のような顔をして入口を見つめていた。
「どこか行こうよ」
今から? と力なく尋ねる菅原くんに、私は頷いた。
「伊野さん、免許持ってたんだ」
「田舎から来た指定校推薦の学生だから……入学まで結構暇な時間があったから、取っておいたの」
運転は、割と好きな方だった。一人でハンドルを握って、背後に流れていく景色を見ながら、音楽かラジオを聞くのだ。私の周囲だけに、ゆっくり流れる時間が存在する。
「あんまり今すぐ帰りたくないんじゃないかなあと思って」
「それは間違いないなあ」
菅原くんは、ゆるゆると首を振る。そんな彼を見たのは初めてだった。毅然と前を向いていた視線が、今は地面に落ちた黒い自分に注がれている。
「まあ、半分くらいは、私が腹が立ったからなんだけど」
私は、助手席のドアを開けて、そこに菅原くんを押し込む。自分は当然、運転席に乗り込んで、エンジンをかけた。緩やかに発進した車両に、縮こまって座っている菅原くんは何だか滑稽だった。
「なんか、兄貴がごめん」
菅原くんは、車窓に目をやりながらそう呟いた。
「ううん、こっちこそごめん。そんなに突っかかるようなことじゃないのに、なんだか腹が立っちゃって」
私は、ただ、真っ直ぐに、素直に生きられる人が羨ましいだけなのだ。分かっている。小さなころから、あっけらかんとした生き方ができなかった。人の顔色を窺って、でも、人と違う生き方をしてきたから、うまく取り繕うことはできなかった。だから、そういう生き方をしてきた人を妬んだ。人に気を遣わず、自分の意見を堂々と発して、それでもうまくやっていけると信じられる人。世界から愛されて育ったのだろうと思える人。
「ああいう風にからかわれたことってほとんどなかったから……なんか、びっくりしちゃって。嫌だなって思っちゃった」
私もぽつぽつと返す。
「お兄さんに、機会があったら謝っておいてほしい……あ、いや、でも気まずいか」
「なんか、伊野さんのそういうしゃべり方、久しぶりに聞いたなあ」
一人でたじたじとしていると、菅原くんは懐かしそうにそう言った。確かにそうかもしれない。出会ったばかりの頃は、いつもと同じように途切れ途切れに話をしていたけれど、今では二人の時はかなりすらすらと話をできるような気がする。
「俺もさ、なんかすっきりしたんだよ。自己満足でしかないだろうけど」
彼は、助手席の椅子に背を沈めた。車窓を、都会の喧騒が流れていく。きらきら、いや、ぎらぎらした世界は、ガラスを一枚通すだけでずっと遠くにあるように見えた。
「俺は、ずっと、兄貴には何にも言えなかったから」
あんな風に軽いけれど、いい兄貴なんだよ、と菅原くんは囁いた。
「だからこそ困るんだ。クソみたいな兄貴なら、何を言ってもいいと思える。でもそうじゃない。小さなころから一緒に遊んでくれたし、勉強も教えてくれたし、さっきみたいなのだって……多分、本当に俺に彼女が出来たら、一番に喜んでくれるのは兄貴だと思うんだ」
菅原くんの視線は、ずっと窓の外に向けられていた。車は、信号に引っ掛かって一旦止まる。私はその表情を盗み見ながら、空調の向きを調節した。
「でも、俺は、兄の好意を素直に受け取れないんだ。どうしたって、兄のようにはなれないから」
彼はえずくようにしてその言葉を吐き出した。
「ただの嫉妬なんだ。分かってる」
菅原くんは、シートの上で膝を抱えた。
「小さいころから、兄貴には何も勝てなかった。勉強も、運動も、他のことも。あの人は、天真爛漫で、努力家で、皆の人気者だった。さっきみたいに、無神経な時もあるけれど、いざというときには必ず人を導いていく力を持っている。対する俺はどうだ。勉強は得意だったけれど、兄には及ばない。友達は少なくて、運動は走ること以外は好きじゃない。どんなに努力しても追いつかないんだ」
私は、前を見据えたままハンドルを握る。隣の彼の身じろぎが空気を動かす。
「俺は兄貴みたいになれない。そんなこと、小学生のころから、俺には分かっていたんだ。けれど、周りはそうじゃない。あの、菅原優の弟なんだから、きっと素晴らしい人間なんだろうと、そういう目で俺を見るんだ」
小さなため息が空間に溶けていった。
「高校は何とか兄貴と同じところに滑り込んだけれど、そこでは底辺層だったし。息が詰まったよ。兄貴は二つ上だから、皆俺たちを比べる。爽やかで格好良くて人気者の菅原優の弟が、どうしてこんなに陰気で大して優秀じゃないのかって思っていたんだろう。少なくとも、教師はそう感じていたっていうのは、こちらにまで伝わってきた」
期待をするのは、いつも大人なんだ、と彼は零す。そういわれてみればそうか、と思う。私の両親だって、私に期待をしている。その期待を重いと思うようになったのは、本当に最近だったけれど。
「大学も、兄貴と同じところを受けたんだ。受かるわけがないって分かっていた。でも、挑戦はいいことだって両親が勧めるから、断れなかった。当然落ちて、俺は兄貴とは違うんだってことが証明されてしまった。両親はがっかりしていると思うよ。同じように育てたのに、どうしてこうなんだって」
菅原くんが、両親の期待を裏切らないように闘っていたということは、少し意外だった。孤高の一匹狼。世界に対して無頓着で、自分の筋を通しているその姿のメッキが、どんどん剥がれ落ちていく。月の裏側を、初めて見た時のような衝撃。この世界で、私だけが、彼の本当の姿を知っている。
私は、助手席のシートに丸まっている、青銅像のような彼に視線を向けた。
「これを機に、両親はきっぱり諦めたみたいだった。俺は、期待されなくなった。高校生までは、俺の家も割と過保護だったんだ。でも、もう、夜遅くまでふらついていても、部屋で一日中ゲームをしていても、何も言われなくなった……期待っていうものは、のしかかっている間は重いのに、ないと不安になるんだ。兄貴も、今までと同じように接しているつもりらしかったけれど、少し腫れものを扱うような態度になった。やりづらいったらありやしない」
辺りに、ゆっくりと夜の帳が下りてきていた。繁華街のネオンが菅原くんの頬に反射して、その表情の襞を隠していく。
「ずっと怖かったんだ。俺が、兄貴と違うことが完全に証明されてしまったら、どうなるのか。何かに打ち込んでもうまくいかないことが分かっているから、色々なことに手を出した。兄貴が、一生懸命部活動に打ち込んでいる間、俺は本とネットばかり見ていたんだ。今の興味関心の多さは、結局その名残だから、何も誇れることじゃない」
そんな風に言わないでほしい、と思った。ずっと静かに彼の独白を聞いていたけれど、少しずつ、口を出したくなってくる。どうして、そんな事を言うのだろう。私の好きな人のことを、どうしてそんなに悪く言うのだろう。
「毎日、何のために生きているんだろうって思うよ。大人になって、それが一層強くなった。俺がいなくたって世界は回る。それどころか、兄貴一人で替えがきく。結局、俺は何の役にも立てないから、悲しくて空しくてたまらなくなる」
「そんなことはないよ」
私は、心の中を吹き荒れる嵐を無理やり抑え込んで、穏やかに告げた。慰めではない。心の底からそう思った。
「そんなことあるわけがない。俺には価値がないんだよ。だから……」
「私にとっては、価値があるよ!」
荒くなっていく菅原くんの言葉をかき消して、私は叫んだ。
「今の私は、菅原くんがいてよかったって、本当に思っているよ。色々面白いことを教えてくれたことも、沈黙を気にしないでいてくれることも、私に、もう一度好きなものを思い出させてくれたことも、私に、勇気を与えてくれたことも、全部全部私にとっては本当に嬉しいことだったのに」
どうかお願いだ。そんな風に言わないで。私の好きなあなたは、強くなくても構わない。だけど。
面食らっている菅原くんに、私は畳みかけた。
「私は、浩くんのことが好きだよ。私にとっては、浩くんは世界に一人の、替えのきかない人なんだよ」
信号が赤に変わって、私はブレーキを踏んだ。ゆっくりと隣を見ると、私の好きな人は、唖然とした表情で、こちらの瞳を覗き込んでいた。
ずっと、強い人なのだと思っていた。でも、違った。繊細で素直で、全てを諦めてしまった人。それが、菅原浩という人だったのかもしれない。私は、彼に強くあってほしいとは思わなかった。ただ、自分の事を傷つけ続けるのはやめてほしいと思っていた。浩くんは、自分が思っているよりもずっと、素晴らしい人だ。優しくて、居心地がいい。
私は、出会って少し経った頃に、浩くんが「名字が好きではない」と言っていた事を思い出していた。もっと早く、浩くんと呼んでみればよかったのだと、ふと思った。
「なんだよ」
そんなの、と彼は言って、シートから足を下ろした。
「それじゃあ、足りない?」
私は、静かに尋ねた。足りないと言われたら、仕方がないと思った。私が返せるものは、この想いくらいしかない。突き返されるなら、おとなしくすごすごと去るしかなかった。それでも、満足だ。何も言うことなく、自然に関係性が消滅していくよりも、ずっとずっといい。私の言葉が、彼の心の夜空を照らす数多の星の光の一つになれば。
「……そんなことない。ありがとう」
信号が青になる。私は車を発進させた。浩くんの表情は、もう見えない。けれど、そのうつむいていた顔が、少し前を向いたことだけは、空気の動きから感じられた。
「なんかさあ、伊野さん、変わったよね。いい意味で」
始めは、おどおどしている感じだったのに、今ではすっかり色々言えるようになった、と彼は笑った。
「あなたのおかげだよ。浩くんが、私の話をゆっくり聞いてくれて、否定もしなかったから。自分も、思った事を言ってもいいんだって思えた」
私に、檻から出るという選択肢を教えたのは、浩くんだった。その檻は、美しい庭を模していた。ともすれば心地よくて、でもゆっくりと私を蝕んでいたのだ。それに気が付かせてくれたのが、浩くんだった。檻を壊すわけでもない、引っ張り出すわけでもない。それでも、檻の向こうから、私に手を振ってくれたことが、たまらなく嬉しくて、そちらに行きたいと思ったのだ。
「伊野さん」
「うん」
「ありがとう。本当に救われたのは、多分、俺の方だ」
そんな風に言ってもらえたのは初めてだ、と彼は付け加えた。照れくさそうに。
「ずっと、誰かにとっての価値になりたかった。なれないと思っていたんだよ。でも、こうやって、自分として生きているだけでそういうものになれるとは、全く思っていなかった」
本当にありがとう、と彼は頭を下げる。
「俺にとっても、伊野さんがいてくれてよかった」
車窓を流れる景色は、完全に濃紺に変わっていた。夜空の真ん中に、ぽっかりと浮かんだ月が、何食わぬ顔でこちらを見下ろしている。このまま帰るのは味気ない。どこかに行きたい、と思った。
「ねえ、浩くん。このまま行くなら、山と海、どちらがいい?」
「あはは、本当に帰らないんだ」
「帰らないよ。それとも帰りたい?」
浩くんは、いや、と首を振った。
これは逃避行だ。私たちは、ずっと閉じ込められていた。自分の心という名の檻。過去であり、家族であり、人間関係という名の檻。でも、今日、私たちはそれを破ることに成功した。私が唯一、彼に返せたのは、檻の向こうから手を伸ばすことだった。
「なら、山かな。海は両親の実家から近くて、見飽きたんだ」
「了解。一旦コンビニに車停めて、どこに行くか決めよう」
「変な感じ。死にに行くみたいだ」
そんな風なことを、浩くんが言ったのは初めてだった。私は、死にたいと思ったことがなかった。けれど、この人は、幾度もそう思って苦しんだのかもしれない。
「死なないよ。二人だからね」
私はそう答えた。これから先のことなんて分からない。けれど、今は、浩くんがいれば、世界は生きていくに値する素晴らしい場所だと思える。
「二人なら死なないんだ」
浩くんは、その言葉を反芻した。そうして、ふっと小さな笑みをこぼす。
「うん、そうだね」
この世界に生まれ落ちたばかりの私たちをのせて、夜空色のセダンは進んで行く。都心部を抜けた車のフロントガラスには、小さな光が灯りのように明滅して、その中心にはやはり、表ばかりを光らせてすましている月があった。
国道の左側に、ひときわ強い光を放つ看板が見えた。コンビニだ。私は、その光を目指して、アクセルをぐっと踏み込んだ。
さあ、どこに行こうか。二人なら、きっと、どこに立っていても、その景色は美しい。
月光と箱庭 藤石かけす @Fuji_ishi16
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