最終話 静寂の絆
深夜、丑三つ時の静寂を破るかのように、ひよりの姿を借りた悪霊が現れた。幼稚園の穏やかな空気を切り裂き、蛍火のようなその分身が、青白い炎を纏いながら、祈りを捧げる魔法陣へと舞い降りた。
ひよりの母は、その先頭に立ち、かつて娘が愛した小さなうさぎのぬいぐるみを握りしめた。彼女の目には、死を賭す決意と娘への限りない愛があふれ、震える声で呪文を唱えた。
「愛しいひより、耳を傾けて。母はここにいる。ひとりで逝かせてしまって、ごめんなさい。今宵、この場で、あなたの苦悩を解き放つから許してください」
その声によって、周囲の空気が震え、凍りつくような静けさが訪れ、魔法陣の光が一層強まった。魔法陣は、古代から伝わる禁断の呪文で描かれていた。その複雑な模様は、見る者の心を惑わせ、時にはその存在すら疑わせるほどだ。
突如、亡霊となった幼きひよりが現れ、母親の傍らに静かに寄り添った。だが、少女の瞳は深い悲しみに染まり、かつての温もりを失っていた。
「ひより、恐れることはない。母がともに行く。安らかな眠りへと……」
ひよりの母は、心の中で娘への別れを告げた。その言葉は、言葉にならないほどの愛情と、失われた時間への後悔に満ちていた。
母は涙を流しながら、亡霊の手を取った。
ところが、ひよりの亡霊は抵抗し、母親を魔法陣から突き放した。母は聖書を手放し、倒れた。その瞬間、魔法陣が激しく揺れ、形を崩し始めた。祓魔師が急いで呪文を唱え直すが、母親の結界は既に破られ、彼女の命は危機に瀕した。
野々村たちは絶望の淵に沈み、「もうこれまでだ!」と心に刻んだ。命の終焉を覚悟したそのとき、突如、ふたりの男が現れ、倒れた母親を抱き起こし、彼女の命を守るかのように立ち上がった。
それは、ひよりの悪魔祓いに参加した女性たちの父親の霊魂だった。かつてこの地で不幸な死を遂げた幸子の父、そして、秋田の角館で命を落とした百合子の父の霊。ひよりの母は、この救いの手に力を得て、娘に向けて希望の祈りを捧げた。
「娘よ、我が子よ。この命を捧げて、あなたを魔界から解放する。母さんは約束を守る。だから、信じて……」
母親の手にはナイフが握られていた。涙を流しながら覚悟を決め、天を仰ぎ、目を閉じた。その刃が彼女の首に迫るその瞬間、稲光が轟いた。そして、「やめなさい。すべてを神に委ねるのだ」という声が、母とひよりに向けて響き渡った。
ひよりの表情に微かなためらいが浮かび、彼女は母の手を優しく握り返した。ふたりの心は、ゼウスが遠くから授けた光に包まれ、静かに溶け合っていった。やがて、ひよりの亡霊は穏やかな微笑みを残し、精霊へと生まれ変わった。
「ありがとう、母さん……。寂しかったよ。覚えていてくれて、嬉しい。澪ちゃん、怖い思いをさせてごめんね」
彼女の言葉は、穏やかな春風に乗り、星々の間を縫うように遠くへと運ばれていった。ひよりは、ゼウスが見守るうさぎ座へと、静かに旅立っていた。母は、娘のぬいぐるみを胸に抱き、果てしなき星空を仰ぎ見ながら、無償の愛と喜びを感じた。
野々村刑事も夜空を見上げた。霧が晴れ、星々が一斉に輝き始めるのを目の当たりにした。彼は、無垢な少女の死に愛と悲しみの祈りを捧げ、刑事としての臨場感を超え、ひとりの人間として、群青の涙を静かに流した。
周囲の人々も、ひよりの魂が永遠に安らかに眠れるようにと心から祈った。特に、この事件の解決に貢献した鑑識の角野は、涙でメガネが曇るほど胸を熱くしていた。
✺
翌日、野々村と相棒の安田は、幼稚園の古井戸を訪れた。花壇には、悠久の時を刻むと言われるメタセコイヤの小さな芽が顔を出していた。園児たちはその芽を囲み、「早く大きくなれ」と水をやっていた。
幸子は、子供たちの集まる姿を見て、幼稚園に平和が戻ったことを感じ、安堵の笑みを浮かべた。そして、思い出したように、口を開いた。
「野々村さんも、この芽のように、百合子さんと早く結婚したらどうですか。彼女の心が枯れる前に。あなたなら、お母さんだって賛成してくれますよ」
野々村は、芽吹きの光景に心を奪われ、幸子の言葉に応えた。
「おまえらこそ、鈍平と頑張れよ」
野々村は笑いながらそう答え、幸子も笑顔で頷いた。
恋は愛の花を咲かせ
暗闇は悪魔を呼び込み
神は精霊の音色を聞かせる。
野々村は、やさぐれ刑事として、そしてひとりの人間として、平和になった聖護幼稚園を見つめ、そっと呟いた。
青空が果てしなく広がる中、野々村刑事は深いため息をついた。彼の心には、ひよりとその母親の強く優しい絆の物語が鮮明に焼き付いていた。それは、どんなに過酷な運命に見舞われても、決して絶えることのない絆だった。
この物語は、愛と喪失の狭間で揺れる母と娘の絆を描いている。それは、どんなに過酷な運命に見舞われても、決して絶えることのない、強く優しい絆だ。
✼••┈┈┈┈••fin••┈┈┈┈••✼
『臨場』という名の悪魔祓い 神崎 小太郎 @yoshi1449
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます