赤の残流

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赤の残流


 芸術家、烏丸音色からすま ねろの訃報は瞬く間に世間に広がった。古参の画家ではあったが、一般的な知名度はそれほど高くはなかった。話題になったのは、その死に方である。享年91歳、アトリエに置かれたベットで寝たきりだった彼は、ある日身体の血を抜かれて絶命した。失血死であった。そして彼を殺害したと目される容疑者が、音色の孫娘、烏丸舞歌まいかだったのだ。


 警察の取り調べに対し、舞歌は全面的に容疑を認めていた。祖父の血を抜いたのは自分であると。にも関わらず、地元警察はこの事件の対応に難航していた。彼女の供述内容が、特に動機が理解できなかったのだ。そんな状態が二ヶ月続いた結果、隣県の刑事、蛇良駄行じゃろう だいきが出向するに至ったのであった。







「今回取調べを担当する蛇良だ」


「よろしくお願いします、刑事さん」


 舞歌が丁寧に頭を下げる様を、蛇良は注意深く観察していた。長期間の勾留にあっているにも関わらず、彼女の精神に疲弊の色は見えず、純朴な瞳にはいささかの陰りもない。インターネット掲示板で『現代の吸血鬼』だのと囁かれている舞歌の印象は、対面してみれば全く真逆の性質のものであった。


「俺は元々担当外だったんでな。これまでの取り調べと質問が被るかもしれんが、初めて聞かれたと思って答えろ」


「分かりました。私の説明が悪くて、ご迷惑おかけしています」


 蛇良はあえてぶっきらぼうな口調で言ったが、舞歌はさざなみ立つような様子はなく、むしろ誠意的に謝られた。彼女と同年代くらいの者、たとえば万引きした大学生を連行してきたとして、同じ態度で非を責めれば、逆上ないし反感は抱かれるだろう。おおよそ、彼女は増悪とは無縁の世界で生きてきたのと蛇良は思った。そんな彼女が、果たして殺人などと大それた行為を行ったのだろうか。


「早速本題に入る。犯行動機を聞かれたとき、お前は作品を完成させるためと答えたようだな。間違いないか?」


「はい。間違いありません」


 蛇良は手元の資料を見た。犯行当時、アトリエに残されていた芸術品のリストだ。絵画、『深淵を覗く』『静寂の叫び』『自我』など、のべ8作品。また、フルイドアートと呼ばれる、絵の具を垂らして作られた作品が数十点、壁に飾られていた。そして最後に、絶命した被害者の傍に、一際大きい100号キャンバス(注:約1.6メートルほどの高さ)があった。真っ黒に塗られていたのを蛇良は写真で確認していた。


「お前の言う作品ってのは、黒いキャンバスのことか」


「黒……そうです。『赤の残流』、おじいちゃ……祖父の遺作です」


 遺作。その言葉に蛇良は引っかかったが、より注意を引いたのは、その作品名だ。黒い作品なのに、赤。彼はすぐに、この事件の死因を思い出していた。被害者は血を抜かれて死んでいる。血は赤から黒に変色する。血中のヘモグロビン……正確にはヘモグロビン内の鉄が酸化することで変色するからだ。


「これもフルイドアートってやつか?」


「そうです。2年くらい前かな、もう筆が握れなくなったからって、それからずっとポーリングでした」


 ポーリング……正確にはポーリングアート、フルイドアートの別名だと蛇良は把握していた。注ぐとか、流し込むとかそういう意味だ。彼は芸術には明るくなかったが、本件にあたってInstagramでザッピングしたアートの画像が、どれも鮮やかで波の奔流のようになっていたのを覚えていた。


「お前もその……ポーリングを?」


「はい。ボーリングに、絵の才能は要りませんから。祖父が絵を描くところをずっと見てきましたが、私には向かなかったようで……」


 舞歌は語った。


「ポーリングの技法はさまざまですが、どれも絵の具の流れるままに任せるので、特殊な目はいらなかったんです。偶然美術と祖父は言っていました」


「絵の具、か……」


 蛇良は『赤の残流』の件が頭から離れなかった。一方で、今のつぶやきを舞歌は別の意味で捉えたようだった。


「絵の具と言っても、チューブ絵の具そのままではないですよ。色々工夫がいるんです」


 舞歌が語るところによれば、絵の具を中心に複数のモノを混ぜ合わせるらしい。たとえば、模様がつきやすいように混ぜるシリコンオイル。他の絵の具と混ざらないようにするには、ポーリングミディウムというのを使うらしい。流動性を高めるためには普通に水を足したりするようだ。


「1つのフルイドアートにどれだけの絵の具を使うんだ?」


「キャンバスの大きさによりますね。たとえば、『赤の残流』の場合だと……」


 舞歌は一瞬考え込み、応えた。


「あの時は、もう1つ混ぜたものがありました。無色透明のペンキです。そうしないと、流動しませんでしたから。半々くらいで混ぜて、最終的に2リットルくらいになったかな」


 半々で2リットル、つまりペンキとは別の”絵の具”に1リットル必要だったということだ。蛇良は無言で手元の資料をめくる。被害者の検死結果が書かれていた。抜き取られたという血液量は、ちょうど同じ1リットルであった。


「……つまり、お前は祖父の完成させるために、そいつ自身の血を絞り切ってフルイドアートにした。そういうことでいいんだな?」


「! はい、その通りです。よかった、ようやく伝わりました」


 蛇良は愕然とした。とんだ猟奇殺人だ。ここの警察は、どこまでちゃんと精査できたんだ? 血を丸々使ったとしても何かしら証拠は残るだろうし、例のアートを調べれば一発でここまでは分かった筈だ。だが、連中は恐らくそこまで立ち入らなかったのだろう。彼は考えを巡らせた。起きた事象は分かった。だがやはり、分からないことが1つある。


「なんでだ? なぜ祖父の血でアートを作った? 聞いてる限り、お前は祖父を憎んではいないんだろう」


 蛇良の中に、好きな相手を美術品に仕立てるなんて常識はない。眼前の、未だ平静を保っている舞歌のことを、恐ろしく感じ始めていた。


「祖父は、亡くなる前に言っていました。芸術に生まれたからには、芸術になって死にたいと。今まで人の中身を描いてきたように、最期は自分の中身を晒してやるんだ、と」


 違う。蛇良は先の考えを否定した。恐ろしいのはこの女ではなく、この女の背後にいる、故音色氏だ。きっとあの男は、死してなお孫娘を縛っている。


「私は……私が中学のころ、事故で両親を亡くしてから、祖父の家に引き取られました。塞ぎ込んでいた私に、祖父は色んなものを見せてくれました。あのアトリエが、私のすべてだったんです……」


 ここにきて初めて、舞歌は笑顔以外の表情を見せた。


「晩年の祖父は弱っていました。何か力になれないかと言っても、しばらくアトリエにも入れてもらえずで……あの日、しばらくぶりに入れてもらって、『赤の残流』のを頼まれたときは、嬉しかったんです」

 

 振り絞るような声で彼女は語る。嬉しいという言葉に反し、悲哀が滲んでいた。


「やっと美と一体化できるって、おじいちゃん喜んでました……だから、私……動脈に…………」


 罪の意識がなかったわけではなかったのだろう。蛇良は遮らず、彼女の言葉を待った。元々自白していたところ、不明瞭だった部分をこの取調べで補うことができた。これ以上の問答は不要である。それでも、彼女に吐き出したいことがあれば、全て聞いてやろうと彼は思った。真っ白い取調室が、まるで懺悔室のようでった。


「……血の絵の具を垂らし始めたとき、まだ祖父の意識はあったんです。鮮やかな赤が広がっていく様子を、息を引き取るまで、祖父はずうっと見ていました。その時はもう、私のことなんて眼中になかったんだと思います」


 舞歌は話し続けた。


「でも、きっと良かったんだと思います。芸術と一体化するなんて、さいごまで私には分からなかったけど」


「……」


 遺体について、人伝手に聞いたことを蛇良は思い出した。音色氏が浮かべていた表情は、壮絶な笑みであったと。


「――祖父が油絵で描いていた頃の作品って、赤色がとても綺麗なんですよ」


 唐突に、舞歌が切り出した。


「炎だったり、血だったり、なにか恐ろしいものだったり……色んなものに赤色が使われていて、けれど全部綺麗なんです。赤は生命の色だ。そう祖父は言っていました」


 いつの間にか、彼女は平静を取り戻していた。


「……私にとっては逆でした。赤を見ると、いつもあの日の事を思い出します。言ったでしょう、両親が事故に遭ったって。その日、交通事故になった車の中に、私もいたんです。暴走したトラックが、運転席と助手席に座る二人を潰すところを、縮まりながらその目で見ていました」


 恐ろしかった筈の記憶を、淡々と舞歌が語る。蛇良は理解した。彼女の表情は、平穏でもなんでもない。


「あの日、車内を塗りつぶした一色の赤。私にとってそれは、死の色でした。見ていると、何故だかとても心が落ち着くんです。あの作品を見たとき、ようやく理由が分かりました。あの赤の向こう側に、お父さんとお母さんと一緒に、祖父がいたんです。無事に向こう側に行けたんだと、そう思いました」


 絶望だ。彼女は生に対してまったく執着していない。それどころか――。


「だから、いいんです。そう遠くないうちに、私もあっちにいける。だから、良かったんだって、思っています」


 





 数日後。蛇良は証拠物件の管理室を訪れていた。いくつかのロッカーの合間に、それはあった。透明保護シート越しに、まるで焦げたような黒色が覗く。芸術家・烏丸音色の遺品にして、容疑者・烏丸舞歌が描いた作品、『赤の残流』である。


 検査の結果、やはりこの作品に使われた血は音色氏のものだった。生に執着した祖父と、死を求めていた娘。二人の因果が交わり、どういう訳かこの作品で結ばれている。


 蛇良は改めて作品を見た。黒一色といっても、本当に真っ暗というわけではない。ところどころに泡立ち、波立ち、こちら側に押し寄せてくる奔流のようなものを感じさせる一枚だった。


 彼は、このアートが変色してなかった姿を想像した。果たしてその赤は、生き足掻こうとする男の執念の象徴か。それとも誰かを地獄に引き摺り込もうとする死の腕だろうか。……どちらにせよ、碌なものでもないと蛇良は思った。


 黒く変わった今もなお、些かの迫力も減じていない。不気味な、脈打つような力強さを、『赤の残流』は放ち続けていた……。




【赤の残流】 終



 

 









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