本編

本編


 早朝の奈良公園は、意外なほど空いていた。昼間は外国人含めた観光客でごった返しているのに。

 ラジオ体操に行くために通り抜けるだけの僕にとっては、空いている方がいいけどね。

 最初はそう思っていた。


 お腹が空いているのか、一匹の鹿が僕にまとわりついてきた。

 何度も何度も、お辞儀のように頭を下げる。

 多分餌をねだってるんだろうけど……。

 僕は手に下げたコンビニの袋を見る。

 お菓子もジュースも、後で友達と遊ぶ時のもの。鹿にあげるのは良くないと思うし、あげたくない。朝早いから、鹿せんべい売りのおばさんたちもまだいない。


「困ったな。何もないんだよ」


 でも、匂いがするのか、鹿はコンビニ袋にかじりついてきた。


「だめっ」


 振り払おうと振った袋が、鹿の頭に当たってしまった。

 ガツンと大きな音がして、鹿はピヤッっと一声鳴いて、ぶっ倒れた。

 ペットボトルの当たり所が悪かったのかな。


 転校してきた時に、お父さんに言われた事を思い出した。

「奈良の鹿は天然記念物だからな、傷つけると罰せられるぞ」

 警察に捕まっちゃうんだろうか? 先生やお母さんに怒られる?

 幸い周りに人はいない。

 知らんふりして逃げちゃおう。

 そう思った時だった。


「ピィィィイ‼」


 鋭い、笛のような鳴き声。

 そっちを見ると、大きな鹿がいた。

 普通の鹿の顔はせいぜい胸ぐらいの高さ。でもその鹿は目がこっちとおんなじ高さで。

 なにより違うのが、色。

 倒れた鹿の茶色い毛皮と違って、真っ白な毛並みが夏の太陽を照り返して輝いている。


 普通の鹿じゃないのは一目でわかった。

 そして、とんでもなく怒ってるのも。


 慌てて逃げだす僕。

 走りながら振り返ると、白い鹿が頭を下げた。

 お辞儀のためじゃない。角で、俺を突き刺すつもりだ! 


 鹿が怖い、なんて思ったことはこれまでなかった。

 でも、人間より大きな体で、車ぐらいの速さで走ってくる。

 しかも枝分かれした立派な角でこっちをしっかり狙って。


 まっすぐ逃げたら絶対追いつかれる。

 そう思って、道の横の方、石垣になっているところをよじ登る。

 高さがあれば追ってこれないだろう、と思ったのだけれど。白い鹿は足を止めると、ぴょんと石垣の上に飛び乗った。そんなのあり!?


 もう一回逃げようとしたけど、木の根に足を取られて転んでしまった。

 白い鹿は、今度こそ確実に突き殺すって感じで首を下げて角を僕に向ける。

 まさに走り出そうとした、その時。


 ギィーって感じのちょっと低い鳴き声が聞こえた。

 見ると、さっき倒れた鹿が起き上がってて。

 白い鹿も首をあげて起き上がった鹿の方を見た。

 もう一回僕の方をにらみつけてから、起き上がった鹿の方に歩いて行った。

 僕はそこで気を失ったから、白い鹿がどこに行ったのかは分からない。


〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇


 気を失っていた僕を助けてくれたのは、鹿せんべい売りのおばさんだった。

 何があったのかと聞かれたので、正直に全部話した。

 ラジオ体操に行こうとしていたこと、鹿にコンビニ袋を当ててしまったこと、大きな鹿に追われたこと。

「その鹿、色はどうやった?」

「白かった」

「そりゃ、神様の御使いやなぁ」

 春日大社の神様、武甕槌命たけみかづちのみことが奈良に来るとき、白い鹿にのってやってきたんって。

「だから、この辺の鹿を守ってはんねやろ。鹿が生きとって、良かったなぁ」

 つぎつぎ買いに来る観光客をさばきつつ、おばさんは周りの鹿にやさしい視線を向ける。

「後な、あげられるもん持ってへんときは、両手広げて見せたら、分かってくれはるから」

 そういうと、おばさんは僕に鹿せんべいを一束押し付けた。


 どうせ、ラジオ体操はとっくに終わってる時間だ。

 僕は鹿せんべいの紙テープをちぎって、鹿の方に歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奈良の鹿は神の御使い ただのネコ @zeroyancat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画