頭の中の心療内科

昼星石夢

第1話頭の中の心療内科

 俺は切れかけの蛍光灯が明滅する、その薄暗くかび臭い廊下を、数メートル先に見える明かりのついた扉に向かって息を切らし、走った。

 引き戸を勢いよく開ける。部屋の中は、さっきとは打って変わって眩しいくらいの照度で、反射的に手をかざした。目が慣れてくると、そこは病院の診察室のようで、デスクに片肘をついた、白髪で丸い眼鏡の医者と思しき初老の男が、俺を上目遣いで見ていた。

「どうされました?」

 医者は見た目より若い声で言った。

「いや、どうもこうもないですよ。これって夢ですよね? それは薄々わかってんですよ。だって、意味もなく追われている気がするし、チラッと人獣みたいな影も見えて。あと空を、飛んだりとか。上空から降りれなくなっちゃって、でもそのとき見た風景、山の木とか、花がみんな枯れて見えたり。それからやっと降りられた、と思ったら、綺麗な女の人に手を引かれて。ここの、さっきまで俺がいた場所、廊下とか、あれ俺が勤めている保育園に似てません? とにかく女の人に教室の一つへ連れ込まれて、ぐっと顔を近寄せてきたから、この展開はもしや? と思ったら、何かで首を絞められそうになって、慌てて逃げてきたんです」

 俺は息せき切ってこれまでのことをまくし立てた。現実の俺は、一度の会話でこんなに喋らない。これも、夢だからこそ、か。

「まあ、お座りください」

 医者は目線を丸椅子に向けた。気だるげに、デスク上のパソコンに向き直る。だが、そこには何も映っていなかった。

「あんた、誰、っていうか、何ですか?」

 無性に腹立たしくなって、医者に尋ねる。現実の俺はこんな突っかかるような態度はとらない。

「知ってるでしょう」

 吐息まじりの呆れたような返事だった。

 俺が訝し気に首を捻るのをチラとみて、溜息を一つつく。

「無意識というやつですよ。貴方自身であり、貴方をべる存在」

「あんたが? まさか」

 俺は鼻で笑った。医者は感情の読み取れない顔で手元のファイルを見る。

「貴方は今、内に意識を向けていますからね。それで私に会うことができたんでしょう」

「適当なこと言わないでくださいよ、先生」

 先生? どうして俺はこいつを先生なんて呼ぶんだ?

「人が、決めた、と認識する前に、脳は行動を決めるとも言いますからね」

 医者は、ファイルをデスクにほうりなげ、初めて俺と正面から向き合った。真っ黒な瞳に俺が映っているのが見えるんじゃないかと思うほど、医者の眼球は曇りなく透き通っていた。

「ふん、まあ、夢のリバウンド効果でしょうな」

「は?」

「貴方の症状ですよ。日中に無視した不安や心配が夢に現れるんです」

 医者が、デスクチェアを動かして俺の至近距離にくると、両手で俺の頭を挟みこんだ。驚いたと同時に鼓動が早くなり、焦燥感に駆られ、身動きがとれなくなる。

「例えば貴方が上空から見たという風景。今日の園児が描いた絵に起因したのでは?」

 そうだ、元気君の絵。春の絵を描いてみようと言ったのに、あの子の絵だけまるで秋だった。

『元気君、この真ん中の木は?』

『さくら』

『うーーん? 違うよ? 遥ちゃんの絵を見て。桜はピンク色でしょ? 灰色じゃないよね。幹が真っ黒っていうのもなあ。それに草の色が黄土色だし』

 工作のときはいつも変わった色で物を作る元気君は、そうすることで注目されたいのだろうと今まで気に留めなかった。が、今日は一昨日のことでイライラしていたこともあり、ダメ出しをしてみたのだ。案の定、元気君は泣き出した。子供はいいよなあ、泣けて。なんてことを思っていたのだが――。

「帰宅してからふと、思い出した。昔の級友のことを」

 医者の声が記憶に重なる。

 そう、中学のときのやつだ。俺はそいつと友達との会話を傍で聞いていただけだが、元気君と妙に似たような絵の構図と色合いで、記憶の隅から呼び起こされたのかもしれない。

『へったくそな絵だなあ』

『うるせえ。美術とかうぜーー』

『うんこ色じゃん』

『黙れよ。俺色盲なんだって』

 そんな会話だったような……。

 医者は、俺を見下すように顎をあげて、また話し出す。

「人獣に追いかけられたのは、もしかすると黒丸のことと関係があるのでは?」

「黒丸を知ってるんですか?」

「当たり前でしょう」

 医者の息がかかる。

 黒丸は俺のアパートによく来る猫だ。背中に黒い大きな丸模様があるから黒丸と勝手に呼んでいる。ちなみに俺は猫は嫌いだ。偉そうだし、引っ掻くし、臭いし。でも昨今の情勢的に、邪険に扱うのは躊躇ためらわれる。だから普段は無視して素通りするのだが……。昨日も一昨日のことでイライラしていて、黒丸が家の玄関扉の前で背中を向けて寝ているのを目にしたとき、無性にその背中の黒い丸に苛立ち、尻尾の先っぽをむにゅっと踏んでやったのだ。

「そして踏んだ瞬間後悔の念に駆られた、と」

 医者が冷たい視線を目前によこしてくる。

 踏む前に起きるだろうと思っていたが、黒丸はどんくさかった。踏まれた瞬間目を覚ましても、しばらくフリーズして、俺が足を離すと同時に起き上がり、振り返って俺に失望の眼差しを送り、スタスタと背を向けて帰っていった。

 医者は今度は顎を引き、口を開く。

「女性に首を何かで絞められた、というのは、一昨日のことが原因では?」

「あれは、俺は悪くないでしょ!」

「どうでしょうねえ」

 医者を相手にしているはずなのに、だんだんと警察の取り調べを受けている気分になってきた。

「しかし、出し渋った、というのは事実では?」

 医者の口元がにやりと引きあがる。

 俺の婚約者、裕子。彼女の誕生日が一昨日だった。誕生日プレゼント、何がいい? そう聞いても、今までなら、貴方からならなんでも、と言うのが裕子だった。だが、三回目の今回、少し前のデート中に、裕子がデパートで見つけて、可愛い! シルクだって。どう、似合う? と言いながら、彼女自身、値段をみて諦めたスカーフを指定してきたのだ。

『誕生日プレゼント、何がいい?』

『わかってるでしょ? もう結婚するんだし』

 わからない。何が欲しいかはわかるが、もう結婚するんだし、の意味がわからなかった。

 だから俺は近所のショッピングモールで買った、似た色のスカーフをプレゼントしたのだ。

『え? 冗談でしょ? これ違うよね』

『ん? ああ、シルクじゃないけど、環境にやさしい素材も使った綿で、ほら、似合うし肌触りもいいだろ?』

『うわぁ、きついわ。もういいよ』

『え、何が? いいじゃん、同じだって。スカーフが欲しかったんだろ?』

『うん。もう、別れるね』

「それから音信不通になった、と」

 医者は、目を閉じている。

「だって、結婚するならなおさら、これからは出費を抑えるべきでしょ。家庭ってもんを築いていくなら、スカーフごときに何万も出すなんて、無駄でしかない。数千円で済ませてきた俺をむしろ褒めるべきだ」

「彼女もそう思っていたと?」

 医者の言葉に、俺は口をつぐむ。だが俺にも一理あるはずだ。再び口を開こうとしたが、医者のほうが一拍早かった。

「まるで悪夢のようですね」

 医者は俺の頭から手を離し、言った。医者の顔しか見えなかった視界が開けると、部屋の中が異様に変化していた。派手な濃いピンクや紫のラメバルーンが浮かんでいたり、一般的な形のものから星やハート型の、水色、黄緑色、オレンジ色、赤色のゴム風船が床から湧き上がってきたり、医者の背中から黄色のニコちゃんマークの風船入りTバルーンが現れたりした。

 部屋は突如として、色で溢れた。

「どうです? ここに留まって治療するというのは」

「はい?」

 医者がカラフルな空間の中で浮いて見える。

「現実が夢でないと、どうして言えます? ここが現実かもしれませんし」

「いやいや、そんなこと……」

「感覚と意識の起源もわかってないんですから」

「無理ですよ、こんな、色だらけのところで……」

「色なんてものは、存在していませんよ。脳が電磁波の波長の違いを認識しているだけでね――」

「起きます! もう起きまーーす!!」

 まーーす!! という、自分の声で、目が覚めた。

 喉がひりつく。寝言でこんなに叫んだのは初めてだ。

 全身にじっとりと寝汗をかいていた。まだドキドキしている。なんて夢だ。昔読んだマンガのラストが夢オチで、ふざけんな! と怒ったことがあったのを反省する。

 夢でよかった……。とにかく元気君に謝って、黒丸にも謝って、裕子には――まあ、連絡があれば、正直にあのスカーフを買う余裕がなかったことを言おう。

 仰向けのまま枕元のスマホを顔の前にかかげる。真っ黒な画面に映った自分にぎょっとした。

 まばたきまでの一瞬、そこに医者がいたからだ。

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