「トリあえず」はコンプライアンス的にどうかと……

兵藤晴佳

第1話

 僕の父の古い友人で、怖いもの知らずだけど困った人がいてね。

 無敵のオッサン、とでも言おうか。

 何でも、会社を興すときにふとした間違いで関わってしまったヤクザとのゴタゴタから、口先三寸で助け出してくれたらしい。

 お礼を言うと、大笑いしながらこう答えたって。

「俺は何も持っちゃいないが、ああいう連中に小馬鹿にされるのだけは我慢がならんのだ」

 下手をするとコンクリート詰めにされて海の底に沈められるところだったんで、命の恩人だってことで手厚く、もてなして、会社で雇うことにしたんだ。

 ところがこの人、口が達者で肝が据わっているが、図々しくて図太いだけだった。

 しかも大酒のみで、ちょっと金が入るとすぐ酒を買ってしまって、すっからかんになると給料を前借りに来る。

「トリあえず」のところだけって。

で、返したことがない。

 コンプライアンス的にはどうかっていうところなんだけど、父も彼のおかげで今があるようなもんだから、断れない。

 これも僕から見れば、子どもの頃は「父さんの友達の変わったおじさん」で済んでいた。

 ところが、高校生くらいになって知恵がついてくると、苦々しく思うようになる。

 そこで、いっぺんだけ聞いてみたことがある。

「恩義があるのも分かるけど、あの人も度が過ぎてませんか?」

 父は苦笑いしながら答えた。

「何も持っていない人ほど強いものはないんだよ」

 その頃には会社もずいぶん大きくなっていたから、いったん誰かが文句を言い始めると、ひどい騒ぎになる。

 組合なんかも動きだしたんだけど、父は義理堅い性質だから、決してやめさせようとはしなかった。 

 とうとう、今度は社長の進退が問われるまでになる。

大学の3年生が終わるころ、僕は見かねて言った。

「僕を雇ってください。そして、経理と人事の決定権をください。」

 それはそれで文句が出たけど、何か考えがあるようだからと、父は周りをなだめてくれた。

 さて、無敵のオッサンが返したことのない給料の前借りにくると、僕はただ、鼻で笑ってやった。

 すると、オッサンはそれまで聞いたことのないような大声で笑った。

「青二才め、俺はお前ごときに笑われるいわれはない! 親父さんの威光を笠に着て人をコケにする奴は、俺も笑ってやるだけだ」

そこで僕は言った。

「あなたをクビにすることもできるんですよ。父と違って、何の借りもないんですから」

 するとオッサンは答えた。

「俺はもともと何も持っちゃいないから、そんな脅しはなんでもない」

 そこで僕は次の日、オッサンにこんな辞令を出した。


 会社の資産の一部を譲渡して、新店舗の社長に任ずる。


 すぐにオッサンは僕の前にやってきて、土下座をついた。

「どうか、辞令を撤回してください! なくすものができると、些細なことでも怖くなります。それだけは、我慢がなりません!」

 それからトリあえずの間、オッサンはヒラに戻った僕と一緒に、タダ働きに近い仕事をしていたよ。

 そうしないと、コンプライアンス的にどうかってことになるからね。 

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