トリあえず、今は、まだ

 その後、僕はいつも通り家事をこなして、鶏大根と明日の朝食を仕込むと、夕食前に家へと帰った。


 博士はいつものように、食べていったら?と言ってくれたが、一人暮らしの女性の家に居すぎるのはお隣さんと言えどもよろしくない。僕は特別な事情がない限りは、博士と夕食を一緒にすることはしなかった。


 家で家族と夕食を食べ、風呂に入り、自室に戻った。

 ベッドに転がり天井を見上げる。

 今日、博士の部屋で見た料理雑誌が妙に気にかかった。


 博士は全く料理ができない。

 する必要性も感じていないようだった。なのに、なぜ急に料理雑誌を?


 自活しようとしているのか? 博士が?

 本来、喜ばしい推論に、僕は息苦しさを覚えて、困惑した。

 発想が飛躍する。


『トリあえず』くんだって自活と言えばそうだ。

 博士はそもそも何かの営業が苦手で、僕がだいたい間に入って断ってきた。

『トリあえず』くんが営業対応してくれるなら――まあ、うまくいかない気もするが、博士は天才だ。いつか完璧に仕事をこなす『トリあえず』くんVer.Xを作り出すだろう――僕の仕事はお役御免ということになる。


 そういえば今日は他にも見慣れないものを見た。


 


 家事について書かれた本だ。博士が家事をする姿はイメージできないが、あれを参考に何か発明品を作るのかもしれない。そうすれば、僕が家事をしに行かなくても、よくなるだろう。


 僕の発想は更に悪い方向に加速していく。


 そもそも、博士はやらないだけで、やろうと思えば発明品で何でもできる人ではないか? 自分はお世話をしているつもりで、お世話させてもらっていたのは自分の方ではないのか?


 ぐるぐると思考がループする。


 だめだ、気分を変えよう。


 僕は気分を変えようと窓から外を見た。そして、すぐにうっかりに気づく。

 僕の部屋からは博士の家の2階のベランダが見える。

 洗濯かごを博士の家のベランダに出したままであった。

 回収は別に明日でも構わないが、一応連絡はしておくべきだろう。


 時間は午後9時を少し回っていた。

 博士は間違いなく起きているだろうが、お隣とはいえ、それだけの用事で夜分に若い女性の一人暮らしの家に伺うのは気が引ける。

 僕はとりあえず、電話してみることにした。


 RURURURURU ガチャ


 意外や意外、1コールで出た。

 嫌な予感がする。


「博士ですか? 僕です。 すいません。 洗濯かごを2階のベランダに置き忘れてしまって……」

「トリあえず、そのままで大丈夫だよ~ ありがとうね~」


 あ、これ、『トリあえず』くんじゃん……。

 僕は連絡を取ることをあきらめて、とりあえず、寝てしまおうと、電気を消した。



 ――――



 うとうととしていると、部屋が急に明るくなって、僕はまぶたをあけた。

 時刻はまだ午後10時頃だった。


 部屋の中を何かが明るく照らし、そして過ぎ去っていくのが見える。

 僕ははっと気づいて、窓を開けた。


 ベランダでこっちに懐中電灯を向ける博士がそこにあった。

 僕が窓を開けたのを確認して博士が紐のついた何かをこちらに投げてよこす。

 紙コップ、いや、糸電話だった。


「なんで糸電話なんですか? どうぞ」

「電話が『トリあえず』くんに占領されてしまってね~ とりあえずの通信手段だよ~ どうぞ」

「なんでそうなるんですか? どうぞ」

「私も聞きたいよ~ で、なんか電話くれてたでしょ なにかな~って どうぞ」

「そこに置きっぱなしになってる洗濯かごの件です どうぞ」

「あ~ ここにあったんだ~ どうぞ」

「置き忘れてました すいません どうぞ」

「大丈夫だよ~ どうぞ」

「とりあえず、不便なんでスマホ買ってくださいよ どうぞ」

「契約とか、よくわかんないから、助手くんがつきあってくれるならいいよ~ どうぞ」

「了解です どうぞ」

「助かるよ どうぞ」


 僕と博士は他愛もない会話をした。

 僕と博士は博士のスマホを買いに行く約束をした。

 僕はブラジャーをちゃんとつけろと小言を言った。

 博士は拗ねた。

 僕は宥めた。


「博士 家事する気になりました? 料理本とか見つけたんですけど どうぞ」


 博士の声はいつもよりも近くて、博士とつながっている気がしたから、僕は素直に想ったことを口に出していた。


「いいや 助手くんがいてくれるから とりあえずはいいかな どうぞ」

「とりあえずは ですか? どうぞ」

「うん とりあえず」


 『とりあえず』

 それは、便利で、優しくて、残酷な言葉だと僕は思った。

 それは、代替可能で、現状維持で、仮置きなのだ。

 少し先、僕が代替される未来を想像して苦しくなった。


「ずっと 僕が やるんじゃ ダメですか? どうぞ」


 心の靄に押し出されるように、告白が思わず口をついて出た。



 ――――


 

「いいや 助手くんがいてくれるから とりあえずはいいかな どうぞ」

「とりあえずは ですか? どうぞ」

「うん とりあえず」


 私は助手くんの言葉に、「とりあえず」と答え、続ける言葉を迷った。

 つくづくずるい大人だと思う。いや、主語が大きすぎる。

 つくづくずるいのは私である。


 助手くんのやさしさに甘えてここまで来た。

 だけど、私は、はみ出し者で、家族もいないし、年上だ。

 孤高を気取ってはいるが、本当は孤独な人間である。

 助手くんにはもっと相応しいパートナーがいるべきと思いつつも、助手くんにそばにいてほしいという思いで、とりあえず、とりあえず、で先送りにしてきた。


 『とりあえず』

 それは、怠惰で、破滅的で、蠱惑的な言葉だと私は思った。

 それは、思考停止で、先送りで、お取り置きなのだ。

 少し先、助手くんがどこかへ行ってしまう未来を想像して苦しくなった。


 「ずっと 僕が やるんじゃ ダメですか? どうぞ」


 だから、助手くんの声に、涙があふれてきて、私は、声に、詰まった。



 ――――



 しばらくの沈黙ののち、博士が口を開いたので、僕は糸電話に耳を押し当てた。

 

 「そ れ どういう 意味 れ 言ってるか わあってる? どうじょ」


 博士の声は泣いていた。


 「博士とずっと一緒に居させてくださいって言ってるんです どうぞ」


 僕ももはやだった。でも、偽らざる本心だった。


 「わああ……」


 博士の嗚咽が夜の町に響いた。



 ――――



 「……とはいえ、助手くんには、学業を納得いくまで納めてほしい! というわけで、軽食を作ってくれる『キウイどうらく』くんを作ったぞ!」

 「えぇ……」


 翌日、複雑な想いで、博士の家を訪れた僕を出迎えたのは、徹夜したであろう博士と、キウイ型のロボットだった……。思わずドン引く。

 家事負担を夫婦一方だけが担うのは今風でない。機械化、効率化を進めて家事負担そのものを減らすべきだと熱弁する博士。うん、言ってることはまともだけど、それ、博士が言いますか?


 「『キウイどうらく』くんに、小麦粉と水と後は具材を食わせてやれば……」

 「それはいいですから、とりあえず、着替えて寝てください!」

 

 ふらふらしながら『キウイどうらく』くんのプレゼンを始めようとする博士の手を引いた。何がおかしいのか「フヒヒヒ」と笑う博士を寝室までずるずると引きずっていく。


 「ところで、昨日の返事をまだもらっていないんですが どうぞ」

 「答えはもう決まってるんだがね~」


 博士の体重がふっと軽くなった。いや、僕に引きずられていた博士が僕の手を握ったまま、僕の前に立った。自然、僕は博士の腕に抱かれる形になる。石鹸と柔軟剤とシャンプーと汗の混ざった博士の匂いがした。


 「ちょっ……」


 困惑する僕の唇を、博士の唇がかすめた。


 「とりあえず、今は、まだ……だね? ?」


 寝室に消えていく博士を見送りながら、僕は『とりあえず』の意味を働かない頭で考えていた。



 ――――


 

 「どうしよう……。旦那くん……。来月から新聞10社ほど取ることになってる……」

 「このオチは見えてましたよね? 博士……」

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博士と僕の『トリあえず』 黒猫夜 @kuronekonight

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