カーサ・スペランツェイ 二

「――ミアン! おい、起きろダミアン!」

 激しく身体を揺さぶられて、ダミアンは目を覚ました。

 白色の鋭い光が、暗闇を切り裂いて、ダミアンを照らしている。光を放っているのは懐中電灯で、出処は天井に空いた穴の向こうだった。誰かが天井の上から、懐中電灯の光を向けているのだ。

 天井とダミアンの間には二人分の顔と頭があった。一つは少年。もう一つは少年と青年の境界線上にある。カーサ・スペランツェイでダミアンと共に暮らしている孤児たちだ。少年はアンドレイ。もう一人は最年長のクリスティネルだった。クリスティネルは十五歳。ダミアンとはおそらく十歳ほど歳が離れていた。断言できないのはダミアンの生年月日が不明なためで、孤児たちの間ではさほど珍しくもない。

 ダミアンの身体を揺さぶっていたのも、声をかけていたのも、アンドレイだった。クリスティネルは年長者らしく、落ち着き払った表情で、無言のままダミアンを見下ろしていた。

「ここは……?」

 ぼんやりとした意識のまま、ダミアンが尋ねる。答えたのはクリスティネルだった。

「反省室の下。旧い地下室だよ。大地震のせいで、床が崩れたらしい。まったく、反省もせずに寝こけているから、こんな罰が当たるんだ」

「寝てたわけじゃねぇよ」

「なら、落ちて頭を打ったのか?」

「頭……」

 ダミアンは自分の頭をなでながら、上体を起こした。同時に記憶をあらためる。正確には、検めようとした。だが、何が起こったのかは分からなかった。反省室に閉じ込められたところまではしっかりと覚えているのだが、その後の記憶が曖昧なのだ。

 記憶が定かでない気持ち悪さを苦々しく噛み締めながら、ダミアンは別のことを訪ねた。

「今は何時なんだ?」

「夜の七時を過ぎたところだ」

 クリスティネルは淀みなく答えた。

「地震の後、いくつか火事が起こって、俺達は手分けして火消しを手伝っていたんだ。全部収まって、やっと帰ってきたら、お前を反省室に閉じ込めたままだって思い出してな。それで駆けつけてきたんだ」

「何だよ。俺のこと忘れてたのかよ」

「知ったことか。お前のことなんか」

 これはクリスティネルの発言ではない。アンドレイが割って入ったのだ。簡潔を極めるアンドレイの発言に、クリスティネルは説明を加えた。

「それどころじゃなかったんだ。地震なんて、誰にとっても生まれて初めてだったんだからな。おまけに、外に出たらあちこちで煙が上がって、火が燃え盛っている。放っておいたら、ここだって燃えていたかも知れないんだぞ」

「そして俺は焼け死んでいただろうな。下着を盗んで、火あぶりの刑ってわけだ」

「盗んだりしたからだ。それも一度や二度じゃない。これで何度目だ、ダミアン? 塵も埃も、積もれば山になる。いや、もうとっくになってる。火あぶりの刑になっても文句は言えないほどにな」

「どこにあんだよそんな山。俺には見えねぇよ!」

「ダミアン!」

 アンドレイがダミアンに殴りかかった。突き出した右拳が、狙いあやまたず、ダミアンの左頬を殴打する。力いっぱい殴りつけたわけではなかったが、ダミアンは再び倒れて、床の上に転がった。

「痛ぇな!」

 ダミアンはアンドレイを睨みつけた。その視線には、激しい怒りが込められている。アンドレイもダミアンを睨み返した。右目には憎悪を、左目には侮蔑を、それぞれ宿している。

「クリスティネルは心配して駆けつけてくれたんだぞ!」

「それがどうした! 閉じ込めておいて、俺のこと忘れてたくせに!」

「お前なんか忘れられて当然だろ! いないほうがいいんだからな!」

 アンドレイは最後まで言えなかった。クリスティネルが止めたためだ。

「止せ、アンドレイ。いいんだ」

「でも……」

「どこの孤児院にも必ず一人はこういうやつがいる。俺はもう慣れた」

 淡々と語ると、クリスティネルは踵を返した。背後に立てかけられているハシゴに取り付き、軽やかに登ってゆく。あっという間にクリスティネルの背中は、天井の向こうに消えていった。

 誕生日と年齢こそわかっていたが、クリスティネルの境遇は、ダミアンとあまり変わらない。生まれてすぐに捨てられ、親の顔を知らぬまま、ずっと孤児院で育ってきた。十五年の人生のほとんどを、孤児院で過ごしてきたわけだ。全く誇れるものではない。国をあげて里親制度が推進されている中、誰に拾われることもないということは、よほど運がないか、彼自身に問題があるかの、どちらかだ。いずれにせよ、積極的に引き取りたくなる経歴ではないだろう。

 これも国の方針で、孤児たちは、五年以上一つの孤児院にいられない。クリスティネルはこれまでに三度、孤児院を移っていた。四つ目の孤児院がカーサ・スペランツェイだったというわけだ。ちなみに、ダミアンにとっては二つ目で、アンドレイにとっては一つ目になる。ダミアンより年上のアンドレイのほうが転院が少ないのは、アンドレイが生まれてすぐに捨てられたわけではなかったためだ。つい二年前まで、彼は祖母の家で暮らしていた。祖母が亡くなり、身寄りがなくなって、カーサ・スペランツェイに入ることになったのだった。

 クリスティネルの後を追って、アンドレイもはしごを登った。

「ダミアン。あなたも上がっていらっしゃい。反省は終わりよ」

 天井から投げかけられた声は、女のものだった。子供ではなく大人のものだが、声量はなく、温かみもない。消極的な性格と冷めきった本音が窺える声音だった。

 職員のシンジアナだ。ダミアンが目を覚ます前から、彼女は天井の上にいた。地下室に降りるのは子どもたちに任せて、彼女は懐中電灯の光をダミアンに向けながら、様子をうかがっていたのだ。クリスティネルとアンドレイが立ち去ってしまったので、仕方なく、声をかけたのだった。

 控えめに言って、シンジアナはダミアンが嫌いだった。彼女の仕事と役目に鑑みれば、褒められたものではないが、詰られるようなものでもない。下着を盗む下劣な子供を疎ましく思わない女性は、きっと少ないだろう。世の中、善良な人間ばかりではないから、子供が捨てられる。だが、その人間の中には、子供も含まれているのだ。

 ダミアンが地下室から上がってこなくても、シンジアナは構わない。ダミアンの返事も反応も待たず、シンジアナは穴から離れた。三十年前、この国における孤児たちの境遇は最悪を極めた。孤児院で暮らす孤児たちのほとんどが栄養失調に陥っており、環境は不衛生、エイズをはじめとする病気が蔓延し、一年間の死亡率は五割に達したという。つまり、孤児院の子供の数が、一年の内に半減していたのだ。世界の国々から批難と援助が寄せられて、三十年の間に孤児たちを取り巻く環境はだいぶん改善したが、暗黒時代の傷跡は深く、未だに血と膿を垂れ流している。一年に一人ぐらい孤児が死んだり、行方不明になっても、事件とはみなされないのが現実だ。

 転院でも脱走でもいいから、とにかく早くどこかへ行ってくれればいいのに。そうシンジアナは心の奥底で願っていた。ダミアンさえいなければ、カーサ・スペランツェイは平穏でいられる。ここで起こる騒動の中心には、必ずダミアンがいるのだ。流石に地震まで彼のせいにするつもりはなかったが。

 シンジアナの願いは、今回も叶わなかった。シンジアナが立ち去り、無人となった反省室に、ダミアンは素早く上がった。同時に腹が鳴る。そういえば、昼前に反省室に閉じ込められてから、何も口にしていなかった。それどころではなかったのだ。なにせ地下通路で――

 地下通路?

 記憶の影が、蜃気楼のように、脳裏に浮かび上がる。しかし、はっきりと形を取ることはない。思い出そうとすると、これもまた蜃気楼のように、霞んで消えるのだ。

 昼前に反省室に閉じ込められてから今までの間に、なにかがあったのは間違いない。ダミアンは苛立ちを覚えた。

「クソッ! 一体なんなんだ!」

 ダミアンは一度壁を殴りつけると、拳に伝わる痛みに顔をしかめながら、反省室を後にした。

 その壁の向こう側、つまりカーサ・スペランツェイの外側では、新たなる事件が哀れな犠牲者に襲いかかり、その生命を吸い尽くそうとしていた。

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リリスの目覚め - A Tale of Unholy Lust and Dark Desires - ケバエロスキー @do-m

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