モルティ森林
虚ろな目つきでターミナルに戻ったマルセルは、係留していたボートの一艘に乗り込み、操って、ダミアンとポルノモデルをイントゥネリクルイ川の対岸へ送り届けた。対岸といっても、ただ川を横断したのではない。定期船を追うように少し川を登り、支川との合流点を通り過ぎたところで、漸く停止した。単純に横断しただけでは人目につく、というのもあるが、そもそも上陸が難しかったのだ。何しろ、モルティ森林側には桟橋もターミナルもない。人が踏み入るためのあらゆる設備が用意されていなかった。ボートを固定して人を上陸させられる地点を探さなければならなかったのだ。
水に不慣れなダミアンは川に落ちることを怖がって、なるべくボートの中心にいたがった。操舵室には入らない。筋骨隆々の巨漢マルセルがいるからだ。ポルノモデルに抱きつかれて目を合わせてからというもの、マルセルは様子がおかしくなり、まるでダミアンが見えていないかのようだったが、積極的に傍にいたいとは思えない。いつ正気を取り戻してダミアンを取り捕まえてくるか、知れたものではなかった。
対岸に降りて、というべきか、上がってというべきか。とにかくダミアンは、揺れない大地に足をつけて、人心地がついた。というところだが、その心はあまり晴れ晴れとしていなかった。マルセルも一緒に上陸したためだ。
「こいつも一緒なの?」
心底嫌そうに尋ねるダミアンに、ポルノモデルは頷いた。
『ずっと眠っていたら、起きた時、お腹が空いているでしょう。一人ではとても満足できないけど、無いよりはマシだわ』
色香漂う黒唇と黒い目元には、妖艶な笑みが浮かんでいる。いや、妖しいなどという程度では済まない。触れるだけで爛れてしまいそうな邪念が感じられる笑みだった。
尤も、身長差のあるダミアンは気づいていない。彼の視線はだいたい別のところに吸い込まれた。ポルノモデルと並んで立つと、ダミアンの眼の前には丁度、彼女の股間が来る。小陰唇がはみ出した、いかにも男を咥え慣れていそうないやらしいオマンコが、はっきりと見えていた。地下通路でしゃぶりつこうとして空振りしてからというもの、ダミアンの欲望は一刻ごとに強まるばかりだった。
「こいつ、料理が上手いって話、聞いたことないぜ」
『料理なんてする必要ないわ。そのまま頂くもの』
「とりあえず、オレの傍に近寄らせないでくれよな」
ダミアンの注文を受け入れて、ポルノモデルはダミアンを右隣に、マルセルを左隣に歩かせた。
ダミアンを見る度、鋭い眼光を放っていたマルセルの両眼は、今や意識の力と光を失い、どことも知れぬ方を見つめるばかりだったが、どうやら足元は見えているらしい。モルティ森林に向かって道なき道を進む最中、マルセルは一度も転ぶことはなかった。むしろ危なっかしかったのはダミアンの方で、草の根に脚を取られて転びかけたことが数度あった。妙に絡みやすいのだ、モルティ森林の周辺に生えた草の根は。まるで草が悪意を持って、ダミアンの脚に絡みついてきているのではないかと思うほどだ。
ともあれ、ダミアンとポルノモデル、マルセルの三人は、モルティ森林にたどり着いた。下水道を出てから費やした時間は高々二時間。まだ十分に日は高いはずだが、三人の周囲は既に夜のような暗さだった。森の中は更に闇が濃く、全く先が見えない。
入ってはいけないといわれると、逆に入っていきたくなるのがダミアンだったが、いざ常夜の森を前にして、どうにも怖気づいてしまった。闇の中へ踏み込むのを躊躇うダミアンに、ポルノモデルが甘く囁く。
『怖がることはないわ。こっちへいらっしゃい、坊や』
「無理だよ。真っ暗で何も見えない」
『大丈夫よ。坊やは特別なんだもの。地下通路だって、真っ暗だったけど、平気だったじゃない。ほら、こっちよ』
ポルノモデルが常夜の森に入ってゆく。不確かな足取りで、マルセルも後に続いた。
ダミアンは恐る恐る、一歩を踏み出した。たちまち濃い闇がダミアンの脚にまとわりつき、包み隠してしまう。その闇の中から、妖艶な声が誘った。
『そう。そのまま、ただまっすぐに進めばいいの。私の声のする方へ。ご褒美はもうすぐそこよ』
ダミアンはとうとう森の中に、いや、闇の中に踏み込んだ。
視界が奪われると、途端にダミアンは前後不覚に陥った。文字通り、というわけではなかった。わからないのは前後ばかりではない。上下左右もわからなかった。声のする方へひたすら足を運んでいるつもりだが、合っているのかどうか、ダミアンには全く自信がない。やっぱり来るんじゃなかったと、ダミアンは深く後悔し始めた。
それでも暫く進むと、前方にぼんやりと浮かぶ青白い光が現れた。いや、浮かんでいるわけではない。遠近法にしたがって、遠くのものが視界の中央に吸い寄せられているだけだ。近づくにつれて青白い光は徐々に大きさを増し、ダミアンの前に正体を現した。
ぽっかりと口を開けた岩窟だった。奥から放たれる青白い光が地上に漏れ出ているのだ。ダミアンは飛び込むようにして岩窟に入った。
中ではポルノモデルとマルセルが待っていた。
『この奥よ』
やや下り坂になった岩窟の奥を、ポルノモデルは指で示した。
「何があるの?」
『忌々しい石と岩。そして、その下に私の身体があるわ。石と岩に押さえつけられて、動けないのよ』
それは苦しそうだと、ダミアンは身震いをした。
「それを退ければいいんだな」
『その通りよ、賢い坊や』
褒められて、ダミアンは得意げになった。明かりがあって、周囲が見えれば、向かうところ敵なしだ。ダミアンは時折足を滑らせながらも、岩肌の上を進み、やがて最奥にたどり着いた。
そこに、石造りの祭壇があった。四角く切り出された大きな石材が五つ、ピラミッドのように積み上げられ、その頂きに、青白く光る石が載せられている。石は大きくない。ダミアンの小さな手でも握れそうなぐらいだ。近寄ってみると、石の表面にはびっしりと小さな文字が彫り込まれているようだったが、何と書かれているのか、ダミアンにはまるで分からなかった。
『その石を取り払って』
岩窟の入口の方から、ポルノモデルの声が響く。どういうわけか、ポルノモデルは付いてこなかった。マルセルと一緒に岩窟の入口に残っている。
「取り払う?」
『掴んで投げるのよ』
それなら簡単だと、ダミアンは小さな左手を光る石に伸ばし、掴んだ。
バチッと爆ぜるような音がした。
「イテッ」
ダミアンは叫びながら、弾かれたように手を戻した。手のひらを見ると、肌が赤く腫れている。まるで火傷を負ったかのようだ。
「なんだよコレ」
『何でも良いわ。とにかくそれを投げ捨てるのよ』
「んなこと言ったって、こんなの持てねぇよ。これシチュー鍋みたいに熱いぜ。鍋つかみでもないと」
言いながら、ダミアンの脳裏に妙案がひらめいた。鍋つかみはないが、服がある。小さな石一つぐらいなら、十分に包めるはずだ。
ダミアンはいそいそと服を脱ぎ、適当に丸めて左手に握った。
「よし」
気合を入れて、再び光る石に左手を伸ばす。服越しに石を掴むと、やはり爆ぜるような音がして激痛がダミアンの左手を襲う。だが、ダミアンは歯を食いしばって耐えた。掴んだ石を、服ごと力任せにぶん投げる。狙いなど定めている余裕はない。投げつけられた光る石は、岩窟の壁に当たって幾度も跳ね返り、ついに止まった時、光を失った。
岩窟の中から光が消え、濃い暗闇に塗りつぶされる。
とたん。
激しい振動がダミアンを襲った。いや、ダミアンだけではない。モルティ森林を乗せた大地が、激しく揺れだしたのだ。揺れは黒々と流れるイントゥネリクルイ川を渡って、レイスモアの町にも伝わった。
ダミアンにとって、そしてレイスモアの人々にとっても、これは初めての地震だった。レイスモアの人々は為すすべを知らず、慌てふためきながら、ひたすら神の名を唱えて揺れが収まるのを祈った。ダミアンはというと、信仰心など欠片もないから、頼る神もいない。暗闇と激震の中、立つこともできずに
暗黒が全てを包み込んだ。
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