イントゥネリクルイ川

 ダミアンにとって幸いだったことに、下水道は長く続かなかった。鼻をつまみながら歩くこと二十分あまり。下水道が終わり、視界がひらけた。黒々と水をたたえた川がゆったりと足元を流れている。

 レイスモアの町の北を流れるイントゥネリクルイ川だった。その更に北、ダミアンの正面には、陰鬱なモルティ森林が広がっている。

 新鮮な空気を求めて、ダミアンは深呼吸を繰り返した。

 ダミアンの傍らでは、ポルノモデルが忌々しげに空を睨みつけている。

『鬱陶しいわね』

 空高く登った太陽が、まばゆい光を容赦なく放っている。南中したかしてないかという頃合いだ。カーサ・スペランツェイでは昼食の用意をしていることだろう。

『早くあの森に入りましょう。ここにいると溶けてしまいそうだわ』

 あの森、と言って指さしたのは、モルティ森林だ。

「え、モルティに?」

 ダミアンは驚いてポルノモデルを見上げた。その両眼には好奇心が輝いている。善悪の境界線を軽々と踏み越えるダミアンだからこその反応だった。レイスモアでモルティ森林に踏み入りたいと思う人間は、子供であれ大人であれ、ありえない。立ち入りを固く禁じられているうえに、恐ろしい伝説と歴史が語り継がれていた。

 曰く、モルティ森林は常夜の領域で、悪魔の棲家すみかである。名前をリリスと言い、どんな悪魔かというと、人喰いだ。森に踏み込んだ人間を呪いで惑わし、奥に誘い込んで、肉体はおろか魂の一片まで平らげてしまうという。

 もちろん、悪魔を見たという人間はいない。悪魔に出会ったが最後、喰われてしまうのだから、証人などいるはずがない。

 代わりに、というべきか、墓があった。悪魔に喰われた人間の墓だ。全部でおよそ二十になる。生年はまちまちだが、没年は決まって一五一四年。今から五百年以上も昔のことだ。新月の夜にモルティ森林の悪魔に襲われて、一家全員、皆喰い殺されたと記されている。

 一家全員。すなわち、大人であろうと子供であろうと、悪魔に押し入られた家の人間は尽く喰われた。助かったのは悪魔の侵入を防いだ家の人間だけ。教会の司祭館と、毎日の聖なる儀式を忘れない敬虔な信者の家だけが襲われなかった。

 事件が発覚したのは翌朝だ。無人になった血染めの家が次々と確認されて、レイスモアの町、といえるほどまだ大きくはない、レイスモアの村は騒ぎになった。大騒ぎとは決して言えない。村民の半分が一夜にしてうしなわれたのだ。人気ひとけのない村の中に声がまばらに響くばかりで、その雰囲気は寂寞せきばくというより他ない。

 猟奇的な殺人鬼の仕業ではなく、悪魔の仕業だと認められたのは、痕跡が発見されたためである。襲われた一軒の壁に、流れ滴る赤黒い血文字が書かれていた。

『喰い足りぬ。未だ喰い足りぬ。常夜の森に眠るリリスの飢え、飽くを知らず』

 レイスモアの人々にとって、常夜の森といえば、モルティ森林以外にありえない。枝葉が幾重にも天を覆う鬱蒼たる森で、昼でも光が届かず、月のない夜のように深い不気味な闇に包まれているのだ。踏み入った者は決して帰らず、レイスモアの人々は事件以前から忌避していた。暗闇の中、道に迷い、獣に襲われたのだと噂されていたが、この事件があって、認識が変わった。

 人喰いの悪魔に喰われたのだと。

「うーん」

 ダミアンは思案顔になった。無鉄砲の塊のような彼にしては珍しいことだが、こればかりは当然である。

 五百年以上にもわたって忌避され続けてきたモルティ森林には目下、入るすべがなかった。幅広のイントゥネリクルイ川をまたぐ橋は、事件の直後に破壊されて、残っていない。他の町や都市に行き交う船はあったが、大人たちの目が厳しく光っていて、忍び込むのは不可能だ。よしんば忍び込めたとして、どうやって対岸に降ろしてもらうのか。だいいち、船を奪ったとしても、ダミアンには操る技倆うでがない。かといって、泳いで渡るわけにも行かなかった。ダミアンはまだ泳いだことがなかったのだ。

 八方塞がりとはこのことである。

「どうやって渡ろう?」

『橋があるはずよ』

「橋? ないよ、そんなもの」

『そのようね』

 ポルノモデルはイントゥネリクルイ川の一点を見つめるなり、直ちに誤りを認めた。まるでそこに橋があったと言わんばかりだ。

 赤く濁った両眼が、僅かに下を捉えた。

『あれを使うわ』

 船だ。イントゥネリクルイ川を登ってきた定期船フェリーが、レイスモア桟橋に接舷しようとしていた。桟橋の根本には小さなフェリーターミナルがあり、全部で二部屋しかない三つ星ホテルと、ダイニングルームと見紛うレストランが入っている。

『付いていらっしゃい』

 否も応もない。歩き出した、ではない、進みだしたポルノモデルの後を追って、ダミアンは川岸を上がった。

 到着した定期船はさほど大きくない。だいたい全長二三メートル、船幅八メートル、旅客定員は一二〇というところ。最大速力は二五ノット。時速四五キロメートルというわけで、車のほうが速いことになる。だから、というわけでもないが、船上に見える人の姿はまばらだった。巨大なバックパックを背負った物好きな旅行客四名と、買い物袋を抱えた地元住民を数名降ろすと、用は済んだとばかりに、定期船は更に上流を目指して出発した。

「いいの? 行っちゃったよ?」

『あれは大きすぎるわ。もっと小さいのがあるでしょう』

「小さいの? あるにはあるけど……」

 ダミアンは遠ざかる船影から視線を外した。体ごと横に向きながら、上を見上げる。ポルノモデルの巨大な乳房が聳え立っていた。その向こうに彼女の顔があるはずだったが、丁度足元に立つダミアンからは見ることができない。

 二人はターミナルの正面に設えられた公園の木陰に身を潜ませていた。正確に言えば、身を潜ませているのはダミアンだけで、ポルノモデルの身体はターミナルから丸見えだった。おまけに裸である。妖艶な美貌と官能的な曲線美を白日のもとに晒しているのに、何故誰も気を取られないのだろうかと、ダミアンは不思議で仕方がない。

 不意に横手から響いてきた男の声も、ダミアンのみに向けられていた。

「おい悪ガキ。コソコソと隠れて、今度は何を企んでやがる」

 ダミアンは舌打ちをして、木陰から顔を出した。ターミナルの方から一人の男が近づいてくる。ターミナルで働いているマルセルだった。身長二メートル、体重一一〇キロの筋骨隆々たる巨漢だ。相好は極めて険く、鋭い眼光はダミアンの身体を貫くかのよう。

 いつものダミアンなら、一目散に逃げ出しているところだ。今回も逃げ腰になったが、すんでのところで踏みとどまった。いや、踏みとどまらせられた。ポルノモデルに止められたのだ。

『ちょうどいいわ。私の可愛い坊や、あの男に触れて』

 ダミアンは正直な反応を示した。つまり、素直に従おうとしなかった。

「え、嫌だよ。捕まりたくないよ」

『捕まるの?』

 ダミアンは頷いた。

「アイツだけじゃない。この町の人間は皆、孤児院の外でオレを見かけたら、捕まえようとする。そして孤児院に連れ戻すんだ」

『あら、有名人だったのね』

「人気はないけどね」

『でも丁度いいわ。わざと捕まってしまいなさい。大丈夫。何もさせないわ。あなたは私の大事なかわいい坊やなんだから』

「何を独りでブツブツ言ってるんだ」

 最後の台詞はマルセルのものだ。筋肉質の巨体が、ダミアンのすぐ正面に聳え立っている。ダミアンの胴ほどもある太い腕が伸びて、ダミアンの華奢な肩を掴もうとする。

「やめろ!」

 反射的に振り払おうとした手が、マルセルの腕にぶつかる。その程度で大男の腕が払えるはずもないが、結果を言えば、ダミアンの肩が掴まれることはなかった。マルセルがピタリと動きを止めたのだ。

 いかつい顔が、ダミアンの横へ向けられている。そこに、全裸のポルノモデルが立っていた。いや、浮いていた。

『立派な身体。好きよ、たくましい男は』

 艶然と微笑むポルノモデルに、マルセルは「あ」とも「お」ともつかぬ声をあげるばかりだ。見開いた両眼が忙しく動き回っている。顔、胸、脚、股間。ポルノモデルの身体はどこもかしこも、男のユメとキボウに溢れていた。

 ポルノモデルはゆっくりとマルセルに肢体を寄せた。両腕を上げて、抱きつくようにしながら、両目を見据えて甘くささやく。

『ねぇ、舟を出してくださらない? 私、向こう岸に渡りたいの』

「……ああ、いいとも」

 虚ろな目と不明瞭な声で答えて、マルセルは踵を返した。ダミアンに迫ってきたときとは打って変わって、力ない危なげな足取りで、巨漢がターミナルに向かう。

 ポルノモデルの艷やかな黒唇に、邪悪な笑みがひらめく。

『単純な男はもっと好き』

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