本編

「やっぱり、ライブはいいよ。スズキさんのゴリゴリしたベース、最高だったな」

「ずいぶんと、顔が怖かったね……」

 興奮冷めやらぬミヤとは対照的に、冷静なヒロ。二人は、大須の老舗ライブハウスE.L.L.エルからの帰りだ。汗だくの体に、夏の夜の空気がねっとりと絡みつく。100m道路を渡りきったところに、白川公園への入り口がある。

「お、白川公園、久しぶり。ちょっと涼んでいこう」

 と先にずんずん歩いていくミヤの背中を、ヒロは追いかける。

「こんな都心に、すごい。森みたい」

「都会のオアシスな。んでさあ、今日のスズキさん、メイクのノリが最高だったよね。あれはね、E.L.L.の楽屋の鏡が大きくて、メイクに最適だからなんだって。前の名古屋ライブのときMCで言ってた」

 ミヤが大ファンだというヘヴィメタル・バンドのライブに「面白そうだね」などと口走ったのが運の尽き。彼らの演奏は圧巻で、ライブ自体はとても楽しかった。しかし、推しであるベーシストへの愛が止まらないミヤのお喋りに、ヒロは少々閉口していた。

 両脇に大木が乱立する散歩道を歩いていると、巨大な人影が右手側の木陰から現れ、ヒロはきゃっと悲鳴をあげた。一方ミヤは

「あ、スズキさんに似てる」とすかさずスマホを出してカシャリ。

 それは、この公園内に設置された現代アート作品の一つ。ドイツ人作家による五体の細長い人物像、スチール製だ。こちらを見つめる坊主頭の横顔が、ミヤの推しベーシストに似ていなくもない。

「なんだ、オブジェか。びっくりさせないでよ」と息を吐いたヒロに、一番手前の像の目がぎょろっと動いて、言った。


『この世が暗黒に包まれても、邪教の神に翼を与えてはならない。空が降ってくるから』


「はあっ?」

 驚きに目を剥くヒロを置いて、ミヤはどんどん先に進んでいく。慌てて追いついて、

「ねえ、今の聞いた?」

「え、なに? ごめん。ワジマさんのギターソロを脳内再生してたから聞いてなかった」

 ワジマさんは、スズキさんの相棒のギタリストだ。

「スズキさんて……いつもあの坊主頭に白塗りなんじゃないの?」

「そうだよ。白塗り一筋、三十年だからね。こだわりがあるんだよ、ドーランの種類とか」

 散歩道の突き当りを右に折れると、今度は細長いフォルムのウサギが現れた。ブロンズ製の彫刻だ。後脚で伸びあがるように立ち、前脚を前に突き出したウサギは悲痛な声で言う。


『空が、満天の星を包み込んだ天球が転げ落ちてくる! 我が腕で受け止めることができようか。あの邪神の復活の折には……』


 ヒロが呆気に取られてウサギのか細い腕を凝視している間に、ミヤはまたしても先をすたすた歩いている。

「ねえ、また像がしゃべったよ」

「象が? あれウサギじゃなかった? 今ノブさんの荒ぶるドラムを反芻してたから聞いてなかった」


 やがて視界が開けて、右手には噴水が、そして左手には――

「うわあ」

 初めて見る名古屋市科学館にヒロは目を見張った。両脇の箱に挟まれるようにして巨大な銀色の球体が宙に浮いており、なんとも近未来的デザイン。

「あれ、プラネタリウムなんだ。あ、あそこに自販機ある。のど乾かない?」

 子供の頃から、何度もここを訪れているという名古屋出身のミヤの反応は薄い。冷えたペットボトルを手に、二人は階段を上って噴水の近くへ。ミスト状になって流れてくる水しぶきが汗ばんだ体に心地よい。

 舞台のように一段高くなったスペースで、噴水をバックにダンスの練習に励んでいる若者たちの姿があった。公園の中央はグラウンドになっていて、サッカーボールを追いかけている子供の姿もある。

「夜なのに、賑やかだね」

 改めて、ヒロはぐるりと周囲を見回してみた。やはり科学館の外観は荘厳だ。


 そういえばさっき、スズキさん似のオブジェとウサギの銅像が何か気になることを言っていたような。


 だがそれを思い出すより先に、科学館から少し右側にあるモノに目を奪われた。


「見て、羽があるよ!」


 それは羽を模った彫刻で、人体よりも大きな翼が対になって広がっており、その前に立つと、大天使が羽を広げているような写真が撮れるので、何人かがスマホを手に撮影に興じている。

 自分も写真を撮りたくなってミヤを呼びかけた時、足元から不気味な声が響いた。


「その羽を見てはならない。邪神は弱らせておかなければいけない。そうでなければ、地に呑まれるか、あるいは」


 ヒロははっとして地面をみた。気が付かなかったが、足下のタイルに四角い枠の中を覗き込んでいる人々が描かれていた。彼らが覗く枠のなかは空っぽ。その何もない空虚な空間にヒロは立っている格好だ。背筋がぞわぞわして慌てて噴水の側で腰に手をあててお茶をぐいぐい飲んでいるミヤの元に駆け寄ると、今度は噴水から声が。


『まろび出でし天球に押し潰されて、すべてが平らになるだろう。すでにこの公園に集う者はみな死人しびと。疑うのであれば、水鏡に映して見よ。昼間なら欺けても、夜が真の姿を暴き出そう』


 ヒロは息を呑んで周囲を見た。まだ高校生ぐらいのダンスチーム、サッカーボールを追いかける子供たち、そして、口の端を歪め虚空を見つめるミヤの瞳は瞳孔が開いて漆黒のほらのよう――


「ミヤ!?」

「あ、ごめん。スズキさんのMCの思い出し笑いしてた」

「なんで聞き逃すかなあ」

「何を? あ、あれ、美術館だよ。あたしさあ、どっちかっていえばアーティストタイプじゃん? 科学館より美術館のが好きだったんだ」


 その割に、アートの言葉をことごとく無視してるけどね!


 ミヤは既に歩き出していた。名古屋市美術館は、科学館に向かって右手側にある横長の建物だ。

「美術館、こんな時間にやってるの?」

「まさか。でも、建物の周辺にも野外アートがあるんだよ」

「へえ」

 二人は、美術館の建物に沿って進んでいく。


「ヒロさあ、スズキさんの顔が怖いっていうけど、今日なんて血吐きパフォーマンスをやらなかったから、まだマイルドなほうだぞ。血糊でベースも衣装も汚れるから滅多にやらないけど。あれは、ちびりそうになるくらい怖いんだからね」

 アートに興味があるといいながら、ミヤは展示作品のテトラポットや鳥居のようなオブジェをスルーして歩いていく。ここに来てから、九割スズキさんの話しかしていないのではないか。


「ねえ、あそこに岩を積み上げてあるのもアートなのかな」とヒロが指さしても振り向きもしない。呆れたヒロは、一人でそのオブジェの方に歩み寄った。

 ごろごろとした大きな石を積み上げただけ? 

 だが、よく見ると、そのてっぺんから、異質なものが覗いている。

 なんだろう。木? 木が石の中から伸びて、頭をちょこんとのぞかせているのだろうか。だがその形状は、ナメクジが角をやたら滅多に突き出したような――


『そちらに行ってはならん! 邪教は封じておかねばならんのだ。必ず後悔するぞ! 天が、宇宙が落ちてくる! ああ!』


 ハイ、喋った。そして一人だけ先に行ってしまったミヤは、またもや聞いてない。


「ミヤ、そっち行かない方がいいよ!」


 角を曲がって、ミヤの姿が見えなくなっていた。ヒロは慌てて追いかけた。

 あのメタルバカの頭にペットボトルを投げつけてやりたい。そんな気持ちをぐっとこらえて、全力疾走する。

 ようやく追いつくと、そこは美術館の裏手、小さな池が細長く伸びている。ここにもいくつかのオブジェがあるが、ミヤの視線はただ一点に注がれている。

「ミヤ、ねえ聞いて。なんかヤバそうなんだって。ホラー映画だとこういう時はたいてい」行っちゃいけない場所にのこのこ出向いた愚か者が酷い目に遭うのだ、と言いかけた口があんぐりと開いた。

 ミヤの視線の先、小さな池の向こう、美術館の壁の側に、地面に倒れ伏す人影があった。


『重い……潰れそうだ……苦しい……助けてくれ……』


 黒い人物が哀れっぽい声を出した。

 まずい、とヒロは思う。

 ああでも、ミヤは人の話を聞かないから、このまま連れて逃げればよい。ヒロがミヤの腕に手をかけると


「ねえ、あの人、助けなくて大丈夫?」

「はあっ。こんな時だけ、なんで聞いてんの!?」


『重力なんだよ……おれはずっと海に暮らしてた。海の中ならばどれだけ深く潜ったって平気だった。おれには翼があった。ヒレじゃない。翼だ。それで、ペンギンよりも速く泳ぐことができたのに』


「なんで陸にあがったのさ」

 ぐいぐい引っ張るヒロに抵抗して足を踏ん張りながらミヤが言う。

『何十年か昔に大水があっただろう。この辺まで水浸しになったんだぜ。ひっでえ嵐だった。おれは、昼寝中に陸にうち上げられて、ここまで這いずって来たんだ。翼は、いつの間にかもげてなくなっていた。あの翼さえあれば』

「翼?」

 ミヤが眉をしかめた。

 まずい、とヒロは直感的に察した。

「行くよ、ミヤ。あいつにはかかわらない方がいい。あいつ、ジャキョーのジャシンだよ」

 海から来たってことは、あれだ。あいつだ、とヒロは思う。


 逃げないと、魚人間にされてしまう!


「翼といえば、さっき」と言いかけたミヤの口を背後から塞ぎ、もう片方の腕を腰に回して、引きずるようにして黒い影から逃げた。まるで高いところから落下したみたいに、うつ伏せで手足を広げ、平べったくなっている黒い人影は、重力に押さえつけられているのか、ぴくりとも動かなかった。


 気が付くと、美術館の裏側をぐるっとまわって散歩道に出ていた。ようやくヒロの拘束から逃れたミヤはぶつぶつ言っていた。散歩道は科学館と噴水のあるステージの間に続いており、その途中に、先ほどヒロがステージの上から見た巨大な翼があった。


「これ、さっきのあいつが」

「しっ。余計なこと口走って死亡フラグ立てないで!」


『私は、あやつの味方ではない。敵だ。二度とあやつの極悪非道な振る舞いの手伝いはしたくない』と翼は言った。


「喋った!」と今頃驚くミヤに呆れつつ

「そうなの。よかった」

 とヒロが翼の言葉に胸を撫で下ろしたのも束の間、彼方から不気味な笑い声があがった。それは次第に高まり、ヒステリックな哄笑こうしょうとどろいた。


「あれ、スズキさんがライブ中に発する奇声に似てる。なんかヤバくない?」

「ヤバいよ。でもなんで?」翼がここにあることは教えなかったのに。


『おそらく、別の者をそそのかして聞き出したのだ』翼は無念さの滲む声で告げた。

『あいつが来る。ずるずると、重力の重みに抗いながら、ゆっくりとだが、確実に這いずってくるだろう。逃げなさい』

「逃げるって、どこへ?」


 公園内に居た人々が、続々と二人の方に向かってきていた。その顔は夜間照明に照らされ死体のように見えた。ゾンビに襲われる場面を想起して震え上がる二人の傍らを人々は素通りしていった。無我夢中でその後を追った二人は、一両きりの路面電車が展示されている小さな広場に出た。その位置からだと、驚くほど巨大な銀の球体から横目で見下ろされている気がした。もしあれが転げ落ちてきたら、と思うとヒロは身震いせずにいられなかった。


『切符を拝見。あなた、切符は。なければ乗せられませんよ』


 狐の面を被った小さな子供が乗車口に立って切符にハサミを入れていた。

 背後からずるずると這い寄る黒い影の音が今にも聞こえてきそうで、二人の顔も恐怖のために色を失っている。

「お願い、乗せて! あいつから逃げないと」

 ミヤが必死に訴えると、狐面の車掌は、小首を傾げた。

『切符のないひとは、だめですよ。持ってないんですか』

「どこで買えるの?」

『買うものではないんです。ポケットを探ってみてください。ようく探してみて。ないですか?』

「そんなもの、あるわけが――」ミヤが泣きそうな顔で両手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「あれ」

 引っ張り出した手には、小さな長方形の厚紙が二枚握られていた。

 ミヤとヒロは顔を見合わせ、期待を込めて小さな車掌を見た。

「これで二人乗れる?」


『ああ、それです。どうぞ急いで。もう出発しますから。賽の河原行片道切符、たしかにいただきました』


 驚きに言葉を失った二人の前で、車掌はぱちんぱちんと切符にハサミを入れた。あとからあとから、電車に殺到する人々に押されて、ミヤとヒロは電車の中、さらに奥へ奥へと流されていく。


 チンチン、とベルが鳴って、路面電車が走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邪神の翼 春泥 @shunday_oa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ