呑まずにはいられない
lager
呑まずにはいられない
『唐詩選』、というアンソロ本がある。
出版年代は定かでないものの、16世紀末ごろ。明代の詩人・李攀竜の作とされるが、これには異説もある。
その名の通り唐代の詩人たちの作品を集めた詩集であるが、そこはそれ個人の作ったアンソロ本であるから、選出にはかなり偏りがあり、盛唐の頃の作品が多い(つまり白楽天などは選に漏れている)。
日本においても漢詩入門としては重宝され、数々の翻訳・注釈と共に古くから親しまれていた作品である。
ではどんな詩人の作品が、と言われれば、李白、杜甫、孟浩然などと挙げれば皆様の覚えも宜しかろう。中には楊貴妃物語で知られる玄宗皇帝の作品も収められていたりするのだが、さて。そんな歴々の詩人たちの中に一人、于武陵と呼ばれる人物がいる。
作品数、一。
『勧酒』と題されたその一作を、トリあえず紹介させて頂こうと思う。(これでお題はクリアである)
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
馴染みの無い方も多かろうが、ひょっとすると次の和訳版、とくに最後の一フレーズはどこかしらで聞いたこともあるのではないだろうか。
コノサカズキヲ受テクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
こちらは『山椒魚』で有名な井伏鱒二の残した漢詩の和訳十七篇のうちの一作であり、名訳として名高い。
かくいう筆者も、漫画『最遊記』の扉絵にこの訳詩が書かれているのを見て元の詩を知ったクチである。
この于武陵という人物、非常に情報が少ない。
名は鄴。武陵は
どこそこの生まれと大体の生没年は分かるが、人物像がはっきりとしない。
官吏の道に進んだこともあったが、夢破れたか嫌気が差したか、放浪の身となり易者の真似事をしたりもしていたらしい。
彼の詩を集めた『于武陵集』なるものが残されているようだが、残念ながら資料を探し出せなかった。
ここまで情報不足となると、これはもう仕方ない。
節操なきモノカキの手によって、好き勝手に妄想されても仕方がない。
ということで、今回はこんなお話をご用意させて頂いた次第である。
◇
桃の花の盛りであった。
遠く霞にぼやけた山々の頂に、ようやく雪の色が薄らいできた頃。暁を覚えさせじと、川の水は緩み、日差しは穏やか。若葉は淡い緑。
庭木の枝に止まる鳥の歌もどこか軽やかに聞こえる時候、武陵は背に妻のジト目を負いつつ、背筋を曲げて昼日中の自宅を後にした。
『またですか?』
『仕方ないだろう。仕事の付き合いなんだ』
『またそうやって仕事のせいにして』
『人付き合いだって官にとっては大切なんだよ』
春。
人事のあれこれも動く時期である。
まあ、送別会というやつだ。
都に栄転するものもいれば、田舎に左遷されるものもいる。武陵には良くも悪くもなんの変わりもない新年度だが、休日みなで集まって去りゆく者たちのために宴を、と誘われて、欠席するわけにはいかない。
新しいメンバーと顔繋ぎをする必要があるし、適度に気の利いた詩でも詠んで自分をアピールしておかなければならない。逆に欠席などしてあることないこと噂されてもつまらない。
隙を見せれば今の地位だってすぐに奪われる。
官界とは、そういう場所だ。
正直、うんざりしていた。
休日なのだ。一人のんびり詩作などして静かに過ごしたい。
この頃憂鬱な仕事も多く、気疲ればかりだ。
何故せっかくの休みに職場の人間と顔を合わせなければならない?
自分だって行きたくて行くんじゃない。それなのに、妻には冷たい目を向けられる。
ああ。本当に煩わしい。
…………。
もう、いいか。
それは雨だれの最初の一滴のように、武陵の胸の内にぽつんと落ちてきた。
もう、いいのではないか?
科挙に受かってはみたものの、自分程度の才覚を持つものはザラにいる。当たり前だ。そういう人間が科挙に受かるのだから。
今の暮らしを続けて、その先に一体何があるというのだろう。心を擦り減らして働いて、何か失態を犯して左遷されるか、謀によって左遷されるか、その程度の違いではないのか?
それならば、いっそのこと自分から官を辞して、まだ頑健な家に諸国を漫遊してみるというのはどうだろう。
妻には怒られるだろうが、あれもひねもすのんべんだらりと家のことを片付けているより、美しい風物の土地を見て回るほうが気も晴れるのではないだろうか。
誰の顔色を伺うこともなく、気の向くままに詩を詠んで……。
一度降って湧いたその考えは、武陵の心と頭をじわじわと侵食していった。
しかし。
「まあ、無理だよな……」
前日に残しておいた仕事を思い出す。
少なくともあれを誰かに引き継がなきゃ、辞められない。そして、引き継げそうな優秀な人は今日の宴で見送られる側にいる。
それどころか、彼の仕事を自分が引き継がされるだろう。
というか、妻が良しと言う未来が想像できない。
彼女に話を切り出す自分の姿も想像できない。
「無理だよなあ……」
「何が無理だって?」
いつの間にか、武陵の足は宴会場に辿り着いていたようだった。
「おう」
「よお」
はらはらと、桃の花が舞っている。
丘の上の並木のそこここに敷物が敷かれ、幾人もの集まりが宴を催していた。
たまたま武陵を目で捉えた同僚が、迎えに来てくれたのである。
「遅かったな」
「いや、すまん。妻を宥めていたら、つい」
「秀才武陵も細君には頭が上がらんか」
「止してくれ」
暗い気分の中、同僚の後を追って自分たちの敷物へ向かっていく。
花の明かりの中に、方方から酒精の香りが立ち上り、楽の音も聞こえていた。
「随分盛り上がってるな」
「ああ。どこぞの商家の嫁入があるとな」
「もう少し静かな場所ではいかんのか」
「しけたこと言うなよ」
「俺は今日は控えめでいこうと思う」
「そうかい。ま、トリあえず駆付け一杯」
見慣れた同僚や上司たちの顔が見える頃には、どうやらこの丘で一番騒いでいるのは我が職場であるらしいことが分かり、武陵はますます辟易としてしまった。
その輪の中に迎え入れられ、盃を持たされても、いまいち気分が上がらない。
しかし――。
「あれ、おい武陵」
「うん?」
「お前それ、何で持ってんの?」
「え?」
「ハイ、な〜んで持ってんの! な〜んで持ってんの!!」
「「「飲めてないから持ってんの!!」」」
「ハイ! 飲んで飲んで飲んで飲んで!」
「「「飲んで飲んで飲んで飲んで!!!」」」
……ああ。こういうノリ、苦手だなぁ。
まあ、そうは言っても、酒に罪はない。
それに、さっさと酔ってしまった方が少しは気も紛れるだろう。
花の香にも負けぬ芳醇な匂いを放つその盃を、武陵は一息に干した。
「「「ウェェェイ!!!」」」
一体何に対して盛り上がってるのかも定かでないが、武陵は意を決し、改めて宴に加わった。
炙った茸に川魚。
塩漬け肉。
肉詰めの饅頭。
ほかほかと湯気も柔らかく頬を撫で、いよいよ酒の匂いが全身を包む。
空いた盃には、すかさず次の一杯。
今日は昨年より豪勢だな。
そういえば、前回は幹事役の男が仕事に手一杯で料理の都合をつけるのが間に合わなかったのだったか。
自分も頑張って補佐してやったものだ。
思い出と共に、盃を干す。
そいつに仕事を押し付けた上司は、中央の上役の前で些細なミスを犯して左遷。ざまあみろと、あのときも皆で宴を催した。
……思い出したらまた腹が立ってきたな。
怒りのままに盃を干す。
近場にいた同僚にその話をふれば、改めて愚痴合戦が止まらなくなった。
そうだよな。
俺ばっかりじゃない。みんな頑張ってたよな。
今年は比較的マシなメンバーなんじゃないか?
そう思っていたら、今年の科挙で合格したという新顔を紹介された。
いや、なかなか跳ねっ返りの強そうな面構えをしている。
いやいや、わかるよ。俺も一年目はそんな態度で酒宴に参加していた。
まあまあ、君。
難しい顔をしてないで、さあ。トリあえず一杯。
そう遠慮するもんじゃあない。
どうせ今日咲いた桃の花だって、風が吹けば直ぐに散ってしまうんだ。
俺と君だって、直ぐに別れの時が来る。
今はこの出会いを祝して、さあ、飲もう。
ハイ、飲〜んで飲んで飲んで!
飲んで飲んで飲んで飲んで〜!!
……。
…………。
「あの、武陵さんって、いつもあんな感じなんですか?」
「まあな。なんでか知らんが、席につくまでは気難しい陰気な顔して来るんだよ」
「まるで別人ですねえ」
「みんな分かってるから、あいつが来たらトリあえず一杯飲ませるのさ」
「へえ。長い付き合いなんですねえ。あ、詩を詠み始めた。良い声してるなあ」
「あいつ、シラフの時はパッとしないが、酔ってるときは良い詩を作るんだよなあ」
君に勧む金屈巵。
満酌辞するべからず。
花
人生別離足る。
で、この詩が生まれたってわけ。
呑まずにはいられない lager @lager
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