音とリズムとそれから

佐倉奈津(蜜柑桜)

どうしたらいいのか

 ポーン……

 部屋に満ちていく残響を確かめながら、次の鍵盤へ指を動かす。そっと慎重に、しかし深く鍵を押せば、ほんの一瞬で起こるハーモニーの変換。

 途端、残響が歪んだ。

「あーぁう」

 直前に立ち起こった協和音に割り込む倚音が静謐な響きを悪魔の囁きに変えてしまう。予想以上に歪んだ不協和音は聴覚から脳髄に至り全身を気持ち悪くする。

 たまらずペダルから足を離す。すると醜く耐えがたい苦痛は悪夢の如く消え去り、がこんと小さな物理音がピアノの中から聞こえて普段通りの現実空間に戻る。

「こっれねぇ……どうするかなぁ」

 ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ作品二十七第二番、通称「月光」第一楽章。もう何度も弾いている曲だ。低音に繰り返される分散和音と重々しい旋律線が夜を思わせる超有名曲。

 そこに作曲家が与えた指示が問題なのである。

「この曲全体をたいそう繊細に、弱音器なしで弾くべし」

 弱音器なしで、つまりダンパーを上げっぱなしで。

 今のピアノでいえば、「右のダンパー・ペダルから足を離さないで」、踏みっぱなしで第一楽章全体を弾けという。

 そんなことをしようとすれば、先の如く美しいハーモニーに悪魔が口を挟み、瞬間的に地獄への誘いへ変わってしまう。

 ベートーヴェンの時代に使われた残響の短いピアノだからこそ、ダンパー・レバーを離さず弾き続けるなんてことができるのだ。モダン・ピアノで弾くなら適当なところでペダルを上げて、不協和音が混ざりすぎる前に踏み換えねばならない。

 すでにレパートリーになっている曲なので、もういくつか踏みかえのパターンはできているのだが、それでもやはりどれが正解なのかわからない。

 ——楽譜って記号なのよねぇ。

 この曲に限らず、楽譜に書いてある音符や指示を額面通りに弾いてはうまくいかないこと、または楽譜に書かれた通りに演奏できるわけがない、なんてことはざらにある。

 例えばラフマニノフ、前奏曲第二番嬰ハ短調。こちらも重厚な和音が印象深い曲だが、後半になると低音の和音を弾いてからすぐさま高音の和音を弾きに手を動かさなければならない。それも楽譜によれば低音和音は「鳴らしっぱなし」である。

 もちろん、低音を抑えたまま高音の鍵盤を弾くなんて無理なので、ペダルを踏んで残響を作り出して楽譜の状態を生み出すのだ。楽譜に記されたペダル記号が「手を離してもいいよ」という指示ではあれ、五線上の低音から手を「離さないで」弾くのは物理的に無理である。

 またはガーシュウィンの《ラプソディ・イン・ブルー》。こちらも似たように、楽譜にある音を伸ばしたまま別の和音を演奏せよとの箇所がある。

 ——ベートーヴェンさん、どうやって弾いてたんですか。

 虚空を眺めて聞いてみる。答えてくれるわけはないのだが。

 作曲家たちが使っていた楽器と響子がいま向かい合っている楽器は全くタイプが違う。音の立ち上がり方、残響の保続時間、ペダル機構。そんな違うものを相手に同じ曲を弾くのだから、常に演奏家である自分が楽譜を見ながら音楽を作り出さなければならない。

 ——楽譜片手にベートーヴェンに話しかけたら……

 答えてくれるだろうか。いや、どうだろう。あの人、演奏の仕方なんて自分で考えろって言って「話さない」タイプの人だ。多分。

 でもそれも面白いと思うのだ。というか、それが面白いと思うのだ。

 ポップスならカヴァー曲ばかりでは売れないだろうに、クラシックは言ってみれば演奏家一人一人がオリジナルをカヴァーして弾いている。同じ曲をそれぞれの演奏家がどうやって弾くのか。その違いが面白い。

 楽譜から読み取るばかりではなく作曲家が話してくれて、それで全てが解決するならこんな面白みは生まれまい。むしろ作者には話さないでいてもらいたい。

 ——正解はきっとないんだよねぇ。

 反り返っていた体を元に戻し、響子は再び鍵盤に指を乗せた。右足をペダルに触れ、そっと踏む。今日の月光は明日の月光ともまた違う。

 残響が悪魔にならないように。今やもう、もの言わぬ作曲家の代わりに音と楽譜と対話する。


 ***



「今日、やたら時代が飛びまくってたけど何かあった?」

 座卓に向かいながら匠がおもむろに尋ねた。響子の向かいの家に住んでいる幼馴染の匠はショコラティエであり、お互い時間が合えば、匠の仕事終わりにこうして一緒に過ごすのが常になっている。

「ベートーヴェンからラフマニノフに飛んで、ガーシュウィン行って戻ってきてたろ」

「よく聞いてるね」

「うちからよく聞こえますから」

 店の定休日である今日は自宅の調理場で新作の試作をしていたのだろう。響子のピアノを長年聞いているため、レパートリーはすでに覚えられてしまっている。

「楽譜通りの指示をどう調理しようか迷いまして。前の解釈が正しいのか、どうですかーって」

「作曲家と交信してたのか」

「いーえ。話してくれない作曲家みなさんにひたすらしつこく話しかけてました」

「なるほど」

 グランド・ピアノの椅子の上から見下ろすと、座卓の上にはレシピ・ノートが広げられている。そこに滑らせる匠のペンが鮮やかにプティ・ガトーのデザインを描き出していくのを眺めて、響子はいつもながら感心してしまう。

「それ、新作?」

「うん。春用の新製品。やっぱりローズ入れるかなぁ……材料費高くつくから価格とのバランスが問題なんだけど」

「ローズの香り好きだよ。合わせるならどのリキュールかな」

「んー……」

 ショコラティエも基本的な技術は人から学んでいくものとはいえ、新たな菓子は自ら作り出さなければならない。楽譜のような指示書があるわけでもなく、唯一無二の作品を創造する。

 作曲はできない響子にしてみれば、こうして次から次へと心躍るガトーを思いつく匠はやはりすごい。

 ただこうなった時の匠の集中力は凄まじく、ついさっきまで普通に行われていた会話もおざなりになったりする。今がその状況だ。その証拠に、響子が椅子から降りて匠の背中にのしかかっても眉すら動かさず、ひたすらレシピを書いては消し、ペンをあそばせまた描き、を繰り返している。

「ねーたくちゃん」

 返事がない。肩に頭を乗っけてみるが、振り向きもしない。無視しようとしているわけではないのは重々承知だが。いつも表情に乏しいが、真剣になると常以上に職人気質な仏頂面になる。

 ——たくちゃん目当てのお客さんの前ならそれでいいですけどね。

 しかしこうも反応がないと物足りない。

 響子は立膝をついたまま、少し乗り出した。

「ねぇたくちゃん」

「何……」

 振り向かないなんて予想のうち。横から攻めて、白い頬に口付ける。

「なっ……」

「えへ」

 寄りかかっていた無骨な肩が大きく揺れて、響子は振り払われないようパッと離れた。

 ようやくこちらを向いた匠の目が大きく見開いている。

「レアなたくちゃんを捕まえました」

「こら」

 叱りつける一言と一緒に響子の頭がぐいと伏せられた。そのまま脇に抱き寄せられて、匠の顔が見えなくなる。

 照れた表情を拝むのが阻まられたが、大きな手のひらが温かい。

 ——これは離さないで欲しいなぁ。

 ごろんと首を倒して身を預けると、とくとく心臓の音がする。聞いていれば次の行動なんて話さなくても読み取れる。

 この音が静まってくるまで、遠慮なく甘えさせていただこう。願わくば、ピアノの残響より長く残りますよう。


 ***Fin***





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音とリズムとそれから 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

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