茜差す教室で、俺の体操服(使用済み)の匂いを嗅いでいた君と――。

misaka

「離さないで」から始まる物語テンプレート

 それは、夏の熱さがようやく過ぎ去った、ある秋口のこと。


 俺、秋空あきぞら日和ひよりは、夕暮れの校舎を走っていた。


「危うく、体操服忘れる所だった……」


 気付いたのがついさっき。部活――テニス部――を終えて、帰ろうとした時。いつもより荷物が少ないような? とか思いながら校門を出る直前。友人が体育の話をしてくれたおかげで、思い出したのだった。


 冬に向けて、徐々に日が落ちる時間が早くなっている今日この頃。夏場だとこの時間でもまだ日も高かったのに、今ではもう、空は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。


 夕日に照らされ、茜色に染まる校舎を急ぎ足で行く。もう少しすれば、日が暮れる。廊下の電気は点けられると言っても、夜の学校はどこか異様な雰囲気がある。


 日が暮れる前に、さっさと取って返ろう。そう思って、教室のドアを開いた瞬間だった。


 開け放たれた窓から吹き込む風に長い黒髪を揺らす、女子生徒が居た。


 しかし、その顔は見えない。なぜなら、現在進行形で、彼女の顔は体操服に隠れてしまっているからだ。


「すぅ~……はぁ~……。すぅ~……はぁ~……」


 体操服で顔を覆い、全力で匂いを嗅いでいる。


「くぅ~、たまらないわ。洗剤と柔軟剤の奥にある、乾いた汗の臭い。オスの匂い」


 めちゃくちゃ解説している。


 っていうか、待って欲しい。その女子生徒が居る場所、俺の席なんだけど。嫌な予感しかしない。


 新鮮な空気を吸うためか、女子生徒が体操服から顔を話した。おかげで、ようやくその顔を確認することができた。


 鋭い目つきに長いまつげ。小さくまとまった鼻すじに、薄い唇。背の低い男子と並ぶ身長に、長い手足。ひと目見て美人だと分かるその女子生徒の名前を、しかし、俺は知らない。


 服はうちの高校の制服で、ネクタイの色から2年生……同学年って言うのだけは分かった。


「まさか体操服を忘れる馬鹿が居るなんてね。まぁおかげでこうして、衝動を抑えることができるんだけど」


 俺の存在に気付いていないのか、独り言を言ったのち、再び体操服に顔をうずめようとする女子生徒。


 色々と状況が飲み込めなくて固まってい閉まっていたが、さすがに声をかけないわけにはいかなかった。


「あの……」

「誰!?」


 機敏な身のこなしで、俺の方を見た女子生徒。


 もともと鋭い目つきをさらに鋭くして、俺のことを睨みつけてくる。その迫力は、言わずもがな。気のせいか、目が金色に光って見えるくらいだ。


 確かに、誰もいない教室に男女二人なら、女子側が警戒するのも頷ける。


 けど、冷静に考えて欲しい。自分の体操服をクンカクンカと嗅がれた挙句、ソムリエよろしく解説された俺の気持ち。恥ずかしい……ではない。


 言葉を選ばないのであれば、クソきしょい。たとえ美少女だとしても、やって良いことと悪いことがある。人生で感じたことのない恐怖を、俺は目の前の女子生徒に感じていた。


 正直、関わりたくない。


「コホン……。アナタ、どこの誰?」


 今もなお、俺の体操服を大事そうに抱えてこちらを威嚇している女子生徒。何がヤバいって、堂々としてることだと思う。


 もしここで顔を真っ赤にして、


『ち、ちがっ! こ、これは……!』


 だったらまぁ、ギリギリ、「ただの変態か」ってなるだけだ。けど、この女、堂々としてやがる。あまつさえ、まるで自分がか弱い普通の女子だと言わんばかりの態度だ。


 俺の決断は、早かった。


「失礼しました~」


 撤退。その一択に限る。


 どう見てもヤバい女子と関わるリスクと、体操服を見捨てるリスク。どちらを選ぶかなんて、常人ならば決まっていると思う。


 関わり合いになる前に、急いで教室のドアを閉め、部活で鍛えた足腰で全力疾走。荷物、校門に置いて来て良かった。おかげで、身軽に動くことができる。


 1つ飛ばしに階段を下りて、廊下を走るなという、先生からのありがたい忠告に適当に返事をしつつ。もう少しで校門だ、というところで。


「待ちなさい」


 これまで大地を蹴ってくれていた俺の足が、不意に、虚空を蹴った。


 声がした方向――後方を振り返って見てみると、先ほど俺の体操服の匂いを嗅いでいたヤベー奴がすぐそこにいる。


 自分が今、女子生徒に片腕一本で首根っこを持ち上げられているのだと気付くよりも早く。女子生徒が、口を開いた。


「これ、返すわ。アナタのでしょう?」


 そう言って、袋に入れた俺の体操服を返してくる。……けど。


「いや、マジで要らない」

「……?」


 いや、そんな不思議そうな顔されても。変態に触られた私物なんて、男子の俺でも気持ち悪くて触れない。


「どうして? アナタの体操服よね?」

「……えっと、なんでそう思うの?」

「えっ、だってにおい、一緒だし」


 そう言って、女子生徒は俺の体操服が入った袋と俺とを順に嗅いで、「やっぱり」と頷いている。


 ここでも、におい。


 この人、多分アレだ。匂いフェチってやつだ。つまり、結局、変態だ。関わりたくない気持ちが一層強くなる。


「いや、気に入ってくれてたみたいだし、あげるよ」

「ほ、本当!? やった! ちょうど、衝動を抑えるためのアイテム、探してたところなのよ!」


 教室で見せた険しい顔とは一転。それはもう嬉しそうに、無邪気な顔で喜ぶ女子生徒。その姿を見ていると、なぜだか、変態特有の不気味さを感じなくなってしまう。


 これが美少女パワーか、と、改めて女子生徒を見て、気付いたことがあった。


「ちょっと聞いて良い?」

「何かしら? あっ、この服はもう返さないわよ? アナタがあげるって言ったんだから」


 俺の体操服が入った袋を遠ざけて、死守の姿勢を見せる女子生徒。それだけ気に入ってくれたのなら体操服も報われるだろう。


「まぁ、それはどうでも良くて。えっと……その耳、なに?」


 俺は、女子生徒の奇行のせいで見落としていた異常なものを指さして見せる。


 女子生徒の驚くほど小さな顔の横にある普通の耳。それとは別に、頭頂部には、三角形のとんがった耳が2つ、生えていた。


「耳……? はっ!」


 両手を頭頂部に持って行って、耳を隠した女子生徒。都合、ようやく俺は宙吊りの状態から解放されて、尻餅をつく。


「こ、これは……。そう、コスプレよ。最近流行はやりでしょう?」


 なるほど、コスプレ。まぁ、それで良いか。


 立ち上がりながら、俺は一応、もう1つの異常についても聞いてみる。


「じゃあ、さっきから揺れたり立ったりしてる細い尻尾は?」

「うそ!?」


 今度は、両手で懸命に尻尾を隠そうとしている。けど、その手をくぐり抜けて、ゆらゆら、ゆらゆらと細長い尻尾は揺れている。


 あと、必死で隠してた耳がまた見えてるけど良いんだろうか。良いんだろうな。


「この、この……っ」


 しばらく、尻尾と格闘していた女子生徒だったけど、やがて隠すことを止めて、開き直った。


「これも、もちろんコスプレなの。最近のコスプレグッズは凄いのよ? まるで本物みたいでしょう?」


 まぁ、本人がそう言うなら、それで良いか。さっき衝動とか、いろいろ気になることを言っていた気もするけど、俺は一刻も早くこのヤバそうな人から離れることを目標にしている。


「そうだね。コスプレってすごいね、それじゃ――」

「待って!」


 再び首根っこを持ち上げられて、抵抗できなくされる。コスプレを趣味にする普通の匂いフェチは、片手で男子高校生を持ち上げられないんじゃないかな。


 あと、制服がダメになるかもしれないから、出来れば別の方法で引き止めて欲しいんだけど。


「……えっと?」

「今日のこと、誰にも話さないで」


 今日のこと、とは、どのことだろう。男子の体操服を嗅いでハァハァしてたこと? ソムリエみたいに解説していたこと? それともやけにリアルなコスプレのこと?


 多分、全部のことだろうな


「大丈夫。誰にも言わない」


 俺は両手を挙げて、降参のポーズを取る。言われなくても、こんなバカげたこと、誰にも言わない。言っても、俺の頭を心配されるだけだ。


「本当?」

「ほんと、ほんと。安心してくれて良いから、あとはお家で俺の服でもクンクンしといてくれ」


 皮肉を込めて言ったつもりだったんだけど、女子生徒特に気にした様子もなく、安堵の息を吐く。


「……そうね。耳も尻尾も両方出てしまっているから、今日は帰りましょうか」


 本人に隠す気があるのかないのか分からないけど、とりあず、これでようやく解放されそうだ。


 校門前に置いていた荷物を持って、あとは流れで解散――。


「ふふっ、アナタ、良い人ね。名前は?」

「サトウタロウです」


 やばい。反射的に嘘をついてしまった。けど、まぁいいか。今後関わることもないはずだ。


「そう、サトウタロウね。……タロウ、体操服、ありがとう」

「あ、うす。大切に使ってあげてね」

「ええ! この恩、いつか返すわ」

「あ、結構です」


 そんなやり取りで、俺は、コスプレを趣味にする普通の匂いフェチ(馬鹿力)と別れる。




 まさかこの日の「はなさないで」が、のちに別の言葉に変換されるなんて。あまつさえ、この女子生徒が俺にとってかけがえのない人になるなんて。


 この時の俺は、思いもしなかった。

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