汚物の枕

香山 悠

本編

 先に述べておくと、この話は誰にもしたことがないどころか、今日こんにちに至るまで、おそらく誰にも気づかれていない。可能な限り証拠を隠滅して、一切気取られないように行動したからだ。


 今後も、家族や友人に話すつもりはない。一方で、わたし自身、当時は覚えていたはずの記憶さえ、曖昧になりつつある。わたしが忘れてしまうと、それは黒ですらなくなってしまう。それでは、あまりにも寂しい。こちとら、下手をすれば死んでいたかもしれないのだ。


 そこで今回、「黒歴史放出祭」に参加しようと決めたことをきっかけに、当時の記憶や、メッセージアプリに残った記録を辿ってみた。時系列に沿って出来事を整理し、電車の発着時刻を調べて、整合性も確かめた。


 ここで公開するだけで、関係者にばれてしまうリスクはある。そのため、個人名はイニシャルでも出していないし、会話やメッセージの内容もほぼ明示していない。いや、まあ、そもそも会話の内容は覚えていないので何も書けないが。さらに、あのとき何かあったのだと関係者に気取られてはならないため、一切の聞き取りや事実関係の確認は行っていない。当然だ。


 ここまで盛大な前置きをしておきながら、今からわたしが書き記す話は、お酒にまつわる失敗談である――。




 当時、わたしは大学院博士前期課程二年次、俗に言うM2だった。同期はわたしを含めて、数人が博士後期課程に進学予定だったが、半数以上は卒業後、就職する。この夏季休業は、学生として一同が集う、最後の夏だった。


 しかし、研究や学会でそれなりに皆忙しく、いわゆる「夏の思い出」作りはしていなかった。


 そこで同期の一人が、思い出作りを提案した。近くの公園で、夕方からBBQや花火、キャンプをやらないかと。


 もちろん全員が賛同した。けれども、当日が雨予報になったり、一人が行けなくなったりして、結局一日ずらして、タコを焼こうとなった。たこ焼きパーティー、通称タコパである。


 この時点で、運命の歯車は、狂いだしていたのかもしれない。わたしに黒歴史を背負わせようと、お天道様が何らかの策略を張り巡らせたのだろうか……。




 さて当日、研究は早めに切り上げて、各自、役割を分担して準備にかかった。残されたメッセージによれば、十七時半から。所属していた研究室は割と在室時間に寛容で、やることさえやっていれば、何時に入退室しようが構わなかった。


 わたしは、研究室から自転車で十分ほどの業務スーパーに買い出しに出かけた。目的は、タコとたこ焼き粉である。


 少し話は逸れるが、業務スーパーはすべてが大きい。業務用だから、当たり前である。


 しかし、見つけたたこ焼き粉は予想以上の量だった。一キログラム。数にして、たこ焼き二百四十個〜三百個分である。惣菜なども食べる予定だったので、たこ焼きを百個作れる程度、五百グラムあれば充分だと見積もっていたのだが。


 アプリのメッセージで、当時のわたしは「まあええか」の一言で片付けている。同様に巨大だったタコも合わせて、結局使い切りはしなかったはずだが、余った材料はどうしたのだろうか。一切の資料、および記憶が残っていないため、真相は闇の中である。


 まあええか。話を戻そう。


 業務スーパーで買い物を終えたわたしは、帰り道にある通常のスーパーに向かい、買い出し班と合流した。


 目的は、酒である。そのころは焼酎にはまっていたので、芋焼酎の七百二十ミリリットル瓶を一本。他にビールや酎ハイも買っていたが、同期にも芋焼酎の味を知ってもらうつもりだった。


 揚げ物屋に注文していたオードブルも別班が取りに行き、大学近くに下宿している一人には、たこ焼き器を持ってきてもらう。


 十八時半には、準備を終えてパーティが始まった。


 研究室に後輩は残っていなかった、はずだ。間違っても、後輩がキーボードを叩いている横で、ジュージューとたこ焼きを焼くような、狂った所業はしていない。


 何を話していたかはほとんど忘れたが、楽しいと感じていたことは覚えている。輝かしい時間だった。全員が就職活動を終え、進学予定の者も試験に合格し、最後の夏を味わっていた。


 だが、焼酎を味わっていたのは、自分だけだった。これだけは、昨日のことのように覚えている。一人だけ、コップに半分くらいは飲んでいたが、他は誰も飲まなかった。


 特別飲むわけでもなく、強いわけでもないのに、同期の中ではわたしが一番の酒飲みだった。この後露呈するが、わたしは平均より少々強いだけである。しかし、同期の半数は缶一本以下で充分、一人は基本ビール、一人はいろいろ飲むが量はそこまでという具合だった。もちろん、焼酎を飲んだのは、最後の一人である。


 別に、他人の酒の楽しみ方をとやかく言うつもりはない。わたし自身、気分次第で「最初はビール」を無視するタイプである。しかしこのときは、焼酎のおいしさを同期たちと共有できない、一抹の寂しさがあった。なんなら、おれの焼酎(割り勘せず私費である)が飲めんのか的な感情が、どこかにあったように思う。


 結局、焼酎はほぼ一人で飲みきった。ロックで。当時は酔うこと自体が好きだったのもあって、酒はストレートやロックで飲むのが基本だった。ちなみに、今はお湯割りがおいしく感じられる。




 ――気がつくと、宴もたけなわですが解散! どころか、研究室の床に直寝していた。それも、横向きの顔や髪の一部が、吐瀉としゃ物の海に沈んだ状態で。


 一瞬で覚醒した。


 真っ先に確認したのは、今が何時なのかだった。もし誰か研究生が来そうな時間帯だった場合、言い逃れはまったくできない。不幸、いや身から出たサビ中の幸いとして、時間は午前六時を回ったくらいだった。まず確実に、しばらくは誰も来ない。


 任務の時間ミッション・スタートだ。


 そう、このときわたしはすでに、一切をなかったことにしようと心に決めていた。あらゆる証拠を隠滅し、何食わぬ顔で飲み会の翌日も研究を進める。そのために何よりも大切なのは、すべてを遂行するための時間だ。


 二日酔いどころか、まだ当日酔いしている頭で、必死にシミュレートする。研究でシミュレーションは何度もしていたので、お茶の子、もといお酒の子さいさいである。


 今は六時過ぎ。掃除を終えて最低限の身なりを整え、研究室を出るのは遅くとも七時前。朝早いのと、事態に気づかれないために、下宿の人間には頼れない。おそらく一番早くに来る人で八時ごろなので、大学から駅までの道のりでばったり鉢合わせする可能性は低い。家に着くのが八時前後。父親は家を出ており、母親はおそらくまだ寝ている時間のはずだ。姿を見られず、シャワーを浴びることさえできれば、後はどうとでもなる――とにかく、まずは掃除だ。


 床の吐瀉物は雑巾で除去。研究室内に流し台があったので、外部の人間に見つかる心配はなかった。雑巾に消臭剤を染み込ませて、叩きながら念入りに床の臭いを取り除く。室内にも、消臭剤を大量に振りまいた。


 これで、床と部屋の臭いは、ほぼ誤魔化せた。床に這いつくばって臭いを嗅ぐような変態がいなければ、大丈夫である。


 顔と髪、それに服の一部も、水道で軽く洗う。乾かす時間はないため、本格的には洗えない。それでも、電車に乗るため、最低限の身なりは整えた。近寄って、臭いを嗅がれなければ問題ない。


 ここで、スマホを確認してみた。いくつかメッセージアプリに通知が来ている。それどころか、まったく覚えていないが、自分も同期のグループチャットにメッセージを送っていた。


「80わえん」


 原文ママである。意味がわからない。その後すぐ八百円だと訂正しているが、どうして「わえん」で送ってしまったのだろうか。せめて「80えん」か「800えん」にしてほしかった。


 他にも、今回のタコパでかかった諸経費を計算し、一人あたりの金額をチャットにあげていたのだが、すべて間違っていた。八百円でもないし、出所不明の数字で合計も計算しているし、数字を示しているのに合計が間違っていた。で、記憶もない。ズタボロである。


 同期からも間違いを指摘されていたが、メッセージのやり取りを見る感じ、どうやら解散したのは午前〇時前らしい。


 金勘定が間違っているのは、さすがにまずかった。手元にレシートは残っていたので、当日酔いの頭とスマホの電卓を駆使して、しっかりと計算し直した。何度も確かめてから、訂正の金額を送る。


 予定通り、七時前には研究室を出た。季節は夏。すでに日は昇りきり、酔っぱらいに容赦なく照りつける。それでも、任務ミッションの三分の一を達成した高揚感で、足取りは軽やかだった。


 嘘である。気分は最悪だった。これから自転車と徒歩で二十分弱かけて駅に向かい、一時間ほどかけて家まで帰らなければならない。ほのかに香る臭いをまとって。しかも道中、知り合いに会わないとも限らない。ぶっちゃけ、出会ったら終わりだ。


 それでも、何とか道中誰にも会わず、帰りの電車に乗ることができた。座ってしまうと、座席に残り香がついてしまうかもしれない。隣に人が座って、臭いを嗅がれるリスクもある。電車内では、半分気合で立ち続けた。


 電車に揺られながら、少しずつ冷静さを取り戻す。


 横向きに寝ていたのでよかったものの、もし仰向けで致していたら、最悪窒息死していた。神が謀ったにしては、あまりに低俗すぎるではないか……結局そうはならなかったが、低俗なことに変わりはないな。


 八時ごろには、なんとか帰宅できた。ここまで生きた心地がしない帰路は、経験になかった。両親に見られないか警戒しながらも家に入り、シャワーに直行。奇跡的に、母親はまだ寝ていた。おぉ神よ。


 シャワーを浴びて、一息、いや半息ついた。ここまで来たら、誰かに見られても大丈夫なのだが、実は道のりはまだ半分なのだ。


 何食わぬ顔で、研究するためには? そう、復路が必要だ。研究室に帰るまでが、任務ミッションである。


 清潔な服に着替えて歯を磨き、八時半すぎには、ふたたび家を出た。


 家でのんびりしたい欲はあったが、あまり睡眠欲はなかった。脳内麻薬が大量に分泌されて、興奮状態にあったのだろう。いや失礼、〇時解散で六時起きなら、最長で六時間は寝ていた。まったく寝た気はしないのだが。


 十時ごろには、研究室に戻った。


 すでに後輩が在室していたが、軽くあいさつしただけで、他に何も言われなかった。


 勝った。任務完了ミッション・コンプリート。なんなら、普段の入室時刻より早いくらいである。


 ポーカーフェイスで自分の席に向かいながら、胸中でわたしはニヤリとほくそ笑んでいた――。




 以上が、ことの全容だ。ベースは、自分の記憶である。ただ、メッセージのやり取り相手や内容、残された送信時刻、電車の発着時刻から推理したので、時系列はほぼ完璧なはずだ。


 問題はそこではない? もちろん、この黒歴史からわたしは学んだ。歴史から学ぶは賢者である。あれから、芋焼酎を一人で一本空けてはいないし、研究室では一切粗相をしていない。


 汚物の枕で寝るのは、もうこりごりだ。

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