ある木馬の聖水

もるげんれえて

ある木馬の聖水

「なんだ、これは」

 駐在の日吉は現場に到着すると、困惑のあまり呟いた。通報の電話では「とにかく変なものがあるから来てくれ」とタバコ屋の良治さんが捲し立てるものだから、獣の死体か何かかと思った。が、「とにかく変なもの」は日吉の想像力をあまりにも超えてしまっていた。改めて良治さんが捲し立てた気持ちもわかる。

「なにって、こりゃ、なんなんだかなあ」

 良治は寝起きのようで着古したジャージに寝ぐせのついた髪をかいた。ほんのりと彼からはたばこのにおいがして、足元には吸い殻が落ちていた。

「いつもみたいに、ここの境内を掃除しようと思ったら、こんなもんが出ておったからなあ」

 応える良治の視線は、町はずれの小さな境内に向けられている。七、八畳ほどの小さい境内には、奥に小さな祠があるだけだ。だが、今日は良治の指さす先に、得体のしれない木の塊がある。大人の胴体ほどの太さの丸太から、腕くらいの太さの木が左右二対生えていた。さらに片方の先端にはそれらの木より一回り細い木が天に向かって伸び、さらに先に首を垂れるようにもう一本接続されている。

 要すると、小学生が作ったような、木馬のような木工細工が鎮座していたのだ。

 これだけでも十分奇怪なのに、さらに奇怪なのはこの木馬全体がよくわからない液体を滴らせているのだ。木漏れ日に照らされて、てらりと光るその様は、丁寧に研磨されて白色の木肌を美しく光らせていた。

 ただの木工細工ならば壊して燃えるゴミか焚火にしてしまえばよいのだがなあ。どう対処したものか、と日吉は顎の剃り残しをしきりに撫でた。そもそもこれは燃えるのだろうか。

 というより、あの液体は大丈夫だろうか。

「まさか、とは思うが触ってねえよな」

 と日吉が問うとぎょっと良治は目を見開いて

「ばっかやろう。こんなん触ろうなんざ思わねえよ」

「そらそうかあ」

 やれやれともう少し木馬に近づく。辺りには土と遠くから朝餉の匂いが乗ってくるだけで、おそらくこの液体から湧きたつ匂いというものは感じられなかった。もう少し近づいてみても同じだ。木馬の体表を覆うように、少しばかりとろみのある透明な液体が覆っていて、顔に当たる部分からたらりたらりと溜まった液体が滴っている。石畳を黒く染め、小さな水たまりを作っていた。

「んじゃあ、後は頼んだぞ」

 木馬を観察していた日吉をしり目に良治はそそくさと撤退してしまった。声をかけようとしたが、かける言葉は見つからなかったため、良治は視界から去っていった。

「……どうするかなあ」

 それなりの警官歴の中で、日吉にとってかなりの難事件が幕を開けた。


 突如現れた奇妙な木馬の噂は、瞬く間に町中に広がった。その日は近所の良治しか訪れない町はずれの祠に町内の全員が押しかけた。碌な話題もない山間の田舎町なら、こういう物珍しい話題が気にならない人はいない。

 さっさと処理したい日吉であったが、次から次にやってくる町人を見て、どうせこの中の誰かの悪戯であろうと考え、ならばこの騒動をほくそ笑んでいるところをとっ捕まえてやると決めた。しかし日吉の目論見は外れた。結局それらしい人物は出てこなかったので、午後になって処分についてを町役場に聞いた。

 ところがここから困ったことになった。本当にこれが落とし物であるか分からず、また、日吉が相談する前にどこかの誰かが「これは神様からの贈り物だ」という一方があり、この木馬のどうするかについて、町役場でも意見が割れてしまっているとのことだった。まさか、遺失物として処理しようと思っていたら日吉の思惑外の騒動となってしまっており、ほとほとに困り果ててしまった。その日はどうするべきかという結果が出なかったので木馬はそのままになった。だが、待てと暮らせど役場から日吉には連絡はなかった。しびれを切らした日吉が役所に行く頃には良治がお供え物までする始末となっていた。

 まあ、どうも有害ではなさそうだし、村興しにはならないだろうがちょっとした話題にはなるだろうという、なんとなくの空気を察して日吉はこの件を保留とすることにしたのだった。


 あの木馬が現れてからかれこれひと月が経とうとしていた。

 寂れた祠に参拝が増えたこと以外にこの村では特段、変わったことは見られなかった。

 最初こそ日吉は足繫く、この事態を引き起こした人物がいないかと目を皿にしていたものだが、ついぞそんな人間は現れなかった。今では日に一度、町の警邏のついでに立ち寄る程度だ。

 今日も至って平和な巡回を楽しみ、帰路の途中に木馬のところへ寄ることを忘れていたことを思い出した。

 木馬が居座っている境内は相変わらずの静かさで、依然と比べたら入り口が綺麗になっていた。木馬の足元には小さな皿に気持ちばかりのお供え物が置かれている。今日は町はずれの吉富じいさんが小さな大根を置いていったようだ。

 木馬からは相も変わらずに粘液のような液体が滴っている。石畳も常に濡れており、影がより黒く映っていた。

「あら、巡査さん。こんにちは」

 背後から声をかけられて振り向くと、住吉のばあさんが立っていた。買い物袋からネギをのぞかせて、手元には空のワンカップ瓶を持っていた。

「住吉さん、こんな時間にどうしたんだ」

「ちょいと買い物帰りにね。木馬様に寄ったのよ」

 木馬様、というのがこの木馬の愛称になっている。いつの間にそんな名前が付いたのやら、と目を細める。日吉の隣を住吉ばあさんは通り過ぎ、手を合わせてから、木馬の鼻先から滴る液体をワンカップの中に溜め始めた。

 流石にこれには日吉もおいおいと目を見開きながら

「住吉のばあさん、こりゃなにやってんだ」

「ん、あんた知らないのかい」

 とにこりと微笑みかけた。まるで生活の知恵を教えるかのように、住吉ばあさんは教えてくれる。

「木馬様の聖水は病気に効くんだよ」

「効くったって、こんな得体のしれないものをよく飲めるよな」

 たっぷり半分はワンカップの中に、その木馬の聖水とやらが溜まると、そっと引き抜いて蓋をした。

「三井さんが教えてくれたんだけどね、熱が出たときにたまたま飲んでみたら、そりゃよく効いたそうだよ。私もこれを毎日、スプーン一杯飲むと腰やら膝の痛みがそれはすっと引くもんだ」

 自分の眉がどう動いているかがわからないくらい、なんとも言えない顔をしていると日吉は自覚した。こんな液体を飲むとは自分には到底考えられないことだった。そんな日吉に、住吉はずいっとワンカップを差し出した。

「あんたも若くないんだ。試しにどうだい?」

「あー、今日はやめとくわ」

「そうかい。まあ、お馬様は逃げはしないからね」

 聖水をため込んだワンカップを買い物袋に入れると、住吉ばあさんは境内を後にした。確か、少し前までは数歩歩けば一休みしていたくらいに足腰にガタが来ていたはずだ。それが今では軽快な足取りで帰路を歩んでいる。

 プラセーボ効果、という奴だろうか。思い込みで痛みが引くならいいが、と日吉はもう一度木馬を見た。

 木漏れ日はオレンジになり、木馬はうっすらと橙色に染まっていた。その液体もまた、薄い赤と黄色を合わせたような色をしている。それはまるで、馬の毛並みのように生き生きと映えていた。


 吉住のばあさんが始めたことは瞬く間に町に広まっていった。最初こそ訝しみの声が多かったけれど、数人の老人たちが痛みに効いたといえば、こっそりとその液体を拝借する輩が増えていった。

 日吉は持ち帰る人間を見つけたら注意するくらいで、さすがにこれ以上増えることはないと思っていた。

 だが彼の予想を裏切り、あまりにも多くの人がその液体を口につけることになる。

 何時しかその液体は、聖水と呼ばれるようになっていた。


 この町のいいところは狭いことだけれど、悪いこともまた狭いことだ。

 いろんな噂が回るのが早いのが田舎の特徴で、健康に不安がある老人なら、健康法がその時々ではやるものだ。例えば何とか運動とか言って広場に集まっていたし、とある漢方がもてはやされれば皆で買って融通し合っていた。

 そして木馬の聖水も、間違いなく流行り始めようとしていた。いや、日吉が気付いたときには遅かった。町のほぼ全員がこの液体を飲んでいたのだ。

 これは見逃せないと市役所に行ったが、職員もこの木馬の液体の信奉者であった。

 ただの水であればよかった。どうせ良くなった気くらいの効果しかないだろうから。けれども飲む人すべてが間違いなく効果を訴えていた。腰痛が減った。膝の痛みが治まった。風邪がすぐに良くなった。それは日吉の目から見ても、明らかだった。明らかだから、そこ恐ろしい何かを勘付いていた。

 気付けば日吉だけがこの聖水に口をつけていなかった。皆、ほんの少し木の香りがするくらいで、味は全くない、だから怖がらなくていいと口をそろえる。

 そんなわけがあるだろうか。自分も酒は飲む。タバコも吸う。健康じゃないものを接種してきたけれど、これは違う。

 木馬の液体を飲むことは、日吉にとって忌避すべきことだった。

 だが、彼がそれを言うには遅すぎた。もはや、彼が町の者たちから囁かれる側になっていたのだ。

 あいつだけ木馬様の聖水を呑んでいない、と。

 警察だから怪しがっているんじゃないか、と。

 街を巡回しているときに掛けられた挨拶は、気付けばヒソヒソ話に変わっていたのだった。

 それでも、日吉はこの町ひとりの巡査として、日課は欠かさず、職務を全うしていた。

 その日、彼は夕焼けの中で帰路についていた。その途中には例の祠があり、視界に入るとため息が出てしまう。祠の周りは以前から見違えるほど清掃され、小さな鳥居が作られ、誰かが備えた花壇までがあった。

 夕方で人の少ない時間だった。境内には誰もいない。夕日の中で木馬だけがじっとりと聖水を垂れ流している。

 ふと、彼は足元を見る。

 道端の側溝の上に一匹のネズミが横たわっていた。ハツカネズミだろうか。田舎でもよく見るそれは、普段はでっぷりと太っているはずなのだろうに、あばら骨が浮かぶほどやせ細り、微かに呼吸しているのが見えた。かさかさと力なく前足を動かし、何とか境内へ進もうとしている。

 力なく垂れ落ちたピンク色の舌をじっと日吉は見た。

 自分がなすべきことを、ようやく日吉は理解することができた。


「おい、これはどういうことだ!」

 方々から浴びせられる怒声を前に、日吉は肩をすくめながら、これもまた何度繰り返したかわからない説明を繰り返した。

「だから、この置物は危険物の可能性があるんだよ。そんなものを放置することはできないって言っているだろう」

 木馬が安置された境内の唯一の出入り口には黄色のテープが敷かれ、立ち入りが禁じられたのが数時間前。その判断を行ったのが日吉で、テープを張ったその時から次々と来る村民に同じ説明を繰り返していた。そうこうしている間に小さい村中に噂が駆け巡り、多くの木馬を信奉する人々が押しかける結果となった。村中の人々が崇めていたことは日吉も理解していたが、よもや村民の半分近くが押しかけることになるとは思わなかった。どうせほとんどは老人ばかりなのだから暇つぶしがてらの鑑賞かと思ったが、日吉に向けられる視線はどれも鋭く、疑心暗鬼を浮かべていた。どころか、老人だけではなく比較的若い主婦なども集まっていた。

 多少なりともこうなることは予想していたが、これほどまでに信仰が広がっているとは思わなかった。いや、これを信仰というべきだろうか。本当に、御利益だけでここまで人は目付きを変えることができるだろうか。

「なんべんも言うが、もう県警にも相談してある。いい加減あんたらも目を覚ましたらどうだ」

「眼を覚ますのはあんただ!」

 そう声を張り上げたのは、この木馬の第一発見者だった良治さんであった。

「木馬様をあんたはどうするつもりなんだ!」

「そう怒鳴るな、良治さんよお」

 どうどう、と手を広げるが良治は鼻翼をひくひくとけいれんさせている。彼の周りの人間も、同調するような警戒心を彼に向けていた。

 長年の経験で動揺を隠す術を日吉は身についていたが、親戚同然に育った良治からここまでの怒声を浴びせられたことは初めてだったことは、ますます只ならぬ事態だと痛感させた。何より彼の怒りを受けたことが日吉にとってあまりにも堪えた。胃袋が縮こまるのを感じながら説得を続ける。

「そもそも、木馬から液体が出てくること自体がおかしいんだよ。普通じゃあり得ないし、体に安全かどうかわからんだろ」

「御聖水は安全じゃ!」

「そうだ!」

「膝の痛みも飛んだし、孫の病気も治してくださった!」

 日吉の言葉に餌が落ちてきた鯉の如く喚き立った。

「そうかもしれんが!本当に安全かどうか、ちゃんとした先生方に調べてもらった方がいいだろう。それまでの辛抱だから」

 それは本当である。実際に県警のほうに相談し、近いうちに大学の先生と調査に来る、ということであった。

 しかし村民たちの怒りはいったんは矛を収めたが、鯉口を鳴らすように、いや、しかし、と相談していた。

「あんたらが木馬様は慕っているのは分かるが、な。この村を預かる身としては一度、ちゃんと調べておきたいんだよ」

 まあそれなら、と空気は和らいだ瞬間だった。

「だが」

 その声は集団の中から聞こえた。住吉のばあさんがずいっと表に出てきた。

 この頑固者を説得するのは骨が折れそうだ、と思った日吉だが、その眼光の鋭さには気づかなかった。

「こいつが、木馬様を先生方とか言う奴らと一緒に、どこかにやるかもしれん」

 頑固さは時に疑心を生む。己が理解できぬものを想像するには、理解できる範囲でしか想像できないから。

 老婆の一言に、空気はぴしりと緊張に張った。

「いや、もしかしたら、木馬様を奪う口実かもしれん」

「いや、住吉のばあさん、それはないから……」

 安心してくれ、という言葉は体の強張りで喉元で止まってしまった。

 何かに気付いたように、村民たちの目が日吉を貫いていた。

「そうだ」

「こいつはずっと、木馬様の聖水を飲んでない」

「俺たちを騙すつもりだ」

「待て、待て待て!」

 日吉は声を荒げ、皆を見渡した。

 だが、返ってきたのワンカップに入った聖水だった。

「ほれ」

「!」

 ずいと突き出されたそれに、日吉は思わずのけぞってしまう。

「逃げた」

「逃げたぞ」

 逃げた、逃げた、と村民たちが囁く。

違うと叫ぼうとした。目の前に液体の入った入れものを出されれば、反射的に逃げてしまうものだろう、と。

だが、反論は許されない。

「木馬様の聖水は、疾しいものを祓う力があるのじゃ」

 トンチキだ。迷信だと言い返すことは日吉には出来なかった。

 村民たちの視線は、何か別のものを見る目であった。

 目の奥に光が灯り、煌々と照らすように日吉に向けられていた。だが、その光は昏く、炎とは別のものであった。

「こいつは、生かしちゃおけない」

 誰が呟いたか、あるいは皆が呟いたか。

 背後の木馬から、聖水が滴る音が響いた。


 県警と大学との調査はその後、数か月ののちに行われた。

 日吉の連絡のあとで、別の村民から「日吉が怪我をしたため調査は後日にしてほしい」という連絡があった。県警としてはあまり重要視していなかった案件ということもあったので調査は立ち消えていた。

 案件が復活したのは日吉とは全く別の方向からの相談であった。それはこの村からの連絡が一週間途絶えたことから県庁からの依頼であった。

 調査隊が村に入ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。

 全町民が自宅、あるいは職場で倒れ、皆が死んでいた。つい数日前に死んだと思われるまだきれいな遺体から、死後ひと月は経過しているような、腐敗の進んだものまであった。ただ、一体だけ損傷の激しい遺体が見つかった。

 調査の過程で「木馬様」から取れる「聖水」なる液体が怪しいということまでは判明した。ある家屋からプラボトルに入った聖水と思われる液体を回収し、検査に回った。

 聖水と呼ばれた液体の内容は、キニーネと呼ばれる熱冷まし、痛み止め、そしてマラリアに対する薬に近い構造を持つ物質が含まれていた。普通のキニーネと違う点は、鎮痛効果と抗炎症作用が非常に強いこと、精神的な作用も持っていること、依存性を示したこと、そして一番の問題は体内では分解されず、一定量を接種すると臓器の多くが不全を引き起こし、瞬く間に死に至るという恐ろしい副作用であった。

 この物質はこれまで発見されたことはなく、どこで採取されたかが問題となった。しかし、このプラボトルに入っていた聖水以外、彼らは見つけることはできなかった。

 ただ、村はずれの小さな境内に木彫りの木馬があったが、その体は乾き、終ぞ水を湛えることはなかった。

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