第64話【最終回】語り手は曹洪。我らは戦い、生きて行く

 疲れているのに気が高ぶって眠れない。

 おれは自分の腕を枕にして、目を閉じる。

 そのままでいると、誰かが寝室に入ってきた。

 それが誰なのか、おれにはわかった。

 いや、むしろ、その人であって欲しいという想いだった。

 その人は、静かに、おれの頭の横に腰かけた。

 温かい手のひらが、おれの頭に乗せられる。

 おれは、目を開けた。

 目に、涙が浮かぶ。

 ようやく、声を出すことができた。

「……兄上」

 手のひらが、答える代わりに、優しくおれの頭を撫でる。

 おれは起き上がり、兄上に向き直る。

 兄上はほほえみ、自分の腿を、手のひらでぽんぽんと叩いた。

 おれはすぐに、五つの時を思い出す。

 兄上の膝枕で昼寝をすることが、おれは、何より好きだった。

 兄上の腿をおれは見る。

 こぼれた涙が、兄上の夜着の上にひとしずく、落ちた。

 おれは恐る恐る、兄上の腿に、頭を乗せた。

 目を伏せると、涙があふれ出す。

 おれの頭を、兄上は優しく、何度も、撫でてくれた。

「兄上」

 兄上の腿の上に乗せたおれの手に、兄上の手のひらがそっと重なる。

「洪」

 そう呼ばれるのは、ほんとうに久しぶりだった。

「ずっと考えていた。おまえにこたえるにはどうしたらよいか」

「おれにこたえる?」

「おれはあいにく、男に興味はない。だからおまえの相手はしてやれない。そんな時に思い出したのだ。おまえが小さい頃、よくこうしてやっていたと。もしかしたらおまえがほんとうに望むことはこれではないかと」

 おれは頭を上げた。

 優しいまなざしがおれを包む。

 おれの中でやっと、想いが言葉になる。

「……そうです。その通りです。おれはあなたのそばにいたい。あなたの苦しみも怒りも安らぎも全部あなたと分かちあいたい。おれだけじゃない。きっと他の者たちも同じように思っています。あなたが生きる道は険しいから。その道がどこへ向かおうと、あなたが進む道をおれたちも歩くことが喜びだから」

 兄上が苦笑いする。

「ずいぶんと詩人だな、洪」

「あなたはいつも、おれたちを見てくれるから。だからおれたちは生きている」

 兄上がおれを抱きしめる。

 それは性愛のためではない。もっと大きな、もっと深い何かだ。

 兄上は立ち上がった。

「今日あたり、暁雲たちがたどり着く。出迎えてやろう」

「は――はい」

 ほほえみをひとつ残し、兄上は背中を向けて、おれの寝室から出ていった。

 夢だったのだろうか。

 いや――夢では、ない。

 おれの目からまた、しずくが一粒流れて、頬から顎へ伝い、落ちた。



「来たぞ」

 子孝兄が笑って城壁の階段を降りる。

 おれもあとを追った。

 おれたちは甲冑をつけている。

 子孝兄と並んで馬に乗り、見えてきた騎影に歩み寄る。

 馬上にある人影がよりはっきりと見えてくる。

 すると一騎、足を早めた。

 子孝兄がおれに微笑を向ける。

「馥だ」

 確かにおれの息子だ。

「ほめてやれよ」

「ああ」

 馥がおれの前に来て、止まった。

 三日間離れていただけなのに、ずいぶんと顔つきが引き締まっている。

「父上」

「馥」

「ただ今戻りました」

 おれは、自然と、ほほえんでいた。

「……よく、頑張ったな」

 聞くやいなや、馥は涙を流した。

 おれは優しく声をかける。

「城内へ行こう」

「……はい……」

 暁雲、程軍師、仲康、元譲兄も並ぶ。間者たちもいる。管・銭・江・石だ。

 暁雲はおれと子孝兄に一礼した。

 上げた顔は、眠そうだった。

 子孝兄が暁雲の肩をばしんと叩く。

「ほれ、しっかりしろ。もうひと頑張りだ」

「はい」

 暁雲はしっかりした声で返答する。

 おれたちは城内へ向かった。

 門をくぐり、馬から下り、建物の中に入る。

 軍議に使っている広間では、兄上と護衛たちが待っていた。兄上は平服だ。

 おれと子孝兄は兄上の隣に立つ。

 暁雲たちは一斉にひざまずいた。

 兄上の甲冑を身につけた暁雲が口を開く。

「ただ今、帰還いたしました」

 兄上の目に、涙が光る。

「……よく、戻ってくれた」

 兄上が子孝兄に目配せした。

 子孝兄が笑ってうなずき、暁雲たちに問いかけた。

「体を洗う、飯を食う、寝る、どうする?」

「寝ます」

 暁雲と元譲兄、管と江がすぐさま答える。

「体を洗いたい」と程軍師と石。

「飯を食います」と答えたのは馥と仲康と銭。

「わかり申した」

 子孝兄は皆をつれて出ていった。

 程軍師が子孝兄に言う。

「あとから来た兵たちにも、飯を食わせてくれ」

「用意はできていますよ」

「さすがは子孝だ」

 兄上は護衛たちに声をかけた。

「おまえたちも食事をとってこい」

 護衛たちが一礼して退出する。

 兄上とおれ、二人きりになる。

 兄上はおれに、静かに言った。

「おまえと子孝、元譲に、このあたりの城を守ってもらいたい」

 はっとして、おれは兄上に問う。

「では、一緒にいられるのは、今だけ――?」

「そうだ」

 おれは泣きそうになる。

「詳しいことは、このあと話す」

 伝えたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。

 兄上はおれのそんな想いを汲んだかのように、おれの背中を軽く叩いた。

「洪」

 おれは顔を上げた。

 目が合う。

 兄上がそっとほほえむ。

 おれはその目を見て、覚悟を決め、告げる。

「預かった城は、必ず守る」

「洪はほんとうに頼りになる」

 聞き終わらないうちに、おれは涙した。

 兄上は広い胸に、おれを抱いてくれた。

 そこへ暁雲が戻ってきた。

 おれたちは体を離す。兄上が尋ねた。

「何だ」

 暁雲は兄上に歩み寄り、じっと見つめ、口を開いた。

「父さん」

 兄上が目を見開く。

 暁雲は照れ笑いを浮かべる。

「やっと呼べた」

 兄上は暁雲を固く抱きしめた。

 暁雲は最初驚いていたが、すぐに固く抱き返した。



 まだ暗いが、目が覚めた。

 再び目を閉じようとすると、扉が叩かれる。

「誰か」

 おれは険しい声を出した。

「私です」

 馥だった。

 安堵しながら招き入れると、馥はすでに戦袍をつけていた。

「お休みでいらっしゃいましたか」

「いや」

「早く目が覚めましたので、周りの様子を見て来ようと思いました」

「では、おれも一緒に行こうか」

 馥の顔が、ぱっと明るくなった。

 それを見て、おれもほっとする。

「よろしいのですか」

「ああ」

 おれたちは一緒に馬で駆けた。

 幸い、孫権側の兵は見えない。

 城へ戻る途中、馥が言った。

「父上。何か良いことでもありましたか」

 どきりとした。答える声が上ずってしまう。

「ああ……。あった」

 馥が笑顔になる。

「よかったですね!」

 おれはまだどきどきしている。

 馥は目をうるませながら言った。

「父上は、今まで遠かった。でも今は、近くに感じます」

 馥は馬を寄せ、おれに抱きつく。

「お、おい」

「父上、大好きです」

 お互い戦袍なので、お互いの体のぬくもりがじかに伝わった。

 馥と、馥の妹の祥がまだ幼い頃、よくおれの布団に入り込んできた。

 ――ちちうえ、あったかい。

 急にそれを思い出して、おれは、馥を抱き返す。

 おれの馬が、ぶる、と鳴いた。



 顧がおれのもとを訪れた。

「先に許昌に帰ります」

「ずいぶんと急だな」

「丞相からお許しが出ました」

「何か新しい仕事でもあるのか」

「蘇が娼館を始めたんです。そこで働かせてもらうことにしました。用心棒みたいな務めですね。もちろん間者は続けますよ」

「それはおまえにとって良いことなのか」

「ええ。将軍のおかげと思っております」

「おれのおかげ?」

 顧はすっきりした顔で笑った。

「将軍のおかげでおれは、自分が男だってことを思い出せたんです。将軍の優しさ、忘れません」



「暁雲どの!」

 馥が明るい声で呼ぶと、暁雲が出てきた。

 兄上も一緒だ。

「馥!」

 馥と暁雲は手と手を握り合う。

「子孝のおじ上が、肉を焼いてくれました。一緒に食べよう、暁雲も呼んでこいと」

「えっ」

 暁雲が兄上を振り返る。

 兄上は微笑して、うなずいた。

 向き直った暁雲に馥が笑う。

「行きましょう!」

「……ああ!」

 馥と暁雲はつれだって駆けていった。

 兄上が笑顔のまま、おれの背中を優しく叩く。

 おれは、喜びと幸せを胸に感じながら、若い二人のあとを追った。



 我ら曹魏の男は、これからも戦い、生きてゆく。



 完



「我ら曹魏の男」主な参考資料

 陳寿 裴松之 注 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳「正史 三国志 」(ちくま学芸文庫)


 曹操 渡邉義浩 訳「魏武注孫子」(講談社学術文庫)


 渡邉義浩「十八史略で読む『三国志』」 (漢文ライブラリー)(朝倉書店)


 小川環樹 金田純一郎 訳「完訳 三国志」(ワイド版岩波文庫)


 羅貫中作 小川環樹/武部利男編訳「三国志」上中下(岩波少年文庫)


 荘奕傑 小林朋則 訳「古代中国の日常生活 24の仕事と生活でたどる1日」(原書房)


 柿沼陽平「古代中国の24時間―秦漢時代の衣食住から性愛まで」(中公新書)


 渡邉義浩 岩波ジュニアスタートブックス「三国志が好き!」(岩波書店)

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我ら曹魏の男~曹操と部下たちが語る赤壁の戦いまでの三国志 亜咲加奈 @zhulushu0318

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