第63話それぞれの赤壁……程昱と董昭
「おい、坊主ども!」
わしが大声で呼ばわると、丞相の身代わりと子廉のせがれが振り返った。
わしたちは駆けている。
ここは山の中だ。あたりは明るくなっている。
「気づいているか? 追っ手がいる」
「はい!」
二人とも良い返事だ。
「仲康! 何人だ」
「わしらと同じくらいかと」
つまり三十騎くらいか。
矢が飛んできた。
共に駆ける騎兵に刺さる。しかし甲の肩の部分にだ。血も出ていない。
わしは馬を止めた。
山道では騎馬で戦うのは難しい。じかに取っ組み合うことにする。
「よーし、戦うぞ! 追い払えばそれでいい!」
「はッ!」
さすが丞相のそば近くで戦う兵たちだ。すぐさま馬から下り、剣を抜く。
追っ手たちが姿を現した。やはり徒歩だ。仲康の見立て通り三十人はいる。
ところが身代わりの坊主も馬から下りた。そしてしゃがみこむ。
いつもならば「おまえは身代わりだろう? 勝手な真似をするな」と怒鳴りつけるところだ。しかしこの坊主は今、「丞相」の役を演じている。そこでわしは言った。
「丞相! お逃げください」
「先にゆけ」
言って坊主は腕を上から下へ振った。
追っ手がのけぞって倒れる。
「ぎ――丞相!」
子廉のせがれが叫ぶ。振り返り、坊主が答えた。
「先に逃げろ!」
坊主はまた、腕を上から下へ振り下ろした。
一人、また一人、追っ手が顔を押さえてうずくまる。
わしは坊主の手元を見た。
石だ。
こいつは石を投げていたのだ。
なんて坊主だ、李暁雲!
さて仲康はというと、飛びかかる追っ手をつかまえ、投げ飛ばす。足を引っかけ、襟をつかみ、地面に叩きつける。
「すごい剛力じゃないか」
仲康はわしに襲いかかる追っ手の襟首をむんずとつかみ足をかけて転ばせ、あっさりと言う。
「牛に比べれば軽い」
こいつは牛の尻尾をつかんで引きずって、黄巾賊の度肝を抜いたことがあったのだっけ。
もちろんわしも負けてはいない。追っ手の顔に一発、拳をぶち込んだ。もちろん倒したさ。
ところが背中に別の追っ手が回り込んだ。
まずい、と思ったその瞬間、回り込んだ追っ手が倒れた。倒れた背中を踏んづけられ、言葉にしがたい悲鳴を上げる。
踏んづけたのは、子廉のせがれだった。
「何をした」
わしが聞くと、子廉のせがれは真面目に答えた。
「許将軍の真似をして、こやつの足に私の足を引っかけました」
こいつもなかなかやるな、曹馥!
「よしっ、引き揚げだ!」
わしが大声で呼ばわると、わんぱく坊主どもは声を揃えて礼儀正しく返答した。
「はいッ」
さあ、南郡へ急ぐぞ!
と思ったら、また追っ手だ。
しかもそいつは、張飛じゃないか。騎兵も四十ほどつれている。
長坂坡であれだけ勢いよく「死ぬ覚悟で来い」などとまくしたてたのに、今はしゃべらない。
曹馥が馬上で腰をひねり、射った。
その矢は張飛の頬をかすめる。血がふわっと風に流れた。
張飛が真っ青になる。
それを見て曹馥がけたけたと笑い出した。
暁雲もつられて笑い出す。
なんてやつらだ。あの張飛を笑うとは。
日が高くなった。
今度は趙雲がやって来た。いい加減にしてくれ。
律儀にも曹馥が、丞相から頂戴したという倚天の剣で向かっていく。
趙雲と打ち合う。よく打ち負けないものだ。
暁雲が馬を止め、趙雲に馬首を向ける。そして袖の中から石を出して握り、肩を大きく振って趙雲に投げる。
その石は趙雲の眉間にぶち当たった。
趙雲が眉間を押さえる。相当痛いと思うぞ。
曹馥が戻ってきた。
なんて痛快なわんぱく坊主どもだ。
逃げているのに、わしは楽しくて仕方なかった。
夕暮れ。華容道という所に着いた。
わしらは眠らず休まず駆けどおしでふらふらだ。
そこへなんと現れたのは……元譲、間者の管・銭・江・石!
わしらが手を取り合って喜んだのは言うまでもない。
「今回の功労者は元譲、お主だな」
わしがほめると元譲は頬をぽっと染めた。
「ほめられると嬉しいものだなあ」
そこへ兵の叫び声がした。
「関羽」
ああ――なんてことだ。
たくさんの男がまとめてかかってもかなわない、わしよりも見事なひげの武将がそこにいる。しかも赤兎にまたがっている。
わしらはすでに魂を抜かれてしまった。
「おしまいだ」
兵の誰かが言った。
すると、暁雲が馬で進み出た。
「馬鹿ッ、行くな」
わしは暁雲の足をつかまえて怒鳴る。
「殺されるぞ!」
暁雲は落ち着き払っている。
「おれが行きます。あいつは丞相の首が欲しくて来ている」
「おまえ、生きて丞相にまみえるまでが務めなのだぞ」
暁雲は覚悟を決めた目でわしに告げた。
「皆を死なせては意味がありません」
そして関羽に向かってゆっくりと進む。
わしらは固唾を呑んで見守る。
二人は馬上で向かい合っていた。
何を話しているのかは、わしのいる所からはわからない。
曹馥が膝をついてひれ伏した。わしは驚いてただす。
「おい、曹馥、何をやっている」
「命乞いです」
「何だと?」
曹馥は顔を上げた。暁雲と同じ、強い目をしている。
「関羽に暁雲を見逃してもらうのです。今はそれしかありません」
すると仲康もひれ伏す。
「馥だけにやらせるわけにはいかない」
元譲も、管・銭・江・石、他の兵たちも、次々と地べたに膝をつき、手をついて、頭を下げる。
わしもひれ伏した。
まるで十年間が過ぎたように感じた。
暁雲の声でわしらは体を起こした。
「皆の者、出立だ!」
関羽は、いなくなっていた。
曹馥が暁雲に駆け寄る。暁雲が笑顔になる。
わしはすっかりこの坊主どもの虜になった。
さて、許昌では文若と公仁が留守番している。今頃どうしているかな。
拙者は公仁。姓名は董昭。皆様、覚えておられますかな?
洛陽から許昌へ都を移してはいかがかと曹公に提案したのが拙者だ。
曹公が赤壁にて船を焼いて引き揚げたという知らせを間者が持ち帰った。
文若どの、文和どのと一緒に聞き、間者をねぎらい、下がらせる。
「詳しくは丞相が戻られてから伺うとしよう」
文若どのが言って、天井を見上げた。
「丞相が江東へ向かわれてよりこのかた、盗っ人は増えるし、兵糧を多めに持っていったから食べ物の値は上がるし、あれほど軍艦を建造したものだから船大工への支払いでかつかつだし、一難去ってまた一難どころか二難三難四難だ」
「珍しいですな、文若どのが冗談を口になさるとは」
拙者がからかうと、文若どのはげんなりした顔で応じた。
「丞相から詳しく聞き取りをするのが怖い」
文若どのをそっとしておくという名目で拙者は離れた。文和どのがあとからついてくる。
「いかがいたしましたか」
「いやあ、おまえさん、なかなか肝が据わってると思ってね」
「拙者が? はて」
「さっきの話を聞いても、顔色ひとつ変えなかったじゃないか」
「兵糧だの、いくさ支度だのは、簡単に解決できるものですよ」
「ほう、どうやって? ぜひとも拝聴したいね」
「自分の領地から持ってくればよい。今は曹公が従えた土地からかき集めているから苦労しているのです」
文和どのが足を止める。
振り返って文和どのの表情を見定めると、薄い唇の端を上げて笑っている。
「じゃあ何かい。丞相にご自分の領地を持っていただこうというのかい」
「ええ」
「そんなこと言ったらあんた、あれになるしかないじゃないか」
「あれ?」
「あれはあれだよ。わかってるんだろ」
拙者も口角を引き上げて笑う。
「曹公に『公』におなりいただくのです」
文和どのが声をひそめる。
「文若どのはひっくり返ることだろうねえ」
「絶対反対しますよ。あの方はとにかく帝が大事ですからね。曹公が公にでもなれば、帝の位を奪うつもりかと考えるのは火を見るより明らかですよ」
「公の次は王だからねえ。王は帝と同じ車馬衣服を許される」
「しかし、曹公のまわりは敵だらけ。帝は中原の事情を知ろうともなさらない。各地の勢力はおのれが生き残ることだけしか考えない。曹公だけですよ、真面目に漢の官吏を務めておられるのは」
「きっと公になるのも嫌だとおっしゃるよ」
「公は帝のご一族だけではなく、功績のある臣下ものぼる地位です。江東攻略はできませんでしたが、西には馬超と韓遂がいる。また戦になりますよ。そして曹公はきっと手柄を立てる」
文和どのは指で盃の形を作り、酒を飲む真似をした。
「続きはうちで聞かせてくれないかい。うまい酒があるんだ。奉孝どのからのいただきものでね」
「奉孝どの。懐かしいなあ。ではさっそくお邪魔するといたしましょうか」
「公達どのも誘わないかい」
「いいですね」
拙者の提案で、曹公は建安十八年(213)、ついに魏公にのぼられる。
この時「曹魏」が産声を上げたのだ。
さあ、最後は子廉どのに語っていただこう。
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