第62話それぞれの赤壁……夏侯惇と曹洪
初めにまたおれ、夏侯惇が語る。
用意しておいた必要な物――つまり燃えやすい草、油、それらをおれたち側の水軍の船に積み込んである。
蔡瑁と黄蓋の軍艦が揃って燃えている。炎はまるで険しい山のようだ。
それを合図に、おれは兵に命じて一斉に停泊している船に火をつけさせた。
燃える。
川面に火が広がる。
夜空が明るくなる。
真っ黒い煙が空いっぱいに上がる。
蔡瑁も了解済みだ。
「退け!」
おれは叫び、兵たちを走らせた。
山に入る。今は夜だ。しかし敵が潜んでいるかもしれない。気を張る。
間者の管、銭、江、石たちも合流する。
おれたちより先には、暁雲や馥、程軍師、仲康が騎馬で進んでいる。
妙才と文則に頼んだことは、兵の引き揚げだ。
妙才には元気な兵たちを任せた。あいつ得意の早駆けで許昌に向かっている。
文則には怪我をしたり病気になった兵たちを任せた。蔡瑁の船にその兵たちを乗せて荊州へ向かっている。船は酔うから勘弁してくれと話していたのに、あえて乗ってくれた。
文遠、曼成、文謙は合肥へ向かった。
さて、孟徳や子廉、それに顧はどうなったかな。
次はおれ、曹洪が語る。
昼夜分かたず駆けた。
しかし、馬に負担をかけないように、できるだけ休んだ。
今、兄上は目を閉じて木の幹にもたれている。眠るようにおれが言った。
「子廉。おまえはほんとうに頼りになる」
そう言って兄上は眠った。
その一言で、おれの胸の内につくられた固まりが、ゆるやかにほどけていった。
「よく頑張ったな」
小さな声でおれは、兄上の馬と自分の馬をねぎらう。鼻筋を撫でてやる。
「あと少しだからな。あと少しで山を下りられる。楽になるぞ」
脚やひづめの様子を見てやっていると、顧がおれの隣に来た。
「おまえの馬も見てやる」
顧は驚いたように背筋を伸ばした。
顧が乗る馬も撫でてやり、よくやったな、えらいぞ、と話しかけてやる。
「馬、お好きなんですか」
遠慮がちに顧が尋ねた。
「ああ。好きだ」
「お優しいですよね、将軍は」
「初めて言われるな」
「いつも、そう感じていました」
うつむきながら顧は声を低くする。
顧の馬の脚に触れながらおれは聞く。
「おれがいつおまえに優しくした」
顧が怒り出す。
「言わせないでくださいよ。恥ずかしいな」
兄上が目覚めた。おれは言った。
「行こう」
「子廉。おまえ、寝ていないのじゃないか」
「おれのことは心配ない」
心配する兄上におれは笑顔で答える。
おれたちは再び駆けた。
山を下り、平地に出る。南郡の城は目の前だ。
顧が緊迫した声を出した。
「あそこに誰かいます」
月光の下、単騎、影が見える。
おれは馬首をその影に向けながら言った。
「顧。丞相と先に城に向かえ」
兄上が鋭くおれを呼ぶ。
「子廉。無理をするな。危険だ」
「行ってください」
おれは馬を歩ませた。
明るく冴えた冬の月光で、進むのはたやすい。
影と向かい合う。
それが誰なのか、すぐにわかった。
「……公明どの」
公明どのはおれをじっと見ている。
動かないその目におれは尋ねた。
「なぜ、ここへ来られたのです」
「物見の報告から今日当たり南郡に着くかと思いお待ちしておりました。本来なら任された城を留守にするなどあってはならぬことですが。物見を放ったのは何もあなたについて探りたかったからではありません。長江で何が起こるかで拙者も兵を出さねばならないからです」
「では、我々がどうなったかもご存じですか」
「ええ。聞いています。船を焼き、引き揚げた。あなたと騎兵、間者だけが先に山へ向かった。丞相たちはそのあと山へ向かった」
「今、樊城にはどなたがおられるのですか」
「息子に任せてあります。しかし息子もあなたのご子息と同じく初陣です。城を攻められれば対処しきれません。拙者はすぐに帰還します」
おれは下を向く。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
一緒に逃げてわかった。兄上はこれまで通りずっとおれを頼りにしてくれていたのに、おれが独り合点して兄上に背を向けただけなのだ。
動かない目のまま公明どのはおれに告げた。
「……戻ってくれたようですね」
出会った頃のおまえに戻ってくれ。公明どのはあの日、そう言って泣いた。
無言でおれたちは向かい合う。
月光も、弱い夜風も、乾いて冷たい。
公明どのは馬首を返し、おれに背を向け、駆け去った。
馬蹄が聞こえなくなった。
おれも南郡へ駆けた。
子孝兄が迎えてくれた。
体を洗い、おれは寝床に横たわった。
馥は、暁雲は、程軍師や仲康は、どうしているだろう。
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