本編
これからどうするべきかと言ったが、目的はすでに定まっている。
早く人間になりたい……ではなかった、戻りたいだ。
ただ、正直望み薄とは思っている。
ワクチンなんてものがあれば、今頃発生国の首脳は他国に向かってワクチン外交を展開したことだろう。そうならなかったのは突発的な事故だったからで、ワクチンを作る間もなかったはずだ。
一方で、仮にワクチンがあったとしよう。ここまでゾンビ化が進んだこの身体に効くのかどうかも怪しい。
皮膚の至る所が爛れて、大きな膿疱は内部からの圧力に耐えかねて、鯨の潮吹きのように膿を噴き出させている。
さらに身体の一部が腐り落ちたかと思えば、瞬く間に再生し、それがまた腐るという循環を繰り返す。
さて、この状態でワクチンが効いたとしたら、どうなるだろうか。おそらく想像を絶する痛みが襲ってきて、それだけでショック死するかもしれない。最後は人間として死にたいと願うのなら、それもまた一つの手だろうが。
ぞんびになって、悪くないと思ったのは痛みを感じないことだ。だからこそ、この腐りゆく身体にも耐えられるというわけである。
精神も鈍麻してきている。特に感情の働きが鈍い。ゾンビになってすぐはそれなりに驚きと衝撃を受けたものだが、今となっては平常心を保てている。あるいは感受性が失われてしまったのか。
人間だった頃の煩わしさが消えたと思えば、ゾンビも存外悪くないものだと言いたいところだが、実のところ、その考えの危うさに気づきにくくもなっていた。
危ういのはやはりこの身体のことだ。破壊と再生が異常なまでに早い。尋常ではない新陳代謝を支えるエネルギーはどこから得ているのかがわからない。ゾンビになってから、一度も栄養を摂取していないから、余計に謎が深まるばかりである。
なので、発祥地の葛西臨海公園まで来れば、何かわかると思い、そこで他のゾンビを子細に観察してみることにした。彼らは日がな一日、「あー」とも「うー」ともつかぬ呻き声を上げながら、ただあてもなく徘徊している。悩みや苦しみがなさそうで、中途半端にゾンビ化した身としては実に羨ましい限りだ。
それはさておき、彼らは彼らで特に摂食行動をしているようには見えない。たまに感染していない人間を見つけると、大勢で襲い掛かるが、食料として食い尽くされることはなく、「仲間」となったところで、彼らは攻撃の手を止めてしまう。
生物の本能は「産めよ殖やせよ」であり、その意味においてはゾンビもまた生物と言えるのかもしれない。もっとも、生殖によらずして、種を増やすのははたして生物のありようとして正しいのかどうかはわからないが。
さて、数日間観察を続けた結果、得られた成果は皆無だ。医学にも薬学にも精通していないのだから、当然の帰結だろう。単に時間を無駄にしただけだ。
このままではいけないと、希薄な危機感を覚えたので、何かしら行動を起こすことにした。
わからないのならば、誰かに聞くまでだ。そこで近くの商業施設の中にあるネカフェに向かった。
ついでに同じような境遇のゾンビがいたら連帯するのもいいだろう。状況を解決する方法がなくても、慰め合うことができる。まあ、ゾンビ同士が慰め合うという構図はシュールでグロテスクなものに違いなく、子供たちの情操教育に多大な影響を与えてしまうだろうが。
ネカフェもゾンビで溢れていたが、個室でパソコンを使っているゾンビはさすがにいなかった。なので、何をするわけでもなく、個室の壁に身体を打ち付ける苦行をしているゾンビを丁重に追い出し、自らこもることにした。
幸いなことに今は電気が通じている。ということは、送電されているということでもあり、なおかつ、発電もまだされているということだ。
インフラはまだ完全に死んではいない、すなわち、生き残った人間が今なお活動していることに他ならず、希望の火は完全に消えたわけではないようだ。
胸のつかえが多少取れたような気がしたところで、モニタへと向かい合う。この際、ネットの集合知に頼るほかない。
最初は意気揚々とネットの海を徘徊したが、次第に雲ゆくが怪しくなってきた。この状況下でSNSを更新するものはほとんどおらず、匿名掲示板もあらゆる板が過疎っている。それらに目を通すと、大抵が助けを請うものばかりで、有益な情報は皆無だった。
受け身のままではいつまで経っても状況は改善しないと覚ったので、こちらから情報を発信することにした。まず某SNSに新規アカウントを作った。今なおアカウントを作れることに感動したりしつつ、自分の状況を簡単に説明した。
すると、情報に飢えているのか、すかさず集まってきては、散々空気の読めない嘘つき呼ばわりされて、ちょっとした炎上騒ぎにまで発展してしまった。生前は碌にインプレッションも稼げなかったのに、ゾンビになったらプチ炎上するのは実に皮肉なことだ。
納得いかないが、注目されている今こそ行動を起こすべきだろう。幸いなことにモニタの上にカメラが設置してある。これを使って生配信ができないか、小一時間試行錯誤を繰り返した後、ついに動画配信者としてデビューするところまでこぎ着けた。
「ゾンビになったけど、何か質問ある?」
そんなタイトルでの配信から数十分は同時接続が〇人だったが、一人見始めると、ポツポツと二人三人と数が増え、最終的には千人近い人が見に来てくれた。同接千人というのはそこそこ名の売れた動画配信者だから出せる数字であり、何やら感慨深くもある。
その感動も視聴者の感想を見て、一気に萎えていく。コメントの大半が嫌悪を表す言葉に満ち、それ以外でも真偽を疑う声で溢れた。彼らの立場なら同じ言葉を吐いたであろうことは疑いないので、特に怒りを覚えるようなことでもない。
そういった雑音を無視して、有益な情報を探すとともに、同じような境遇のゾンビに呼び掛けた。
「もし、自分と同じように人間の記憶と意思を持ったままゾンビになった人がいたら、ここまで来てほしい」
近くの公園の住所を挙げてみたが、名乗り出るものはいなかった。理性を保ったゾンビのほうが特殊なのだから、やむを得まい。
代わりに有益、そう呼べるかどうかは疑問だが、情報がいくつか出てきた。
ウィルスを流出させた研究機関の関連製薬会社が日本に支社を出しており、晴海にあるというのだ。噂ではワクチンはすでに開発されていて、日本にも大量に持ち込まれたらしい。政府関係者は投与済みで、順次国民に配布していく予定であるとも。
引きこもっていたからこそゾンビ化を免れた連中がまるで目の前で見ているかのように語るのは笑止な限りだが、行く価値はある。と言うより、行く以外に選択肢がないわけだが。
配信を止め、一縷の望みをかけて、行動しようとしたその瞬間、不意に猛烈な眠気に襲われた。なんとか堪えようとするも、まるで全身麻酔を投薬されたかのように真っ逆さまに暗闇へと意識が落ち込んでしまった。
体感としては一瞬だった。再び目が覚めたとき、何故か身体の奥から異様な活力を覚えた。時計に目をやると、入店してから五時間ほど経っている。SNSと動画での発信に二時間程度の時間を使ったから、三時間ほど眠っていたことになる。
今まで睡眠や休息を必要とすることがなかったから、突然の意識喪失に、とうとう心までゾンビとなってしまうのかと戦慄したが、戻ってこられて心底安堵した。いや、この場合、ゾンビのまま戻ってきても状況は何一つ改善されていないのだから、むしろ不幸なことだったかもしれない。
幸運とはなにかと哲学的な命題に心をはせる一方で、身体に満ちる力に戸惑いを感じていた。人間だった頃よりも力溢れているような気もする。
だが、考えても答えの出ないことに拘泥するのは時間の無駄だ。今は行動に移すべきだろう。
そう思って立ち上がったとき、違和感に気づいた。どうにも周囲が静かだ。配信前まではゾンビ立ちが奏でる呻きの不協和音が店内に響いていたし、配信中にも視聴者から指摘されていた。
個室の外に出てみると、違和感の正体が判明する。ゾンビの惨殺死体が足の踏み場もないほどに折り重なっていたのだ。元々死体のような彼らは今度こそ物言わぬ屍と化してしまった。
死体の状況から察するに、どうやらすさまじい力で引き裂かれたようである。まあ、元々腐っている身体なのだから、ある程度の力があれば、引きちぎることはできそうだが。
ともあれ、人為的なものであるのは間違いない。襲撃者が近くにいるとみるべきだろう。急いでここから立ち去らねばならない。
慎重にネカフェから脱出した。襲撃者に出会わなかったのは拍子抜けだが、もうすでに現場から離れてしまったのかもしれない。そう思ったのだが、外はゾンビが相変わらず元気よく徘徊している。ゾンビを肉塊に変えてしまうほど強い感情を持つであろう襲撃者が何故外の生きる屍を襲わなかったのか。
理由はわからないし、思い当たらない。これも考えても仕方のないことだ。それよりも配信で指定した場所に急ぐのが先決だ。
時間を指定していなかったので、特に遅刻というわけでもないが、すでに集合場所の公園には配信を見たと思われるゾンビが五体ほど集合している。
彼らのうつろな目がどことなく自分の遅参を責めているような気がしたので、頭を下げて謝ったが、どうにも誠意が通じているようには見受けられない。
ゾンビにもはや性別や年齢は関係ないが、服装で生前の彼らがどんな生活をしていたのか、多少はうかがえる。共通点も接点も一つもなく、どうして自分たちのような変異体が生まれたのか、まったくわからずじまいだ。
今は疑問点は脇に置いておいて、製薬会社に向かうべきだろう。葛西から晴海まで結構ある。急がないと、いつまた意識を失うか、わかったものではない。今度こそ、戻れなくなる可能性もあるのだ。
しかし、集まった同志を引き連れて、いざ進もうとしたその瞬間、再び視界が暗転する。まさかこんな時にと思いながらも、抗することもできずに、意識は再び闇の中へと戻っていった。
そして、三度意識を取り戻したとき、そこでも惨状が広がっていた。数少ない仲間たちは粗めの挽肉となって、路上に散乱していた。おれは悲鳴を上げたが、声帯が潰れているので、口からは壊れた笛の音のような声だけが漏れるだけだった。
何のことはない。襲撃者は他ならぬ自分だったのだ。どうやら意識を失うと、他のゾンビを襲うようだ。なぜ、そんなことになるのか、見当がつかぬ事ばかりだが、一つわかることがある。
増えすぎた種はしばしば自滅への行動を取る。そのための装置が自分であるということだ。つまり選ばれたのだ。この世界を救う勇者として。
なんとも素晴らしい話だ。この世界からゾンビが一体残らず駆逐されても、自分は称賛されるどころか、最後の一人として処理されるだろう。
誰かに知ってもらいたかった。傍のビルの壁面に名前とこの先に起こるであろうことを、自身の血肉で記した。おそらくではあるが、確信がある。次は戻れない。そんな予感が確かにするのだ。
またしても、意識が混濁し始めた。ああ、これで終わりか。意識が奈落へと落ち込む瞬間、口汚く罵ってやった。どいつもこいつも滅びてしまえと。
――――――――――――
「被検体〇二四、順調に予定を消化しています」
「ああ、それは結構なことだ」
薄暗がりの中、モニタを眺める男の瞳はどことなく冷めている。
「きみの業績はちゃんと覚えているよ。表に出すことはできないがね」
(了)
腐り、爛れ、膿んで、堕ちる 秋嶋二六 @FURO26
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