第34話 エピローグ─続く未来へ─
期限までに数冊分の翻訳を終えて、待ち合わせ場所へ持っていくと、すでにリコは到着していた。
「お待たせしました」
「いいえ、自分も今来たところですから」
普段のスーツとは違い、今日のリコは銀座で歩く女性のようだ。
「こちら、お待たせしたものです。ご確認下さい」
リコは封筒の中を開けて、原稿を取り出した。
ひと通り目を通した後、
「確かにお預かりします。このたびはありがとうございました」
「こちらこそ。またよろしくお願いします」
深々とお辞儀をして席を立つと、リコに袖を引っ張られた。
「あの……もう少しだけ一緒に……」
「? 構いませんよ」
「良かった……」
紅茶は飲みきってしまったが、リコにもう少し付き合うことにした。
外は白銀の世界が広がっていた。色づいた秋を覆い隠していて、春がやってくる気配はまったくない。
「本田さんって、この近くにお住まいなのですか?」
「少し離れていますね。町からは歩いて行かないといけません」
「え」
「森の近くです。よく魚を釣りに川辺にも行くんですよ」
「森……すると、虫もたくさんいるんですよね……」
「冬はさすがに出ませんが。苦手ですか?」
「私、田舎で生活はしたことがなくて……。学生時代に外からトンボが飛んできて、発狂したのは覚えています。本田さんは東京のご出身で、湘南に別荘があるとお聞きしていましたので、てっきり都会の方なのだと思い込んでいました」
「都会出身であることは間違いないです。でも子供の頃から海や山へはよく行っていましたし、元々生き物は好きですよ。それと別荘は関東大震災で崩壊しています」
「まあ……そうだったんですか」
「湘南……懐かしいですね。しばらく行っていないので、またいつか旅行の計画を立てたいです」
良い想い出も複雑な出来事も含めて人生の岐路に立たされた場所でもあり、虎臣としては一人で行く勇気がなかった。
「本田さん、よろしければ仕事だけではなく、個人的な時間を過ごしたいと思っています」
「僕と友人になってもあまり楽しくはないと思いますよ」
先ほどまで降っていた雪は止み、太陽が顔を出している。
「そろそろ帰りませんか? また雪が降ってきたら、交通機関が止まるかもしれませんよ」
虎臣は伝票を持ち、立ち上がった。
リコは何も言わずに、後に続いた。
大豆ご飯に豆と魚の煮物、今朝の残りの大根のみそ汁が食卓に並んだ。今日は豆尽くしだ。
「それで、友達の誘いを断ったのか」
「僕と遊んでも仕方ないだろ」
「遊ぶ、ねえ…………」
煮物は味がしっかりと染み込んでいる。魚の身に箸を通すと、簡単に崩れた。
「一応、社長の娘さんなんだろ? 誤解ない程度に仲良くしておくくらいはいいんじゃないか」
「僕か他の女性と遊んでいるところが見たいのか?」
「無理」
幸一は即答えた。ならば言わなければいいのに、と言葉を呑み込む。
「立場上、扱いに困るのは理解できるよ。変に期待されても向こうが可哀想になる。俺たちのことは知らないんだろ?」
「知らないと思う。父さんも息子が同性愛者なんて、言うとは思えないし」
学生時代、幸一からなんとしても離そうとした秀道だ。虎臣は息子として世の中の常識から逸脱していることも判っているし、認めてほしくともそれは叶わぬ夢だとも理解している。妹と林田から応援してもらえていて充分だった。
「あくまで社長の娘が相手だという立場がいいのかもな。お前の言うとおりだよ、虎臣。これ以上は仲良くせず、仕事が終わったらすぐに家に帰ってきてくれ」
ところが、退勤して帰ろうとした矢先だった。
なぜか会社の前に葉純リコが居座っていて、雪の降る中、手を擦り合わせていた。
「葉純さん、どうしたんですか?」
「本田さんに会いたくて、待っていました」
悪気はない、と言わんばかりの微笑みに、虎臣は背中がぞっとするような感覚に襲われる。
「待っていたって……いつ会社から出てくるか判らないでしょう?」
「さっき受けつけの方に聞いて、もうすぐだと聞きました」
虎臣は頭を抱えた。待ち合わせをしていたわけではないが、女性が遅くまで待っていて、このまま帰すわけにはいかない。
「とりあえず、どこかお店へ入りましょう」
会社近くの喫茶店へ入るが、虎臣は早く帰りたい思いでいっぱいだった。
女性を蔑ろにするものじゃない、と父の教えは今や呪言だ。
困ったときの紅茶を頼み、まずは彼女の言葉を待つ。
リコは落ち着いていて、カップを両手で包んで手を温めている。
「次、いつ会えるか判らないじゃないですか」
「仕事でのやりとりはまだ続くので、近々会えたと思いますが」
「仕事以外での話です。父のためにも、やっぱり私は本田さんと友人関係、それ以上をお互いに考えていくべきだと思うのです。もちろん、私自身も本田さんを気になる殿方と思っております」
「…………父のため?」
おかしい、やっぱりおかしい。彼女の発言も流れもすべて。
「互いに結婚を視野に会ったわけですから、しっかりと話し合いをすべきかと」
かみ合わなかった話が一本に繋がり、幸一の様子がおかしかったのも納得がいった。
そもそも仕事の会食の場に娘を連れてくるのがおかしかったのだ。秘書として連れてきただけではなく、ご飯を食べてほしいなどという理由も違和感があった。完全に私情を挟んだ行為だ。
幸一が好きだと家族へ告げてから、虎臣はぽつぽつとしたやるせなさがずっと心の中でさまよっていた。それが今、煮え立ち溢れそうになっている。
大正から昭和へと移り変わり、日本のなにが変わったかといえば、漢字二文字のみだ。
「本田さん? 大丈夫ですか?」
「すみません、実はあまり体調がよろしくなくて、本日は帰らせて頂きます」
「まあ……それは失礼しました。家までお送り致します」
「女性に送ってもらうなど、男の恥です。送れずに申し訳ないですが、雪が降らないうちにお帰り下さい」
秀道からの最後ともいえる通告だ。このまま日の当たらない道を進むのか、それともまっとうな道へ振り返るのか。
答えは端から決まっている。
虎臣は秀道を呼び出し、久しぶりの親子二人での食事会を開いた。
ただならぬ雰囲気に秀道も息子の意図を察し、虎臣が話し始めるまで待った。
「僕の知らないところで、どこまで話が進んでいたんだ?」
「虎臣」
鍋をつついていた秀道は箸を置いて、座卓を挟んだ向こうにいる虎臣を見つめた。
「今の生活はどうだ?」
「充実しているよ。望んだ未来を手に入れて、仕事もある。毎日が幸せだ」
八つ当たりのように、虎臣はそう断言した。
「望んだ未来、か。気の迷いではないかと何度も聞いても、お前はそう言っていたな。世の中は繋ぐ未来を求め、国も子孫繁栄を望んでいる。お前たちの未来はどうだ?」
「父さんは国のために紅緒さんと結婚したの?」
質問に質問で返した。
「私の二回目の結婚は、昔で言う華族のお嬢さんをすすめられた。そういう時代だからだ。きっかけはどうであれ、私は紅緒を愛していた」
紅緒が死んだ原因は自分にある、と言ったらどう思うだろう。
虎臣は喉まで出かかったがこらえた。
「これが最後の好機だととらえていい。まっとうな道を行くかどうか、よく考えてくれ」
「父さんの気持ちはよく判った。父さんの言うまっとうの意味も。僕の人生はここ数日の話じゃない。十二歳からずっと続いているんだ」
「お前は、それでいいんだな」
「僕は絶対に後悔しない。それに僕も父さんがなんで紅緒さんと結婚したのか、一生理解することはないよ。あんな人、僕なら選ばないから。理解し難い恋愛はお互い様だ」
秀道は椅子にうなだれたまま、目を閉じた。
この先も受け入れてもらうことはないだろう。
痛みと悲しみはずっと心に留まったままだ。
この感情は幸福でうめられるものではない。
毎日幸せでも、はまる穴がそれぞれ違う。
「僕、父さんの子供で良かったよ」
秀道は目を開けた。
「ああ、私もお前が息子で良かった」
互いに受け入れられない恋愛でも、秀道は慈しむ目で息子を見つめた。
「おかえりー」
幸一は玄関まで出迎え、虎臣の肩に積もった雪を払った。
なんだか無性に甘えたくなり、虎臣は彼の背中に腕を回す。
「どうしたんだよ」
「だめか?」
「全然。大歓迎。珈琲入れるから中で話そう」
ちゃぶ台には飲みかけのカップが置いてある。
幸一は湯を沸かし、自分の分も入れ直した。
火鉢の炭がぱちっと弾け、空気が揺らいだ。
幸一はひと口、ふた口と喉を潤しながら、秀道と食事会の内容を話した。
「結局、回りが納得できる恋愛をしていないのは僕も父さんも同じなんだ。それなら、国や家族のためにする恋愛じゃなく、僕は僕のために生きると話した。父さんは僕が紅緒さんに強く当たられていることを知っていた。僕は長男だから、強くあってほしいと願うだけだった。彼女を愛していただろうし、前に出られなかったのかもしれない。華族のお嬢様だしね。負い目もあるからか、僕は僕の道を行くことを納得してくれた……と思う」
「なんだ、自信がないのか。俺はお前を幸せにする自信があるぞ。この先もずっと」
「これ以上幸せになるのか? なんだか怖いな」
幸一の腕が伸びてくる。頭、肩、背中に触れる手は、赤子に触れるかのようにひどく優しい。
「お前と生きた証を日記に残そうと思っているんだけど、どう思う?」
「俺も前に思ったが、止めておいたよ」
「どうして?」
「誰と恋愛をしてもいい世界になれと願うが、そうならないかもしれない。それに、他人に邪魔をされたくない気持ちもある。俺は嫉妬深いから」
「嫉妬か」
「そう、ただの嫉妬。一部の家族が知っていてくれたらいい」
「八重澤先生の絵が何百年後も残り続けたとき、本人は謎のままになるのか?」
「謎があった方が神秘的で素晴らしいだろう? 価値も上がるかもしれない」
「自分で言うのか、それ」
おかしくて大声で笑ってしまった。
「判ったよ。日記は止める。その分、幸一と毎日が尊いものになるように努力するよ」
「いつもの虎臣がいいんだ。お前が無理するのも求めていない」
虎臣は幸一と話し合い、日記という生きた証を残さないと決めた。けれどふたりの想い出にと、写真一枚くらいは残していいのかしれない。
何かの記念でも、何気ない日常でも──。
あの夏をもう一度─大正時代の想ひ出と恋文─ 不来方しい @kozukatashii
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