第33話 エピローグ─日常と不穏の狭間で─
土産のにしんの寿司を幸一に渡すと、彼はさっそう食べようと台所へ入っていった。
「熊肉? 会食でも食べたのか?」
「そうなんだ。ちょっと固かったけど、醤油出汁で食べる鍋だった。僕は断然、味噌で煮た方が好みだね」
幸一は麦酒とグラスを二つ持って囲炉裏の間へ来た。
「付き合わないか?」
「少しなら」
酒は強いわけではない。家で飲むのは構わないが、なるべく外では飲まないようにしている。
「会食はうまくいったのか?」
「いったと思う。最初は簡単な本から翻訳することになったよ。独語は初めてだから、いきなり難しい本だと自信がないことも正直に話した。そうそう、なぜか社長の娘さんも一緒でさ、四人での会食になったんだ」
「娘さん?」
「社長の娘だよ。食が細い方で、雰囲気に呑まれて食べてほしいと言っていた。それで連れてきたんだと思う」
「…………そうか」
熊鍋でお腹がいっぱいだったが、にしんがどうしても食べたくて寿司を一つもらった。
「春先になると油が乗ってもっと美味しくなるだろうな」
「にしんって海の魚だっけ?」
「そうだね。来年の春に出回ってきたら、買ってみようか」
寿司を平らげて、残った麦酒も飲み干した。
苦みが広がっていた口内も、慣れてくると麦の美味さが感じられるようになる。
幸一は顔色を変えずに少しずつ飲んでいた。
「来週の土曜日も帰りが遅くなる。悪いけど、先に寝ていてくれ」
「そうさせてもらうよ。また娘さんと会うのか?」
「彼女を通して仕事の話をすることになっているんだ」
「そうか」
飲み終わったグラスや皿をお盆に乗せると、一人でさっさと台所へ行ってしまった。
不機嫌とまではいかなくても、様子がおかしいのは感じていた。
台所へ行くと、洗い物が綺麗に片づけられている。
入れ違いに囲炉裏の間へ戻ると、幸一はすでに布団へ入っていた。
布団と布団の距離がいつもより遠い。寂しいが、埋めたところで心の距離が近くなるわけではないし、何も満たされはしない。
布団に潜り、幸一に背を向けながら目を閉じた。
一週間後の土曜日、再びリコと会った。
最初に会ったとき、リコに対する感情は無だった。社長の娘がいるとも知らず、いきなりの顔合わせとなったのだからさして興味はないのも当然だ。
今回は二度目だが、心に灰色のもやがかかっていて、罪悪感で後ろから刺されている状態だった。
目の前にリコがいても、頭に浮かぶのは幸一の姿だ。
今日は玄関まで見送りをしてくれたが、一度も目が合わなかった。
「先週はありがとうございました。にしんの煮物もとても美味しくて、あのあと自分でも作ってみたんです」
「美味しくできましたか?」
「父と母には好評でした。私も食べましたが、お店のようにはなかなかできないものですね」
「料理人と家庭では、かけられる時間も違います。ご両親がお喜びになられたのであれば、大成功ですね」
リコは目が潤み、俯いてしまった。
店内で店員がこちらをちらちら見ていた。喫茶店へ入ったものの、まだ何も注文していない。
早くしなければと、虎臣は紅茶、リコは珈琲を注文した。
「こちらが父から預かったものです」
分厚い封筒には、数冊の本が入っていた。絵本だった。暖かみのある絵が表紙で、中身をめくると文字よりも絵が多い。
「これなら僕でも大丈夫そうです。子供用ですから判りやすく楽しめる言葉遊びを考えないといけませんね」
「手に取るだろう読者だけではなく、私も楽しみにしています」
テーブルに置かれた紅茶をすする。苦みが口に広がり、香りがあまりしなかった。保存状態が悪いか、輸入品があまり良くないものだった可能性がある。
「紅茶がお好きなのですか?」
「紅茶も珈琲も好きですよ。ただ珈琲は特別でして、想い出深いものなんです。幼い頃に好きな人と一緒に飲んだ大切な飲み物です」
「本田さんがお好きになる方ですから、可憐な方だったのでしょうね」
「どうでしょう。どちらかというと飄々としているタイプですが」
時計を見ると、もう一時間も過ぎていた。夕食の時間が迫っている。
「すみませんが、ここら辺で失礼致します」
「こちらこそ長々とありがとうございました。あの……また……こうして……」
「そうですね。仕事が終わり次第、すぐに連絡をさせて頂きますので」
夕食は誰が作るかとは決まっていないが、今日はずっと幸一の顔が頭から離れず、虎臣自身が作りたい気分だった。
玄関を開けると、良い米の甘い香りが漂ってくる。
台所には幸一が立っていて、鍋をかき混ぜていた。
「おかえり。なんだ、早かったんだな」
「ただいま。夕食ありがとう」
「そんな大したものじゃないさ。ご飯と汁物しか作っていない」
「なら、おかずは僕が作るよ」
幸一と久しぶりに目が合った気がした。
幸一は虎臣の頭の雪を払い、おかしそうに肩を揺らす。
「息切れしている。走ってきたのか?」
「お前に、早く会いたくて」
「俺もだ」
自然と唇が重なった。角度を変え、互いの頭を抱き寄せる。
舌を絡ませるが、米が煮立つ音にかき消された。
たった一日啄まないだけで、満たされない気持ちが涙に変わる。
「泣くほど腹が減っていたのか?」
「いろいろ欲求不満だ」
「珍しいな。お前がそんなことを言うなんて。よし、口でしてやろう」
幸一が意気揚々と虎臣のズボンに手をかけたとき、米が早く食べてと声を上げた。
「温かいうちに食べたいんだけど」
「……仕方ない。こっちは諦めるか」
「夜なら……まあ」
触れる手に熱がこもり、伝えたくて幸一の背中に腕を回した。
一番安心でき、誰よりも愛しい人。
それを確かめたくて、いつもよりも強く抱きしめた。
「やっぱりおかずは昨日の残りだけじゃだめ?」
「俺も作るのが億劫だし、そうしよう。早く食べようか」
早く、に気持ちがこもっている気がしたが、虎臣は気づかないふりをした。
──夜はまだ長い。
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