17
「やっぱり竜族保護活動家にでもなったのかい?」
そう言ったのはカランコエの前に立つ、真っ黒な外見の女性だった。
レーグルスと慶獅戦の稽古に励むようになって二節がたった。輝かしい日差しと体の火照るような暑さは徐々に抜けて行き、涼しい空気がまた戻ってきた頃。
稽古の合間、五日間のうち一度訪れる休みを迎えたカランコエがクロガネに呼びだされたのは客間だった。
今この場にいるのは、カランコエとクロガネ・アイオライト、それからカランコエにとって初対面の女性一人である。
透き通るような白色の肌とは対極の光を通さない黒色の切り揃えられた髪。マットな黒の服。
丸い耳の形も、宝石がついていない素肌もどこをどう見ても一般的な人間の姿。
ただ、その目の前の人物からは竜族特有の魔力の香りが惜しみなく漂っていた。
「お前…」
呆れた様子でボヤいたのはこの国の王、クロガネ・アイオライトだった。
「おいおい、そんな目で見ないでくれよ。冗談だって」
ぱたぱたとコメディに両手を横に振った女性は、訝しげに自身を見つめる視線に漸く興味を示したようでカランコエの方へと向き直る。
「さあさ、君は我が国の皇太子殿下さまさまだったね?」
ズズイと顔を寄せた彼女にカランコエが返答に澱めば、そのさまを見た女性は可笑しなものを見た後のように笑った。
「そう怖がってくれるな。取って食うような真似はしないさ」
女性は眉を下げて言う。
「……アングスフォリア帝国の方、なんですよね?」
竜族の気配と彼女の発する言葉の節々から簡単に推察立つことを問えば、女性は躊躇いなく「そうだよ」と頷いた。
「だが、そう構えないでくれ。今日は我が国の皇帝陛下の命でここに来たわけじゃないんだ」
女性は人差し指を立てて舌を鳴らしながら態とらしく左右に揺らす。
「そうだ。前に言っただろう。慶獅戦ではお前に変装をしてもらう必要があるってな」
クロガネが割って入り、その言葉にカランコエは記憶を掻き混ぜる。
慶獅戦ではカランコエは竜族であることを隠す必要がある。その為の変装。
「…もしかして」
目の前の女性を見る。上から下までどう見ても人間の姿をしている彼女は同族が魔力で判断する以外、正体を見破る方法がないだろう。
彼女はカランコエの視線を浴びれば胸元に5本の指先を添えて胸を張った。
「ご想像の通り。私が君を変えてあげようって話だ」
カランコエは唖然とする。
成程、人間に化ける能力だろうか。それも、他人をも人間の形へと変化させられる。人間とも、竜族とも取れないどっちつかずの己の体を撫ぜた。
「安心してくれたまえよ。能力の上書きは二回。試しに今日と、それから慶獅戦本番が行われる当日の一日だけだ。」
女性はカランコエの顔色を見てか二本指を立て、母国を空けるのも難しいしね、と肩を竦めながら苦笑いを浮かべる。
「能力の解除は私が決めた上書き時間を過ぎれば勝手に行われるし、ちゃちゃっと掛けちゃえばおしまいさ」
語る女性の右手がそのままカランコエの元へと伸ばされる。向けられた人差し指が額に触れ、そっと、固い爪が当たる感覚がした。
「あ、ま、待ってください!」
咄嗟に数歩後退り、触れていた指先の熱から逃げて声を出す。
慌てた様子のカランコエを見る、きょとんとした顔立ちの女性と口角を下げて物静かに事態を見守るクロガネがいた。
「…その、その能力による魔力の干渉は…如何程なんでしょうか」
今回の変化の使用にカランコエ自身の感情や経験の邪魔はない。カランコエは所謂まともな竜族の形として生まれなかったことには負い目を感じたが、別に、ならば人間であればなどと思ったことはないのだ。
兎も角、魔力の干渉でレーグルスへ迷惑をかけるのは避けたかった。今回の慶獅戦の主役はカランコエではなくレーグルスだし、何より支えるためにある立場の自分が足を引っ張るなど以ての外。
過去、少女オリヴルに魔力の活性化を頼んでいた時期を思い出す。慶獅戦に向けて稽古を繰り返す今、あの頃のように避けられては困るし、何よりあの時から学ばずにレーグルスにとって嫌なことを繰り返す奴だと思われたくはない。
「魔力の干渉…?うーん、気にしたことないからわからないな。少なくとも表面的に私の魔力を纏うことにはなるだろうな」
彼女は口元を尖らせるような形で下唇に人差し指を置いて言う。
「慶獅戦では能力は使えないんだろう?気にすることでもないと思うけれども」
寧ろ丁度良いんじゃないか、と女性が言う。あっけらかんとしたその態度にレーグルスに対する懸念点は見当たらない。
他国の第一王子のことと言えばそうだ。クロガネが彼女に何も伝えてないのは理解ができる。そもそも王太子の情報は慎重に取り扱うものだし、何よりレーグルスの竜族に対する事情は多くの人に説明できるものでもない。何より相手が現在も某国に住まう竜族ともなれば尚更だ。
しかし、クロガネが彼女を選抜した理由は何だろう。カランコエが人間の姿にならなければいけないことは理解できる。変装するよりも、竜族の能力に頼った方が早いしバレづらいことも想像に容易い。とは言え、レーグルスの事情は親族である彼が一番よくわかっているはずだ。クロガネがレーグルスの専属執事として自身を選んだことからそうだが、彼の真意がいまいち掴めない。
カランコエがチラリとクロガネを見遣ると、彼は顔色ひとつ変えずに此方を見つめていた。まるでカランコエの選択を品定めするかのような目つきが全身を舐って居た堪れない気持ちになる。
「…対策できないことはしない」
思わず目を逸らしたカランコエに降り注いだのは、呟くような一言。顔を上げて、声のした方を見れば腕を組んだクロガネが居る。男は視線がかち合ったのに気がつけば、ため息をついた。
まごうことなく、悩むカランコエへの言葉。
「お前の知識の中から捻り出せ。主人のために考えて動く従者ならば重宝される」
「…それは」
まるで、レーグルスがカランコエのことを見直す機会を与えているかのような言葉遣いだ。クロガネのことなのだから、そこまで考えてこの状況を作ったのかもしれない。
カランコエは続けようとした言葉を飲み込んで、グッと強く拳を握って頷いた。ならば、そのお膳立てを蔑ろにするようなことがあってはならない。カランコエが表情を整えて女性へと向き直すと
「覚悟決まった?」
興味なさそうに二人の姿を眺めていた女性が、後手に組んでいた手を解いて前のめりに問う。
「はい」
対策のしようがある。その事実だけで勇気が湧いた。
「いいね。じゃあやっちゃうよ〜?」
女性は、したり顔で手を伸ばした。カランコエの額にトンと力強く人差し指の腹が触れる。
瞬時、どぷんと水の中に放り込まれたような、身体の周りに水の膜が張られたような不可思議な感覚がした。水中にいるかのように、音がくぐもって聞こえる。焦点が定まらず、視界が揺らいでいる。全てがぼやけていて捉えづらい。
それから、胸の痛みだ。何かが内側から飛び出してきているような、皮膚を貫かんとしているような避けそうな痛みがあった。
呼吸が難しい。
膨大な魔力の干渉。自分の魔力そのものが全て塗り替えられていくような感覚。身体の熱が奪われていくような、そんな心地に囚われた途端。
パツンと耳元で水が割れるような音がした。瞬時、耳に飛び込む音。先程まで気が狂うような静寂の中にあったのだと気がつく。風の音が鼓膜を撫でた。微かにカーテンが揺れる音がした。古びた窓が軋む音も。
「…は」
呼吸ができる。冷えた空気が舌を撫でた。
自身の手を見る。確かに肌の輪郭が見えた。自身と、世界の境界がはっきりと窺える。
「感覚が戻ってきたかい?」
「は、い…」
手を開いたり閉じたりと繰り返す中、先程までの感覚とのズレに生じる違和感から生返事になりながら顔を上げれば、目の前に女性の姿があった。真っ黒な虹彩が、すぐ目の前に迫っている。
「っ、うわ!」
驚いて飛び退けば、女性は一度ぷぷと堪えるように笑ったのち、耐えきれずに吹き出した。
「あっははは!そんなに驚かなくてもいいじゃないか!ああ、いや。そうやって身軽に動けるんだったら大丈夫そうかな?」
女性は叩いていた手を止めて、呼吸を整えるように大袈裟に息を吐く。そうして、クロガネの方へと身体ごと向いた。
「どうだい?これで満足かな?」
「…ああ、十分だろう」
問いかけに対してクロガネが頷くと、彼女はパッと笑顔を咲かせて、してやったと指を鳴らす。
「少しは君のお役に立てたようで何よりだ」
その間も自身の体をマジマジと眺めていたカランコエに気がついた女性は今度はクロガネに目配せをした。
「…。呼び出した理由は以上だ。今日はそのまま過ごして良い」
「このまま…ですか?」
きょとりとするカランコエにクロガネは頷いた。
「経過観察とでも言おうか。その能力の影響を丸一日受けていて問題ないか確認のためにな」
そう伝えられて納得する。レーグルスのことばかり危惧していたが、言われてみると能力をかけられ魔力の干渉を受けているのはカラコンエ自身なのだ。特に、身体に膜を張るような感覚は暫く忘れられないだろう。呼吸すらままならなくなるほど高濃度の魔力が全身を覆っていたのだ。
「なるほど、わかりました。…それで、今日はもうこれで…?」
用事が済んだのであれば引くのが流れだろうか。カランコエはおずおずと確認すれば、クロガネは頷いた。
「…いや」
が、一歩引いたカランコエを前に彼は顎に手を当てる仕草をしながら制止した。
「一つ確認したいことがあったんだ」
「確認ですか?」
なんでしょうとカランコエは首を傾げる。
「時に、お前は好みの色はあるか」
質問の意図が掴めずに首を傾げたまま固まった。
理由を問おうとしたところで、質問に答えを返さないのも無礼だろうと言葉を飲み込んで思案する。
すぐに思いつくのは両親の持つ輝かしい宝石だった。
父の眩しいほど青く輝く宝石はカランコエも一欠片を貰っていたものだ。今でこそ手元に残っていないが、それこそ、お守りのように大事にしていた。
母の、血のように赤く不気味なほどの美しさを持つ宝石。帝国中の誰しもの目を引いたものだった。それはカランコエも例外ではない。
しかし、
「…水色」
言葉がするりと口元から溢れる。それは二人を飾っていた色ではない。
二人を象徴するそれらを思い浮かべて、懐かしむと同時に、上書きするようにポツリとシャボン玉のように浮かんだ色があったのだ。
「白と青のちょうど中間のようで、少し暗い…」
レーグルスの、目の色。
彼はよくカランコエと目を合わせようとする。特に、大事な話をするときはしっかりと視線を合わせて話をしてくれた。
初めて出会った日、あの廊下でも燻んだ水色の瞳に囚われたのだ。
「…そうか」
クロガネは気づいているのかいないのか深くは問わず、ただ理解したように頷いた。
そのままカランコエは部屋を出て移動していた。
二人が何やらまだ話があるようだったのもあり、そそくさと退散したのだ。
「…まあ」
積もる話もあるだろうと思った。二人の関係は想像もつかないが、軋轢のある国に住まう異種族同士。況してや一方は国を背負っている。
カランコエとレーグルスの関係はカランコエが新竜帝国に帰る場所がないからこそ成立するものだ。
少しの間しか話していないカランコエには女性の素性や立場はわからないしどれだけ考えても憶測に過ぎないが。
兎も角、とカランコエは目的の部屋の前で足を止めた。
真っ直ぐに足を運んだのは自室。扉を開けて中に入る。日差しが流れ込む室内は灯りをつけずとも十分な明るさで満ちていた。
自室の扉を閉めて、備え付けのクローゼットの横に置かれた全身鏡の前に立つ。
つい先日、執事長から伝えられてカランコエの部屋に運び込まれたものだった。元々はクローゼットに取り付けられた小さな鏡を使って朝の身支度をしていたこともあり、大きなものを贈られた時は大層喜んだものだ。今となっては、この時に確認するために送られてきたのだろうと推察立つが。
兎も角、とカランコエは胸元をひとなでして瞼を開ける。
「…」
ゆっくりと、鏡に映る少年を見た。
鏡の中には少し癖の残る跳ねた黒髪を一つに束ねた青年がいた。カランコエよりも少し骨ばった身体。凛々しく整った眉。
真っ赤な瞳が此方を見ている。
丸い形の耳も、宝石の覗かない滑らかな肌も、黒一色の髪も目の前に写る全てが、彼が人間であることを示している。
息を呑む。
その人間と良く似た者を知っている。カランコエが人間に変化させられて似るのも当然だろう。
「…お父さん」
ぽつりと、一人しかいない部屋で呼びかけた。
明日から家族、時々その他。 溟 @mayk42
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