春ときみ。ぼくの時間。

神崎郁

春ときみ。

 桜の雨の中にぼくらはいる。


 きみは、はなさないで、とぼくに言った。


 ぼくらは想い出の公園で生暖かい春風を浴びている。


 ただ、はなさないことだけは忘れない。


 ぼくは何も言えない。世界にはただきみだけがいて、それがきっとぼくの心だった。


 救いだとか、変えてくれたとかの次元ではなくて、ほんとうにそうなのだ。


「私ね、勘違いしてた」


 きみの声はやっぱり心地いいな。


 暖かな日差しに満開の桜が照らされるこの美しい桃色の世界にはきみの、ころころと転がるみたいに可愛らしくて、なのに凛とした声が映える。


「一人でいいんだって、大丈夫なんだって思ってた」


 きみは寂しげな顔をして頭上で桃色に爛々と燃える桜に目を遣る。


 地面に咲く花、新しい季節の訪れを告げる鳥の鳴き声。春の息遣いは冬よりもずっと軽やかで、なのにきみは悲しそう。


「でも、ほんとに皆いなくなっちゃたらどうしたらいいか分からないんだ。自分で思ってたより私は弱かったや。今になってようやくわかった」


 ぼくに返す言葉はない、出てこない。君を慰めるような言葉も、君を笑顔にする言葉も、ぼくには過ぎたものなのだ。


「当たり前は当たり前じゃなくて、いつ誰が居なくなるかなんて分からない。分かってたことなのにね」


「でも、分かりたく、ないな」


 きみはひどく辛そうにそう言う。


 そんな顔をしないで欲しい。


 ぼくはきみがくれた温もりを今でも憶えているんだ。ぼくの命は、全部全部それなんだ。


 ふと、さっきより気持ちのいい春風が、きみの長い髪を柔らかに撫でる。


「でも、今は君が隣に居てくれる」


 その言葉が、ぼくのことをきみが見てくれていることが、たまらなく嬉しい。


 悲しいのはきみのはずなのに。一番最低なのは、きっとぼくだ。


 ぼくに笑いかけるきみは、桜よりもずっと綺麗で、何度でも心を奪われてしまう。


「それだけで空っぽが埋まる心地がするんだ。単純だよね。君とここで会えてよかった」


 そうだ、寒空に震えていたあの日、きみはぼくに手を差し伸べてくれた。


 あの日からぼくは……


「ねえ、君はこれからもずっと、私を離さないでいてくれる?」


 言葉は返せない。ぼくには言葉なんて使えないから。


 きみとぼくは違う。きみが大人になる頃には、多分ぼくはもう居ない。


 

 ああ、ぼくもきみと同じにんげんなら、きみと同じように歩けたなら、きみをはなさないで居られただろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春ときみ。ぼくの時間。 神崎郁 @ikuikuxy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ