終編 - 七海舞と、皆既月食。
軽い挨拶は返せたけれど、続く言葉は胸につかえて出てこなかった。代わりに涙が溢れてきた。声は必死に殺したけれど、嗚咽となって漏れ出るのまでは抑えられなかった。こっちから電話をかけたくせに、死んでしまった貝のように、口を開けなくなっている私を、ずっと待ってくれている冴は、やっぱりとても優しい人だと思えた――
私は泣いた。ひたすら泣いた。スマートフォンを持ったまま。冴に話す余裕なんて、見出せないまま。とても、長い時間だったと思う。それでも冴は、ひたすら私を待ってくれていた。
私は口を必死に動かす。頭に言葉を紡ぎ出す。けれど声は口をついて出てきてはくれず、喉は涙に震える変な音を発しているだけだ。内心焦りながら言葉を出そうとするけれど、とめどなく溢れ出す感情が発声を鈍らせる。結局冴に何も伝えられないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
結局私は、あのさ、から話を進めることはできなかった。話そうとするたびに、胸の奥がぎゅうと掴まれて、喉元に届く前には搾りかすみたいなものになっていて、その喉すらも嗚咽と涙に震えているのだから、口がぱくぱくと動いても、言葉になって出てこない。私は言葉を紡ぎ出せないのに苛立って、むしゃくしゃして、投げ出してしまった。私がなにごとも喋ろうとしなくなってしばらく経つと、冴が口を開いた。
「ね。今日のお月様、見た?」
冴は頭は良いし、背は高いし、大人っぽさもあるのに、喋ってみると鈴を転がしたような可愛らしい声で、月のことをお月様と言ってみせたりと、その語彙の選び方といい、声色といい、その大人っぽい容姿と裏腹になんだか幼っぽくて、可愛らしい。
そんな冴の一言で、私は、鼻を啜り上げながらまた夜空を見上げた。赤褐色だった月はすでに月白の輝きを半分ほど取り戻していて、もう半分あるはずの赤褐色の月は、深夜色の背景に溶けてしまってもう見えない。
「うん、見た」
「どうだった?数年に一度の天体ショーは」
「…別に。ただの赤黒い月だったよ」
私は咄嗟に嘘をついた。赤黒く染まった満月を見て、ああ、私の心もあんな風な、清いとは言えない満たされ方をしていたんだなと思ったことなんて、冴に言えるはずもなかった。
「そだね」
短く言った冴の声は、ちょっぴり寂しそうだった。他の感想を探して、冴に返す暇もないまま、冴は話を続けた。
「私はね、思ったより見えないものなんだなぁって思ったよ。だってさ、教科書とかで見る皆既月食って結構明るいじゃん。だからさ、私の目にも、あんな明るさで見えるのかなぁって思ってたの。でもさ、実際見てみるとさ、確かに赤黒い月だってことは分かるんだけど、写真で見るよりうんと小さいし、薄くて暗くて、見えるのもギリギリって感じだった。あんなにテレビでも持ち上げられて、期待してたのにね。こんなもんか、なんて思っちゃった」
冴は飾り気なく、そう言ってのけた。社交界の輪の中で話している時には、多分こうは言わないのだろう。きっと次の日の教室は皆既月食すごかったね、なんて話題で溢れかえって、冴も同調してすごかったねなんて返すのだろう。現実には、その輪の中に、冴も私も、きっと入れないけれど。
飾り気なく、本当の感想を話してくれた冴に対して、私は後ろめたさを感じた。私は咄嗟に嘘をついたというのに、社交界では不自由なく方便を使いこなす冴は本当の事を話した。なら私も、本当に思った事を話した方がいいのだろう。けれど、もし話してしまったらば、全部話さなきゃいけない。あの赤黒い月と重ね合わせた私の感情、そしてあの炎と、熱に、感じた昂り。全部話さなきゃいけない。それで良いの?この赤黒い、穢らわしい感情に、大切な友達を巻き込んで良いの?急速に遠のいていく世界に置いてけぼりをくらいながら、私は呆然と立ち尽くすより他はなかった。
「舞、大丈夫?聞こえてる?舞?」
あまりに黙りこくる私を心配したのか、冴が不安そうに聞いてくる。私はまた堰を切って溢れてきた涙を拭いながら、「ううん、大丈夫。考え事してたら、ぼうっとしちゃって」とまた嘘を重ねた。そうしたら冴が、
「そっか。舞も疲れてたんだね。じゃあ今日はさ、早めに休んじゃお。そして明日、またいっぱいお喋りしようよ」
なんて言うので、今日の通話はそこで切り上げる事にした。冴は切る直前に「なんでも話して。私、待ってるから」と言ってくれたけど、夜が更けて、夜が明けて、学校で冴と話しても、話すべきかどうかの、答えは出せないままだった。
今日もまた冴に通話をかける。窓際に立って、空を見上げる。十六夜の月が、深夜色に染まった空に浮かぶ。十六夜の月は一片の欠けもない望月と違って、少し躊躇いながら翳り出しているのだとどこかで聞いた事がある。今日の私も、あの十六夜の月のように、冴に話すのを躊躇うのか。いくら考えても答えは出ないまま、コール音が切れた。
「やっほ、元気?」
「やっほ。元気だよ…って、学校で会ったばっかじゃん」
「ふふっ、そだね」
鈴を転がすような声が響く。鈴が耳の中をころころ転がって、私の中に侵入してくる。やがて棘も角もないはずの鈴は、私の胸の中にまで至って、心の奥をちくりと刺した。
夜はまだ続く。心の痛みは広がり続ける。楽しいから話していたい、けど後ろめたさに逃げ出したい。話さなきゃ。けど話したくない。背反する二人の私を片付けられないまま、私は――。
終
月の姿見 げっと @GETTOLE
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