中編 - 七海舞は、そして知る。

 コール音が止む。やっほという、冴の軽い声が聞こえる。いつもどおりの、鈴を転がしたような可愛らしい声だ。深夜色に染まった空に浮かぶ赤褐色の月は、端のほうから少しずつ、十六夜の形をなぞるようにその領域を狭めている。月白の明るさを、取り戻しつつある。私は不意に、このどす黒い感情に、冴を巻き込むことを後ろめたく感じた。このまま話すのをやめてしまおうか?けれど、こんな話、出来るとしたら冴しかいない。私は迷いながら、やっほと軽い挨拶を返した――


 冴の謹慎が解けて、彼女が学校にやってこれたのは、あれから二週間ほど経ってからだった。


 教室には万引きを働いた元優等生が帰って来ることを気に留めている者なんてただの一人もおらず、ただ今夜見られるらしい、皆既月食の話題でもちきりだった。数年に一度起こるらしいそれは、太陽が完全に月に隠されて、周りにあるコロナがはっきりと映る皆既日食とは違い、どうやら赤褐色の満月が見られるのだそう。今朝方ニュースで初めて聞いたことだし、興味も持ったことないし。何より見たことがないのだから、よくわからないけれど。


 そんなこともよりも、冴だ。普段の彼女なら教室には一番についていて、教室の鍵を開けるのは彼女の日課とも言えるほどだ。なのに今日ときたら、いつも―例に漏れず、今日も―予鈴が鳴るぎりぎりくらいに教室に着く私が教室にいるというのに、冴の姿は見えない。私は彼女のことを心配しながら、自席についたまま時計の針と教室の入口とを交互に視線を這わせた。


 そして予鈴が鳴ると同時に、教室の後ろの扉ががららと開く音がした。確信をもって、そちらのほうに振り返る。冴だ。冴は教室に後ろめたそうにうつむき加減で、長い髪を前に垂らしながら前のほうにある自席に向かった。


 不意に、冴の上体がぐらつく。見れば、近くにいた男子達がけらけらと手を叩きながら笑っている。そんな男子達を、冴が鋭い目でキッと睨みつける。冴は普段はおくびにも出さないけれど、弱いものいじめを許せず、他人の為に敢然と立ち向かっていくような、勇敢で気が強い一面も持ち合わせている。そんな冴の気の強さが男子達に牙を剥いて、また変なトラブルに発展したら、今度こそ冴が学校に居られなくなっちゃう。私は咄嗟に立ち上がって、冴のほうへと駆け寄った。


 私が駆け出した頃には、ガキくさい男子達の口撃が始まっていた。元優等生さんだの、犯罪者さんだの、勉強が出来ても善悪の区別も付かないんですかだのと。冴も表情は怒っていたけれど、私が冴のもとに追いついて、気にしないで、気にしないでと声を掛けながら背中に腕を回して、促すように押し出す。けれど四月一日わたぬきの一言が、冴の逆鱗に触れた。


「あんな犯罪に手を染めるなんて、親の顔が見てみたいぜ!」


「アンタに、パパとママの何が分かるってのよ!」


 逆上した冴の勢いはそれはもう凄まじくて、体躯の小さな私なんかでは、女子の中でも背丈があるほうの冴を押さえることすら困難だった。正面から止めようとする私を無視するかのようにずんずんと四月一日の前に勇み出て、右手で鋭く平手を打つ。それを皮切りに、二人は取っ組み合いの喧嘩を始める。間に居る私のことなんて、お構いもなしに。殴打の応酬が、男子達がやんややんやと茶化す声が、私の頭上を飛び交っている。それでも必死に冴にしがみついて、冴を止めようとする。そんな私に、やがて四月一日の拳が飛んできた。


 拳を浴びた頬がひりりと痛んで熱を帯びる。その熱が胸の内に届いて炎を灯らせて、沸き立った血が頭に登ってくるまでに、そう時間はかからなかった。私を気遣ってこちらを覗き込む冴をぞんざいに突き放しながら、私は勢いよく四月一日の方へと振り返った。勢いそのままにテークバックをとり、腕を大きくぶん回すようにして、四月一日の頬へと平手をお見舞いした。


 四月一日の大きな体躯が、ぐらりと崩折れる。私は迷うことなくそれに飛び乗って、もう一度腕を振り上げる。そしてまた手を一杯に開いて、四月一日の頬へと打ち下ろした。開いた指と指の間から、烈火が尾を引くのを幻視する。その炎が四月一日の頬に当たると、にわかに四方に爆ぜ飛んで、四月一日の頬を紅く染める。炎の熱は私の掌にも伝わって、びりびりするような痛みとともに、私の心の炎にまた熱を焚べる。そして炎は、また一層激しく燃え上がる。私はもう一度、熱を帯びたままの手を振り上げた。


 その手は四月一日に振り下ろされる前に、冴の絶叫とともに取り上げられた。本鈴が教室中に鳴り響く。それは試合終了を告げるゴングのように、私の耳にも届けられた。不意に冷静さを取り戻したが、やられっぱなしの四月一日は、他の男子に押さえられながらも血相を変えてこちらを睨んでいる。かくいう私を押さえている冴は、綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃにしている。そんな中にホームルームのために入ってきた担任は、さぞかし驚いたことだろう。怒声を浴びせながら私達の間に割って入ると、各々を自席に座らせた。


 放課後、当然のように私達は呼び出された。担任から説教を受けている間中、私はあの炎のことについて思い出していた。あの炎を一つ四月一日の頬に打ち付けたとき、ちくりと胸の奥が痛んだ。けれど同時に、その痛みすらも含めて昂ぶりを感じていた私が居たのを覚えている。長きに渡る担任の説教はこれっぽっちも記憶に残っていないけれど、あの時感じた、胸の高鳴りのようなものを、私は鮮明に思い出せる。どうしたらいいのだろう。その答えを探しているうちに、担任からの説教は終わり、私達は解放された。


 自宅に帰り、夕食を済ませ、私は自室へと戻る。宿題をしようとシャープペンシルを握る手に、あの炎の熱が蘇ってくる。同時にやってきた心の昂ぶりに、なんだか実体を伴わない空虚さを感じる。なんだか苛々してきて、バンと勢いよく机を叩いてみる。手にはびりりとした痛みが伝わってきたが、熱は帯びれど、炎は燻りもしない。やがてその音に心配して様子を見に来た親を適当にいなすと、先刻叩いた机を見た。スマートフォンがそこに置かれている。そうだ、冴だ。親にはあんなことよっぽど冴には話せないけれど、冴にならきっと、話せるかもしれない。


 私はスマートフォンを手に取ると、いつものようにロックを外し、いつものようにSNSアプリを開いた。そしていつものように冴との個別チャットを開こうとすると、途端に心臓が早鐘を打ち出す。そして、指を震わせながら、通話ボタンを押した。窓の外を見やれば、深夜色に染まった空にぽつんと一つ、暗い赤褐色の月が浮かんでいるのが見えた。そういや、今日は皆既月食だって言ってたっけ。満ち足りた綺麗な丸が、普段の綺麗な月白とはほどとおい、暗く濁った色をしている。まるで今朝方、私が抱いた心みたいだ、という傲慢な思い込みをしたまま、鳴り響くコール音をただ聞き続けた。



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