月の姿見
げっと
前編 - 七海舞には、分からない。
空は深夜色に染まり、赤褐色に輝く月が、一片にも欠けることのなく空にぽつんと浮いている。私はそれを見上げながら窓際に立ち、いまだに紅い熱の残る右手にスマートフォンを握りしめて、コール音が鳴り止むのを待っている。どうしても誰かに話したい、どうしても共有したい。けれどどうしたって話せない、このどうしようもない、嫌悪感と絶望とを綯い交ぜたような興奮を––
同級生で親友で、優等生で室長でもある八重嶋冴がまた万引きを働いて、警察に捕まったという話を聞いたのは、受験シーズンの差し掛かった秋のころだった。
教室には、もっとやんちゃな男子達ももっといるし、冴よりも気性の激しい女子もいっぱいいる。問題を起こすやつらがこのクラスから出るとしたら、冴よりも、あいつらのほうが想像に易いというものだ。だけれど、実際に問題を起こして、警察に捕まったのは、冴だった。
冴は、明るくて優しくて、控えめだけど社交的で、話しやすくて、他の同級生よりも大人っぽくて、綺麗だった。利発で責任感も強いから、誰もが冴のことを、頼れるクラスメイトだと思っている。だから私も彼女を室長に推薦するのにも躊躇わなかったし、冴が室長に選ばれることも、自明と言い切ってよかったほどだった。
そんな冴と私は毎日のように遅くまで電話をするくらいに仲が良くて、部屋にごろんと寝転がりながら、窓越しに見える月を眺めたながら遅くまでおしゃべりをしているのだ。冴とはあるドラマがきっかけで意気投合したのだけれど、好きなドラマはおろか、好きなシーンまでぴったり―そのシーンも、とても有名なシーンとは言えないような、何気ないけど特徴的なワンシーン―だったのだ。だから冴には、なんだか特別な絆を感じていた。
話題は大抵、その日の夜のドラマの話とか、クラスの誰かが誰を好きだとか、テストに差し掛かるとその話題が増えたり、なんなら通話越しに冴に勉強を教えてもらうことある。そんな、他愛のない話ばかり。冴が警察に捕まったその日も、同じように電話をかけていたのだけれど、流石に警察に捕まったと聞いていて、その事を問わずにはいられなかった。
「冴、また万引きしたんだって?」
「うん、まぁね。ごめん」
「なんでそんなことしたの?」
前に万引きを働いたときも、そんな話をした気がする。私は窓越しに見える三日月を眺めながら、窓の外の色と同じように暗くなってしまった親友の声を待つ。
「やめられなくてさ。つい」
「つい、って。冴、貴方がやってることは犯罪なんだよ?分かってるの?」
「分かってる。ホントはやっちゃダメだって分かってるんだけど、そう思うごとにさ、こう……なんていうのかな。背徳感があってさ、興奮するっていうかさ」
そう申し訳無さそうな声色でいう冴の言葉に、私は閉口した。あんなに責任感も正義感も強い冴から、そんな言葉が出てくるなんて。床にべったりとつけた頭が、重力がさらに強くかかって、ぐいと貼り付けられたような錯覚を覚えた。けれど同時に、冴の声に、うっとりとしたような淫靡さのようなものが感じられた。普段の鈴を転がしたような可愛らしい声とは打って変わった、大人の色香というものを集めて、瓶に詰めて封をしたような、仄かな淫靡さだったけれど。冴が冴でなくなってるような感覚が襲ってきたけれど、しかしこれはこれで……私は生唾を飲んだ。
「けどさ、どうして怒られるって分かってるのにそんなことするのよ」
「分かってないな、舞は。怒ってくれるってことは、心配してくれてるってことなんだよ。私、怒られたこと、一度もないんだよ」
それは冴がいい子すぎるからじゃあ?私は訝しんだけれど、冴の言葉がやたらと重く感じられる。そういうことでもないのかもしれないけれど、冴の言葉はやはり理解が出来ない。私が逡巡を続けている間も、冴は話し続けていた。
「ずるいよ、ずるいんだよ。私はあんなに努力したのに、何一つ褒められることはないし、あまつさえ、冴ならそれくらい当然だよねくらいに思われてる。私の努力なんて見向きもしないで。けどさ、盗んだらすっごい怒ってくれたんだよ。今まで見向きもしなかったくせに、悪いことしたらすっごい怒ってくれたんだよ。ダメだって分かってても、そうでもしないと見向きもしてくれない。私、どうしたらいいのよ」
冴の悲痛な叫びが、電話越しに届けられた。私はその問いの答えを見つけられないまま、その日の通話を切った。スマホから視線を外して、私は視線は自然と窓の外に向く。三日月が見える。丸の形から程遠い、満ち足りていない形の月を見上げながら、冴の言葉を反芻していた。
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