カフェ・クラムジイ5~果たせなかった夢~
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果たせなかった夢
多摩丘陵の山々や公園の桜の木々が一斉に開花し、コート無しでも過ごしやすいと感じる位暖かくなり始めた。多摩モノレールの「甲州街道駅」に程近い住宅街の中に佇むアパートで、冬樹は朝早くから道具を一つ一つ点検し、豆を焙煎し、ポットに入れる湯を沸かしていた。
やがて、間隔をおいて入口のドアを叩く音が響き渡った。
「こんにちは、マスター」
ドアを開けると、そこには緋色が満面の笑みを浮かべて立っていた。冬樹は「いらっしゃい」と言うと、緋色を手招きして道具が揃えられたキッチンの中へ案内した。
緋色は四月から週一回冬樹の元へ通い、コーヒーの淹れ方を教えてもらうことになった。
冬樹は、数ある淹れ方の中で一番基本的な「ペーパードリップ」を教えようとした。
「さあ、まずはコーヒーを抽出する豆の計量からやってみようか。僕の方でもう豆を焙煎しておいたから、これを計量スプーンでコーヒーフィルターに入れて、その上からゆっくりお湯を注ぎ込んでもらえるかな?」
「はい、マスター先生」
「先生と付けられるのは何だか照れくさいや。マスターだけでいいよ」
「じゃあ……マスター、よろしくお願いします」
緋色は軽量スプーンを使って袋から豆を掬い、フィルターの中に落とし込んだ。
「あ、そんなに入れちゃだめだよ。自分の飲む量を考えて豆を入れないと」
「でも、動画で見た有名なコーヒーマイスターの人は、豆をどんどん投入していたけれど……」
「それは豆の種類や飲む人数や好みの問題をすべて考えて、それだけの量を入れてるんだよ」
「すみません。考えもなしに動画のやり方を信じちゃって……」
緋色は申し訳なさそうに頭を下げた。
「じゃあ、お湯を入れてもらえるかな。結構な量の豆をフィルターに入れちゃったから、ある程度お湯を注がないと滅茶苦茶濃いコーヒーになっちゃうから、気を付けるんだぞ」
冬樹は沸いたばかりの湯を注ぎ口の細いポットに入れると、緋色に手渡した。緋色はフィルターの真上にポットを近づけ、湯を注ぎ始めた。やがて、音を立てながら茶色い液体がサーバーの中にポトポトと落ちて行った。サーバーの中には半分近くまで液体が溜まっていったにも関わらず、緋色は止めることなくお湯を注ぎ続けていた。
「ちょっと、そこで止めて!」
冬樹は慌てて真上から緋色の手を押さえた。
「だって、さっきマスターはある程度お湯を注がないと濃すぎて飲めないって言ったじゃないですか」
緋色は納得しない様子で冬樹を睨み返したが、冬樹はひるむことなく緋色から手を離さず、必死の形相で押さえつけていた。
「わ、わかりましたよ、そんな怒らなくたって…‥‥」
緋色はまだどこか不満そうだったが、ようやくポットを動かす手を止めた。
「試しに飲んでみなよ」
冬樹はサーバーからコーヒーをカップに注ぎ込み、緋色に手渡した。
「あ……確かに薄味ですね。これじゃ豆の風味も損なわれてしまいますよね」
緋色はカップに手を添えながら、納得した様子で頷いていた。
「さっきも言っただろ? 豆の種類とか自分の飲む量とか考えろって」
冬樹に睨まれ、緋色はすっかり落ち込んでいた。しかし、緋色が自分の手で美味しいコーヒーを淹れられるようになるためには、多少厳しくしてもまずは基本的なことをしっかり勉強してほしいと願っていた。
「どうする? 今日はもうこれで終わるか? 一番基本的で易しい淹れ方のペーパードリップが出来なければ、他の淹れ方をやろうとしても上手くは行かないぞ」
「……まだ続けます。お願いします」
「そうこなくちゃ。さ、もう一度ペーパードリップをやってみようか」
冬樹は器具を綺麗に拭き取ると、再びセットし直した。
緋色は計量スプーンでもう一度フィルターに豆を盛り付けると、真上からポットで湯を注ぎ込んだ。
「あ~……真上からそんなにドバドバ入れたら、風味を損ねちゃうよ。弧を描きながら、ゆーっくり注いでごらん」
冬樹はポットを持つ緋色の手の側に自分の手を添えると、フィルターの上で何度もぐるぐるとポットを回転させながら湯を注ぎ込んだ。
「ほら、さっきよりも豆がジュワジュワ言ってるだろ?」
「そうですね……どうしてなんですか?」
「豆から風味の良いコーヒーを抽出するためには、豆になじませるように優しく湯を注ぎ込むんだ」
緋色は冬樹に手を添えられながら、真剣な表情で湯を注ぎ込んでいた。
冬樹は出来上がったコーヒーをサーバーから取り出すと、「飲んでごらん」と言ってカップに注ぎ込んだ。
「さっきより淹れたものより、風味があって美味しい……」
「だろ?」
その後も緋色は冬樹の指導を受けながら何度もコーヒーを淹れてみた。しかし、ここまでインターネットの動画だけを元に練習してきたせいか、所々に癖があったり動画で紹介されたやり方をそのまま踏襲していたりして、冬樹から何度もダメだしを食らっていた。緋色はなかなか上手く出来ず、次第に表情に苛つきが出てきたようにもみえた。
「じゃあ今日はここまで。また来週土曜日にやるから、家でしっかり復習してきてね」
「はい……」
緋色の声には、この部屋に来た時のような元気がなかった。
うつむき加減の姿勢で帰っていく緋色の背中を見送りながら、冬樹はちょっと厳しくやり過ぎたかと反省したが、緋色が自分自身で納得できる美味しいコーヒーを淹れられるようになるには致し方ないプロセスだと信じていた。
翌週も、その翌週も緋色は冬樹の部屋に来て、ペーパードリップでのコーヒー抽出に挑戦した。しかし、なかなか納得のいく味を出せず、冬樹からダメ出しを受け続け、帰る時はいつも元気を失くしていた。
四月最後の土曜日、緋色はいつものように冬樹の部屋に来て練習を始めた。
しかしこの日の緋色は、いつもとは様子が違っていた。
「お、今日はいつもよりいいね。でも、もう少し豆の量は減らしてもいいんじゃないかな?」
冬樹が相変わらず細かい箇所を見つけて指摘したが、緋色は無言のままスプーンに載せた豆の量を調節していた。
その後も、冬樹は何度も緋色に問いかけたが、緋色は何もしゃべらず、まるでロボットのように言われた通りに動いていた。
最後にサーバーに入れたコーヒーを試飲したが、冬樹が思っていたよりも出来が良く、親指を立てて「上出来だな」と呟いた。
「今日は今までよりいい感じに仕上げられたね。家で練習でもしてきたのかい?」
「……」
「な、なんだよ……どうして何も話さないの? 僕が問いかけてるんだから、何か返してくれてもいいんじゃないか?」
緋色は無言のまま、むすっとした表情で自分で淹れたコーヒーを飲み干していた。
「まあ、しゃべりたくないなら別にいいけど、その表情は怖いからやめた方がいいぞ」
すると緋色は突然立ち上がり、鞄を手にすると「今日はこれで失礼します」とだけ言い残し、思い切り音を立ててドアを閉めた。
一体何があったというのか? 冬樹が緋色に厳しいことを言い続けたからなのか?
いまいち理解ができないまま、冬樹は「勝手にしろ」とドアに向かって叫んだ。
五月の連休が明けて最初の土曜日、いつものように冬樹は練習の下準備を行っていた。連休中は緋色が岩手の実家に帰るとの話があったので練習を休みにしていたが、その間冬樹は、自分の指導法について冷静に考えていた。そして、緋色は店を開くわけではなく、自分が納得するコーヒーを淹れたいというのが動機だったのに、さすがに言い方がきつかったと思い、深く反省していた。
やがて、ドアを叩く音が聞こえた。
冬樹はにこやかな顔でドアを開けると、そこには緋色が立っていた。まぶたの下にはうっすらとクマが出来ており、表情は暗く沈んでいた。
「どうしたの? 何だか元気がないなあ」
「マスター……今日は練習に来たわけではないんです」
「え?」
「実は、相談したいことがありまして」
緋色は髪の毛をかき上げ、言葉を選ぶかのように何かを口ごもると、ようやく口を開いた。
「私、実家に帰ろうと思いまして」
「な、何だって!?」
「……実は先月から母親が病気で寝込んでしまって、なかなか回復する様子も無く、今度入院することになりました。弟もまだ高校生ですし、私がいないと生活が成り立たない状態なので。先月最後の練習の時も、これからどうしようかとずっと悩んでて、話する気分にもなれなかったんです」
「そうなんだ……じゃあ、練習はどうするの?」
「もうここには通えません」
「だって、ここまで一生懸命練習してきたじゃないか?」
「そうですけど……」
「たとえ通えなくても諦めちゃダメだ。お母さんの病気が良くなったらまたここに来ればいいじゃないか? 君の夢だろ? 亡くなったお父さんに美味しいコーヒーを捧げたいんだろ?」
「わかってます! わかってるけど……」
緋色は悲鳴にも似た声を張り上げると、顔を押さてその場に座り込んだ。
冬樹はそれ以上言葉をかけるのを止め、頭を振って両手を天にかざした。
「……了解。でも残念だな、これで夢を手放すなんて」
冬樹は苦笑いすると、緋色は申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
「今まで私のために一生懸命教えてくれて、本当にありがとうございました。厳しかったけど、私のことを想って必死に教えてくれたのは十分伝わってきましたから」
緋色は冬樹に背中を向け、ドアノブに手を掛けるとゆっくりとドアを閉めようとした。
「待てよ!」
冬樹はありったけの力を振り絞り、緋色に声を掛けた。
「僕はカフェを閉店した後、ここに揃えてある道具たちを全部処分しようと思った。苦い思い出しかない過去のことを忘れ去ろうと思ってね。でも、緋色さんと出会って、コーヒーへの熱い想いを聞かされて、思い直したんだ。自分はこの道具たちを離さないってね。だから君も、自分の夢を簡単に離さないでほしいんだ」
そう言うと、冬樹は緋色の前に片手を差し出した。
緋色はしばらく冬樹の手をじっと見つめていたが、やがてその手をしっかりと握りしめた。
「ありがとうございました」
握手を交わした後も、緋色は握りしめた冬樹の手を離そうとしなかった。
「もうここには来れないけど、ここで覚えたことは決して頭の中から離さないつもりです。それに……」
緋色は何かを言いかけたところで言葉を止めた。
「あ……何でもないです!」
緋色は慌てた様子でそう話すと、ドアノブを最後までゆっくりと閉めきった。
冬樹はテーブルに並べられた道具を手に取ると、やりきれない様子でため息をついた。
「せっかくお前たちの出番ができたのにな……」
誰もいない部屋で、冬樹は道具を拭き取り、箱の中へしまい込み始めた。
その手には、緋色が握りしめた時の温もりだけがいつまでも残り続けていた。
(了)
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