はなさないで峠

沢田和早

はなさないで峠

 その声がいつから聞こえてくるようになったのか、詳しく知っている村人はひとりもいない。権勢を振るった平家が滅亡してからだと言う者もいれば、戦国の乱世が始まってからだと言う者もいる。いずれにしても江戸に幕府が開かれ天下泰平の世となった時にはすでに聞こえていた、ということだけは確かなようだ。


 聞こえてくるのは薄明の頃、夜明けと日暮れの時間帯が多い。地獄の亡者のような怨恨に満ちた「はなさないで」の声が、峠道いっぱいに響き渡るのである。それゆえ村人はこの峠をはなさないで峠と呼んだ。


 はなさないで峠は奥州の人里離れた山の中にある。ここを歩くのは土地の者がほとんどだか、羽州街道から松前街道へ抜ける道として遠方からの旅人が利用することもある。彼らは何も知らないので例外なく驚く。


「はなさないで、はなさないで」

「んっ、おまえ何か言ったか」

「いいや。何も言っていないぞ」

「はなさないで、はなさないで」

「うわっ、また聞こえた」

「誰だ、出て来い」

「はなさないで、はなさないで」

「おい、ひょっとしてものたぐいなんじゃないのか」

「逃げろ。たたられるぞ」


 うの体で峠道を駆け下り、麓にある茶屋で一息ついた二人連れ。店番の老婆が茶を出しながら尋ねる。


「ひょっとして峠で声を聞きなさったのかね」

「そうだ。はなさないで、確かにそう言っていた。あの声は何なのだ」

「それを知っている者はひとりもおりませんよ。時に、おまえさん方、手をつないではいませんでしたか」

「いいや。子どもじゃあるまいし、いい歳の大人が手をつないで歩くのはおかしいだろう」

「手を放したりはしなかったのですね。それはようございました。それでは二人で話したりはしませんでしたか」

「それは話したさ。不気味な声が聞こえたんだ。黙ってなんかいられない」

「ほう、はなさないでと言われたのに話したのですね。それはまあなんともいやはや」


 老婆は話を打ち切って店の奥へ引っ込もうとする。旅人が慌てて引き留める。


「話したらどうなるのだ。何か悪いことでも起きるのか」

「それは話せません。はなさないで、と言われているのですからね。でもまあ手を放さなかったのですから大丈夫なのではないですか」


 老婆はそれ以上何も話そうとしない。二人の旅人は暗い心持ちで茶屋を後にするしかなかった。


 実際のところ、この峠をよく利用する村人たちにとっても「はなさないで」が何を意味するのか、その言葉に逆らうとどうなるのか、何もわかっていなかった。

 村人たちの中でも特に迷信深い者は、一言も口を利かず、つないだ手を放さず、同行者と離れずに歩いて峠を越えていた。

 しかし多くの村人は他の道と同じように普通に話をし、普通に手をつないだり放したりし、普通に離れたりくっついたりして歩いていた。

 だからと言ってその村人に災難が降りかかったり不幸が訪れたりすることはまったくなかった。茶屋の老婆が二人の旅人に意味ありげなことを言ったのは、たんなる悪ふざけに過ぎなかったのだ。


「はなさないで峠だと」


 ある日、新しい領主がやってきた。先代の領主が亡くなったためだ。新領主は生まれてから今日に至るまでずっと江戸屋敷に住んでいた。それゆえ自分の領内に関しての知識はほとんどなかった。はなさないで峠についても城代家老から話を聞いて初めて知ったのだ。


「そのような不気味な峠を放置していたとはあっては我が藩の名折れとなろう。即刻調査いたせ」


 新領主のめいによって、はなさないで峠に城下から大勢の侍が押し寄せた。村人たちは大反対だ。

 確かに「はなさないで」の声は不気味で意味不明で対処に困るが、だからと言って人には何の害も与えていない。それどころか慣れてしまえばどことなく愛嬌さえ感じられる。

 この声はきっと雷鳴や風声や波音と同じで、自然が発する音にすぎないのだ。雷鳴を消し去ろうとすることが無意味なように、この声の原因を突きとめて消し去ろうとすることもまた無意味なのではないか。そんな村人たちの声に侍たちは一切耳を貸さなかった。


「黙れ。雷も風も波もこの国には至る所に存在している。しかしこの『はなさないで』の声はこの峠にしか存在していない。つまりこの声は尋常ではない。異常なのだ。異常なものは排除すべきである。領主様の御決定に不服ある者は全て引っ捕らえるゆえ覚悟いたせ」


 こうなっては村人も傍観するしかない。はなさないで峠一帯は侍たちの手によって草が刈られ、樹木がなぎ倒され、土が掘り起こされ、ひどい有り様となった。そして数カ月後、ついに正体が判明した。


「なんと、鳥の鳴き声であったか」


 それは鶏に似た飛べない鳥だった。非常に用心深く、普段はほら穴や草むらにじっと潜んでいるのだが、薄明時になると習性によって鳴き声を上げる。その何の意味もない鳴き声を「はなさないで」と喋っているのだと、人間たちが勝手に解釈していたのだ。


「鳥ならばそのまま放置しても構わぬであろう。旅人たちも正体がわかれば怖がったりはせぬであろうしな」

「はい。しかしながらこの鳥には別の利用価値があります」

「なんじゃ、申してみよ」

「肉が大変美味なのです」


 素晴らしい鳥肉であった。焼いて良し、煮て良し、揚げて良し、生でも良し。侍たちは大挙してこの鳥を捕獲し食い漁った。その結果、数年で絶滅してしまった。新領主の横暴を止められなかった村人たちは深く後悔した。


「あの鳴き声は鳥たちのお願いだったのかもしれないな。鳥たちはきっとこう言っていたのだろう。『わたしたちのことをよそ者に話さないで秘密にしてください。他の土地に放ったりしないでください。この土地から離れることなくずっと住まわせてください』人間たちにそんなお願いをしなくてはならないほど、彼らは弱く滅びやすい鳥だったのだ。やれやれ、可哀想なことをしてしまった」


 今もう何も聞こえなくなった峠道を歩きながら、村人たちは深いため息をつくのだった。









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