始まりそうで、始まらない。
@kumehara
第1話
(ああ、イライラする……!)
何も、見たくて見ているのではない。自然と視界に入ってしまうのだ。大好きな部活の時間に集中したいのに、視界にぴょこっと映り込んでくる皮膚のせいで、気が散る。全く集中できない。
由香は吹奏楽部員である。そして、トランペット奏者である。トランペットにはピストンバルブというパーツが付いており、三つのそれらを必要に応じて押し込むことで音の高さを変えられる。右手の人差し指、中指、薬指でそれぞれ押し込むわけだが、その中指にできたささくれが、ピストンを押したり離したりする度、視界に映り込んでは由香の集中力を削いでいるのだった。
演奏する為に楽器を構えると、ピストンを押す三つの指は大体、目の高さにくる。だから、どうしたって視界に入るのだ。小さいくせに、やたらと存在感のある
(ああ、もう! こんなもの!)
苛立ちが極限にまで達した由香は、楽器を優しくケースへ戻すと、件のささくれを忌々しく睨んだ後、左手の指で引き剥がそうとした。
「うわあ!? 何やってんの!?」
憎き敵を成敗しようとした刹那、横から素っ頓狂な声がかけられる。顔を上げれば、トランペットパートの同級生である
「止めないで。私はこいつが、憎くて仕方ないの……!」
「お前、ささくれに親でも殺されたのか……? パート練習中に突然、痛々しいこと始めようとすんなよ。下級生もビビってるからやめろ。って言うか、出血したら楽器持てなくなるだろうが。ほら、これ貼っとけ」
そう言うと、呆れた様子で絆創膏を差し出してくる。
どこから出したのだろう、という疑問は、すでに抱かなくなっていた。似たようなことが、これまでにも多々あったからである。
その、これまでのことを反芻しながら、由香は渋々絆創膏を受け取った。
「……あんたさあ」
「何?」
「この絆創膏もそうだけど、手が荒れたって言うとハンドクリーム貸してくれるし、体調悪いの絶対気付くし、天気予報が外れて雨降った日は傘入れてくれるし、結構優しいよね。なんか……」
「お、おお! なんか、何……!?」
「お母さんみたい」
「クソが」
「は?」
謎の悪態をついてから落ち込んだ弘人を、後輩たちが「ドンマイです」「頑張りましょう!」と慰めている。不思議な光景を横目に、由香は絆創膏で憎き敵を封じ込めた。
始まりそうで、始まらない。 @kumehara
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