百万光年の彼方にて 4

久里 琳

ハヤタとアキコ隊員の心のささくれ


 指の爪の付け根あたりにできたささくれがじめじめ痛むことってないだろうか。放っておいてもたいした問題じゃない。だがセーターに腕を通すときちくっと引っかかったり、洗い物してるとじわっと沁みたり、柑橘の皮を剥いているとききゅっと刺したりして、地味に日常生活にノイズを起こす。


 ハヤタのささくれは目下、近ごろちっとも開かない箱である。

 この箱を通してM78星雲へ転属願いを送りつけて以来、箱は沈黙をつづけている。うんともすんとも言わないのだ。

 故郷から遠くはなれた異星で日夜奮闘するハヤタに対して、それはあまりに不当な仕打ちではないかと彼は憤った。

 また同時に、辺境の星でいくらがんばってみたところで本星から評価されることはないのだという諦念、ともすればそれもけっきょく自身がその程度の小人物であるせいなのかという苦い疑念が彼を苛んだ。


 ハヤタの心のささくれが痛みを増していくのを、宇宙心理学界のトップランナーと謳われるアキコ隊員はむろん見逃さなかった。

 そして見つけた以上はハヤタの心を癒やすべく全身全霊をささげるのは当然のことだったのである。


 じっさいに指にささくれができたのであればやさしく手に取って介抱もしようものだが、心に立ったささくれを癒やすというのはいささか難度が高い。といったところでアキコ隊員にとってそれは元々10センチ程度だったハードルが20センチに上がった程度のことで、いずれたやすいことには変わりない。

 もし相手が地球人男性であったならば彼女の微笑みひとつで瀕死の血みどろ重傷者までもが勇躍として立ち上がり飛び上がり、不死鳥の如く永遠の生命力を周囲にばらまきさえしただろう。

 幸か不幸かハヤタは異星人であったためにそこまで傍迷惑な蘇生ぶりは示さなかったものの、やはりアキコ隊員の献身には癒されたのであった。


 ハヤタを癒やすことに成功したとはいえ、それが自分の魅力にハヤタが陥落したことを意味するわけではないと、聡明なアキコ隊員は気づかないではいられなかった。

 これまで出会ってきた男性はことごとく自分にぞっこん惚れこんだのが、ハヤタに限っては恋情の気配を微塵も漂わせないのだ。

 だからこそ彼に惹かれたのかもしれない。また、星団をもまたぐ壮麗遠大な恋愛でなければ不世出の才媛と讃えられる彼女が人生を懸けるに値しないようにも思われた。

 星と星のあいだの壁を乗り越える愛の炎――そんな恋も不可能事ではない、と彼女は考えている。

 過去を繙けば異星から来襲した鬼娘が地球生れの少年に熱烈な純愛をささげた例もあるのだし、ハヤタとアキコ隊員のあいだに同じことが起きる可能性をどうして否定し去れよう。


 だがハヤタにしてみれば事情は異なるようだ。むろん彼は差別論者ではなくむしろダイバーシティ&インクルージョンを信奉するもので、全宇宙のあらゆる生命体は友愛で結ぼれ、一致団結して平和を築きあげるべしと夢みているのである。

 だがいかんせん性的指向は理念で方向づけられるものではない。彼の嗜好はあくまで同星の者だけが愛欲の対象となり得る同星愛者であって、異星愛には反応しないどころか、世にもおぞましい変態行為と映るのだった。


 今のところアキコ隊員の恋心がむくわれる様子はない。

 世に望月の欠けたることなしと高らか詠いあげんばかりの人生を歩んできたアキコ隊員にとってほとんど唯一といってよい心のささくれが、ハヤタゆえのものなのであった。



(おわり)


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