あこがれのハワイ。作家に経験は必要?
朝吹
あこがれのハワイ。作家に経験は必要?
『 ? 』とは……。
大丈夫です、『経験は必要』のところにクエスチョンなんかつける人間のほうがおかしいのです。
黒歴史というよりは、数々の黒歴史を生み出しがちな残念な思考の一例をお見せしたい所存にて。
『あこがれのハワイ。作家に経験は必要?』
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え、お前何云ってんの。
頭おかしいの。
作家にこそ多種多様な経験は必要でしょ。
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99%の人が「作家にはいろんな経験が必要です」と疑問を持つことのない中で、一人だけ立ち止まる。
これがわたしの残念さです。
でも本当に残念な人なら、まず絶対にこんなこと考えませんから。
思考しない人なら、偉い人が云ったことや良さそうなことを全部そのまま鵜呑みにして、
「そうですよね、さすがは偉大な○○さん」
「どんな小説指南本にも実際に経験をすることが大事と書いてありますよね」
それで終わりです。
残念な方向であっても、思考するから、こんなおかしな考え方になるのであって。
ああやっぱりね、頭の悪いド素人はこんな思考をするんだ。
かわいそうに。
そんな見本だと想って下さい。
↓↓↓
武蔵野文学賞について、いつも辛辣なことを呟く或る方が、「武蔵野に行ったこともない奴の話は読む気もしない」と近況ノートに書いていました。
武蔵野を直に知っているという、【経験】が大事。
「以前に住んでいました」「現住所です」「関東圏なので電車で日帰りの距離です」
そんな方ばかりではなく、武蔵野のイメージが何もない方でも、全国から作品を応募されたことと想います。
土地勘のない方がどうやって書いたのかといったら、知識や資料にあたって書いたはずです。
武蔵野文学賞だとちょっと生々しいので、架空の賞にします。
熊本県水俣市を舞台にした小説を書いて下さいという公募が出たとします。
最終候補として幾つかの作品が残った中に、水俣に行ったことがない人の作品と、現地に暮らしている人がいて、作品としては前者の方が優れていたと仮定します。
北海道かどこかの人が資料をもとに、素晴らしい小説を書いている。過去の公害問題もからめた、大賞にふさわしい作品だった。
でも、「水俣に暮らした経験のある人の作品を選ぶべきだ」と後者の作品が受賞する。※だったら最初から、水俣市在住に応募資格を限定しとけ。
「武蔵野に行ったこともない奴の話は読む気もしない」
この人が審査員なら、水俣市在住の作品を受賞させるのでしょう。重視するのはそこだから。
サーフィンをやったことがないのに、サーファーを主人公にして優れた小説を書いた人と、サーファーのお兄ちゃんがちょっと書いたものなら、後者のほうがいい。
「サーフィンをやったこともない奴の話は読む気もしない」と。
でもやったことがないのに、いかにもそのように、りんご農家や介護職や、倒産しかけの工場を舞台に、読者を惹きつけるものを書けるのが小説家の能力だと、わたしは考えています。
(ほらだんだん雲行きが怪しくなってきたでしょう?)
陶芸やスノーボードや乗馬なら、まだ身近なので、ちょっとだけやってみて、「経験しました」そんな顔を作ることは可能でしょう。
やったことあるんですか?
意地悪な質問をされても、
「あります」
と応えるためにも、一日体験くらいはやっておく。
ほら経験しましたよと。
そして小説を書き、「やったことあるんですか?」には「あります」と答え、作家には経験が大事ですよねと褒められる。
こんなのは小説を書く能力にはほとんど関係ありません。
ただの取材です。
もちろん、たとえ一日体験、見学、さわり程度の経験であっても、書く上ではプラスでしょう。
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ほ~らね。
なにごとも経験が必要ですよ。
経験こそが、小説に奥行と厚みをつくるんです。
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それで。
半日で何が分かったというのでしょうか。
刀鍛冶を題材にして小説を書くのなら、少なくとも十年は刀鍛冶をやって下さい。そこまでやらないとこの仕事は分かりません。
そう云われたら、やるの?
医者を主人公にした小説を書きたい。
厚みを出すためには医師免許をとってからでないと書けないの?
猟師。
国際線のキャビンアテンダント。
銃を発砲する。
舞台が江戸で、築城に関わる大工たちを書く。
略。
集めた資料をもとにその様子を書きおこす。
これがまさに、「経験せずに、調べた知識だけで書いている」に該当します。
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ある作家が青春小説でデビューすることになった時に、編集者が、
「これはあなたの体験なのか」と訊ねました。
「いいえ」と新人作家は応えました。まったくのわたしの想像の産物ですと。
「ああよかった」編集者はにっこり。
「自分の経験したことしか書かない人は、二作目以降が書けませんから」
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このエピソードを知った時に、とても納得しました。
自分の知らないことでも書くことが出来るのが、作家の力だろうと。
でも世の中の指南本では、作家は机から離れていろんな経験を積むことが大事ですと【必ず】書いてあります。
これに賛同する圧倒的多数、その人たちはこう云います。
いろんな経験をしないと小説は書けないと云うと、じゃあ人殺しをしないと殺人鬼は書けないんですかぁ? と云ってくる奴らがいますが、ああいうのが残念な思考ですよ。作家こそ多くの経験をしないと、奥行きのある作品は書けません。
「作家はなにごとも経験することが大事」に対しては、誰もが「そのとおりです」と拍手喝采です。スタンディングオベーション。
わたしみたいに、そこで一度、立ち止まる人のほうがおかしい。
さすが、残念な思考ですから。
でも、「作家はなんでも経験してみることが大事です」を考えてみるには、「作家には経験が必要なのか?」こちらからの考えも必要ではないでしょうか。
誰かの言葉をコピーして、「作家は実際に経験することが大事なんだぞ」と云っているだけの人に、つっこんで訊いたとしても、
「偉い人が云ったから! 賢い本に書いてあるから!」
としか応えられません。
それと、
「知識だけで分かったつもりになって書いている」と、いったいどこが違うのでしょう。
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生まれた時から身体が不自由で病院のベッドにいる人が、走ってみたいと願い、切望するあまりに、アスリートを主役にした小説を書いた。
走ったことはないが、その強い気持ちが文章を走らせ、陸上経験などないのに
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わたしはこれを、「小説」と呼びます。
経験せずに、資料や知識だけに頼ると失敗しますよ。それでは厚みのあるものは書けませんよ。
その失敗の分かりやすいところでは、外国映画の日本の描写でしょうか。
幾らでも参考資料を浚える時代にあっても、まだおかしい。
なぜか。
単なる手抜きということもあるでしょうが、肌感覚としての日本を捉えていないまま作ってるからです。まさに「実際に経験していないので薄っぺらい」に近い結果です。
では、外国を描くには、肌感覚になるまで何年もそこで暮らさないと駄目なのでしょうか。
武蔵野のように、住んだことのない場所を舞台にすることは不可能なのでしょうか。
真に迫る小説を書くために十分な経験をすることが不可欠ならば、そこまでやらないと良い小説は書けないということになります。
日帰りで武蔵野に取材に行ってきました。
こんなのは、表面を撫ぜる遠足みたいなものであって、小説の出来映えにはまったく関係ありません。せいぜいが、「取材しました」とドヤれるくらいの旨味しかありません。
それで、小説に奥深さや厚みがどのくらい生まれるというのでしょうか。現地を知っていると有利。そこだけです。
一日体験をして「厚みが生まれた」と帰っていくなんて、その道の人からしたら、殴りたくなりますよね。
確かに。
それでは、やはり作家は経験してみることが大切ですね。題材を小説に生かせるように、本質を掴めるまで経験してみなければ。
サーフィンを理解するために、三年間、サーフィンしてから小説を書きます。
杜氏を書くために酒蔵で五年間、実際に日本酒をつくってきます。
ロックバンドを組んで、ボイトレをやり、ライブハウスを満員にしてみます。
小説に厚みと奥行きを出すためには一日体験のような上っ面ではなく、自分でしっかり経験してみることが大事ですから。
……小説を書くんじゃなかったの。
オリンピアンが書いた、アスリート小説。
寝たきりの陸上未経験者が病院の中で資料をもとにして書いた、アスリート小説。
あえて極端な例にしましたが、わたしのなかでは、この二つの小説の価値はイーブンなんです。それが、小説というものだと考えているからです。
「作家は経験が大事です」
こんなのは、「ごはんはよく噛んで食べましょう」です。YESしか回答はありません。
「常識ですよ」
とドヤられても、そうっすね以外の回答はないです。
野菜は食べたほうがいいよみたいな。
でも、誰ひとり疑わない清潔な正解だけで頭を埋めても、結局は、「偉い人が云ったから、本に書いてあったから。これが小説の作り方だから」と刷り込まれた文言を振りかざすだけで、その先に自分が生み出すものはありませんよね。
「実際に経験していないので薄っぺらい」
これと、
「実際に経験したわりには薄っぺらい」
これは、どちらもあることです。未知のことでもリアル感をもって書ける。経験を小説に生かせる。必要な能力はこちらです。
わたしとて、「作家は机にかじりついていないで、自分の五感で実際にいろんなことを経験してみることが何よりも大事です」と指南本のたぐいが口を揃えることの、その意味については、一切誤解はしておりません。最近わたしも同じことを十代の方に云いましたから。
一見無関係でバラバラな経験であっても、無意識下のシナプスのようにして、経験したことは小説の隅々に生かされていくでしょう。
それは非日常的な、スペシャルな体験を意味しません。「さあ経験しなくては」とアクティビティに乗り出すようなものでもありません。
季節のうつろい、電車の中で小耳にはさんだ言葉、弁当の割りばし。
そこから「何をくみとるか」が大事なのであって、人と同じものを見て、人よりも多くの経験を積んだところで、小説を書けない人は山ほどいます。
体験談と小説は違うものです。
小説とは、実体験を投影させて書いているかどうかで値打ちをはかるものではなく、「いかになにを書いているか」です。運動部に所属したことがなくても、アスリートの苦悩や風をきって走る感覚を小説に書けていたら、それが小説なのです。
一般的な小説における人生経験の扱いとは、やや大げさにいえば、人からきいた体験談、或いは紙面の資料とほぼ同じです。心の中に
大怪我をした、悔しかった、失恋をした等の経験があるほうがアクセスしやすいかもしれません。経験とは小説世界へのアクセスコードの一つです。でもそれをそのまま書くのなら、それは日記、あるいは私小説です。
「こんなにも胸に響く歌を作詞してうたえるなんて、実際に経験したことなのでしょう」と問われたシンガーが、「違います」と否定する。真であれ偽であれ、作品として人の胸に届くものを書くということ。
家庭不和な人でも、糖尿病の人でも、小説の中の登場人物は素敵な夫婦だったり、溌剌とサッカーをしている。何不自由のないリア充であっても家に帰れば、『どうやって死のうかと山を彷徨っていたその時。』と実に暗い小説を書ける。
もしそれを、「想像で書いているから無効」と云う人がいるのならば、声を大にして「違う」とわたしは云う。小説とは、そんな、誰かが勝手にきめた手順や、現実の檻に囚われて書くようなものではない。想像力をいくらでもはたらかせて、小説を実際に書くという経験を積んで、書いていくものです。
結び。
99%の人が疑いもなく賛同の挙手をするものに対して、「そうは想わない理由」を一応、展開してみました。
くどいようですが「いろんな経験をすることが大事」を否定するものではありません。確かにそうだと実感した人が云う分にはなんの障りもありません。
何も思考しない人が、ただ闇雲に、声高に、これぞ正解で正義とばかりに叩きつけてくるものへ、わたしは反対側から入るのです。
ぐうの音も出ないだろう。そうやって、にやついて人を黙らせる者が口にする「べき」には、思考した形跡がありません。
「実際に経験することが大事なんだぞ」と何の疑問も抱かずに読んで知ったことを唱える人たちの、そのうちの何割が、自分の眼差しを持って事象をとらえ、自分なりの小説を書くことが出来るのでしょう。
どれほど『指南本』のセオリーに沿っていても、自分の考えがない人の小説など、せっかくの経験をレポートのように小説中で扱うだけではないでしょうか。
あ、ハワイ?
タイトルを回収できなかったのですが、もしハワイを舞台にした小説を公募した時にはと話を展開する予定でした。なぜか水俣になってました。
1%側の、『残念な思考』でした。
[了]
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※老婆心的な助言
反対側から考えるクセがわたしのように思考に留まっていればよいのですが、現実でこれをやってしまうと、無駄な軋轢を起こしがちになります。
あこがれのハワイ。作家に経験は必要? 朝吹 @asabuki
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