最後の睦言
淡島かりす
あまりに呆気なく
親指の爪の横のささくれを歯で噛んでちぎったら、思いのほか他の皮まで巻き込んでしまった。秋風に晒された指がヒリヒリとした痛みを訴えかける。余計に毟ってしまった皮膚の部分は薄らと血が滲んでいて、垂れるまではいかないだろうが服に触れたら汚れそうだった。お気に入りのスカートに血をつけることはしたくない。
「自分で皮膚を毟るのは自傷癖らしいわ」
隣でそれを見ていた恋人が言った。正確にはさっきの喫茶店までは恋人だった女が。その手は綺麗に手入れされていて、ささくれどころかかすり傷すら見当たらない。
「別にそんな大袈裟なものじゃないよ」
苦笑いしながら返したつもりだったが、あまり上手くは行かなかった。秋のからっ風が遠慮なく通り抜ける駅のホームには人が大勢いた。次の急行が来るまではまだ少し時間があった。
デートの最後はいつもここだった。彼女は下りで自分は上り。ここで彼女を見送ってからホームを移動して、自分の電車が来るのを待つ。他愛もないお約束。
「ハンドクリームとか使った方がいいんじゃない? 貴女、そういうの無頓着だもの」
「初めて言われたよ、そんなの」
「前は気にならなかったのよ」
彼女はため息をついて、癖のある長い髪の一部を指で絡めた。
「貴女の指がささくれてようと、唇が割れてようと、大した問題じゃないと思ってたから。今はとても気になるわ」
「普通は逆じゃないの? 好きの反対は無関心って言うし」
私の言葉に彼女は眉を寄せた。お互いに線路の方に顔を向けているので視線は交わらない。
「そういうのじゃないわ。単に許せなくなったのよ」
「ささくれが?」
「違う。それを放置する成人女性が」
「あぁ、そういうことね」
女同士であることが問題だったわけではないと思う。自分は相手の女らしさを愛していたのではないし、相手だってそうだろう。手を繋いで頬を寄せあって笑っているだけで、世界や常識を全てを遠くに押しやる力を私たちは失ってしまったのだ。手をつなげは物陰から常識が顔を出すのを必死に無視して、互いの一言一句から沢山の不満を感じることをどうにか誤魔化し、わずかに残った長所を愛でて育てるのに、お互い疲れてしまった。要するに付き合った頃の私たちは若かった。若くて勢いがあった。それらが二つとも失われるまでに何かを作り上げなければいけなかったのに。
「最後がささくれの話なんて、ロマンも何も無いわね」
「なら最初の話覚えてる?」
「覚えてないわ」
電車の到着を伝えるアナウンスが聞こえた。早く此処から離れたいと思いながら、親指を守るように手を握り込む。なら見送りなどせずに改札で別れればよかったのに、何故此処にいるのだろう。惰性だとしたら随分滑稽な話だった。
「ハンドクリーム面倒ならワセリンでもいいんじゃない?」
電車が到着して扉が開く。
「何もしないよりマシよ。少なくとも」
彼女はいつものようにヒールを軽く鳴らしながら電車へと乗り込んだ。新幹線や特急と違う、ただの在来線の銀色の扉はこちらの都合などお構い無しに閉まる。そして電車はそのまま動き出して、あっという間にホームから消えた。
「別れの挨拶がワセリンは、ちょっと酷いんじゃないかな」
思わず文句を口にして、そして今度こそ苦笑した。こうなったから私たちはダメになった。そうでも考えなければささくれの痛みに泣いてしまいそうだった。悲しいのではなく、ただ過ぎ去った日々が痛かった。
ワセリンを買おう。彼女にはもう見せられないかもしれないが。あれが彼女の最後の愛情だと、彼女なりの精一杯の別れの挨拶だと思いたかった。握っていた手を開いて顔の前に持っていく。雑に切られた爪の先や、放ったらかしの甘皮が滲んだ血よりも目立って見えた。
「これは酷いね」
どうにかしよう。この手を何とかしよう。それが終わった時には彼女のことも忘れられるかもしれない。私はそう信じて、反対側のホームに向かうために階段に足をかけた。
最後の睦言 淡島かりす @karisu_A
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