近代の渡世術 ④

常陸乃ひかる

必要性

 あっけらかん神族――ロス・ウースは近頃、人間の相談をうける仕事に就かされたり、休日だとうのにゴロツキに絡まれたりしながら、排他的はいたてき厭世的えんせいてきな性質を徐徐じょじょに改善しつつあった。

 それでも人間に対する畏怖だけは消えず、明治二十六年(1893年)、六月いっぱいで相談所の仕事を満了してからも、社交性が増すわけではなく、酒を飲み歩く生活を続けていた。


 そうこうしているうちに季節が一周した、明治二十七年(1894年)の六月某日。ロスは昼から酩酊めいていし、太陽が沈む前に住家すみか――アウト・キヤストへと足を向けていた。

 自信が過信に、経験が虚栄に変るのは人間のみならず――ロスは去年とは考えられないくらい善い気分で、農村近くの畦道を千鳥足で進んでいたのだ。

「ん……あぇれ……っ?」

 ――進んでいたはずだったのだが、ふと気がついた時には世界が転変し、家でもないのに体が横になり、着物の中に水が染みこんでいた。ロスは朦朧としながらも、『あゝ、ここで死ぬんだな』と、冷静に悟った。

 冷静ついでに、顔面から田んぼに突っこみ、人知れず泥まみれになっていることを自覚し、

『植えたばかりの苗を無駄にしてしまい、農家の方方かたがたには謝っても謝りきれない思いであり、こんな駄目神族は、酒を飲む資格なんて丸ッキリ有りませぬ』

 と、尚もぐるぐるする頭で、必死に弁解を見繕っていた。


 ――身に起きた出来事が夢か現かもわからぬまま眼を開けると、そこは見知らぬ仏間だった。また見知らぬ浴衣を着衣し、見知らぬ蒲団で寝ていた。幸い夜は更けていなかったが、窓の先はだいぶ橙色をしている。

「あれ……? わたし、田んぼにダイブして……」

 右、左と部屋の様子を確認してゆく中、「おや、眼がめたかい」と、大層心配そうに顔を覗きこんできたのは、三十に届きそうな女だった。

「大丈夫だったかねアンタ。小供こどもが、田んぼで女の人が倒れてるって云うもんだから、誰か死んでんじゃねえかと思ってビックリしたよ」

 現役の農婦だろう。頭に手拭てぬぐいを巻き、薄い半纏はんてんと、所所ところどころに継ぎをした麻のズボンを着衣している。ロスは「あっ……」と嘆息。たった一瞬でこの状況を理解し、同時に口から心臓が飛び出しそうになった。

「ご、ごめんなさい! 違うんです、その……っ、ダメにした苗は、ちゃんと弁償しますから! ら、乱暴しないでくださいぃ……!」

 心臓の代りに飛び出したのは、しどろもどろの謝罪と釈明だった。農婦は笑っていたが、人様に迷惑を掛けるなんてゴロツキと同じくらい迷惑な種族だ。

 その声に釣られるように、主人と思しき男。その後ろから息子に娘と、家族が仏間に集まってきて、物珍しそうにジロジロと見据えられた。今まで人間との交流は控えてきたのに、まさか自らかかわってしまうとは笑話わらいばなしにもしたくない。

「アンタぁ――確か、ブラインド様んとこの神じゃなかったけ? こないだ一緒に歩いてなすったろう? オラたち、ブラインド様には世話になってんだよ!」

 と農婦は、歯を見せながら豪快に笑いかけてきた。一方でロスは、アウト・キヤストの主神――ブラインドが、意外にも人間と付き合うくらい社交性に富んでいる現実に狼狽しつつ、同時に平常心を取り戻した。

「あなたたち、うちの主神とお知り合いなんですか?」

「オレたちだけじゃねえんです。こん農村の人人ひとびとは、みんなブラインド様には善くしてもらってんでさあ――」

「でも、ここんとこ御顔おかお見せてくんねえから、どうしてんだろうと思って」

 初め主人が、嬉嬉としてブラインドの話題を口にしていた。が、それを継ぐように農婦――細君が交流の減少を嘆き、寂しそうな語調で眉をしかめた。

「そういや最近、わたしも絡んでないな……普段なにしてんだろ。あっ、でも元気そうでしたよ? なので、ご心配なく」

 ロスがある程度の嘘と真、ついでに愛想笑いも交えて会話を整えると、農民の安堵が見て取れた。正直なところ、種族の地位ネームバリューだけで、ある程度は言いくるめられるが、変に正直な性格ゆえ、それを拒んでしまった。

 とかく話の区切りを見つけたロスは、この辺りで御礼を伝え、そそくさと退散してしまおうと思ったのだが、慣れない浴衣の肌触りで現状を思い出した。

 仏間から範囲を広げて、家を見回す――あぁ、あった。浅葱あさぎの布に白い睡蓮スイレンが描かれた着物、紺色の袴に、割と長く愛用している襦袢――すべてが竹竿にかけられ、外に干されているではないか。わざわざ洗ってくれたのだろうか? 心から申しわけない気持ちでいっぱいになり、変な汗を感じた。

「いやあ、アンタ細いねえ。ちゃんと食べてんのけ? だから倒れちゃうんだよ」

 と細君がまた豪快に笑う。

「あ、いえ……ホントのところ、さっきまで飲んでて」

 馬鹿正直に答えるロスも、また豪快な性格なのかもしれない。

「おっ、イケる口ですかい? これもなにかの縁でさあ――もうすぐ夕飯なんで、うちで食べてってくだせえ」

 と、猪口ちょこを傾ける仕種をする主人も、別の意味で豪快そうだった。

 あゝ、どんどん面倒なことになってゆく。一週間くらい食べなくても平気なのだが――人間の厚意を断るのは、食べないよりも体に悪そうだ。ロスは笑顔の裏に嘆息を交え、およばれを受入うけいれた。


「――例の相談所で働いてたんですかい? あそこは去年、ちょっとした話題になってましたぜ。ロス様は、すごい御方ですなあ!」

 自己紹介も程程ほどほどに居間へ案内され、酒が回り始めた主人がヨイショを始めた。

「たまたま、声が掛かっただけです。わたしは見てのとおり若さ、長命、頑丈しか取り柄がないです……」

 褒められるのは、貶されるよりも苦手だと俯向うつむく。それより、目線の先――気を抜くと、逆にやられかねない献立の多さに目を見張ってしまった。この働き盛りの夫婦と、食べ盛りの小供たちが一晩で消費する量は、ロスひとりが二週間は暮せる量と同等かもしれない。

 けれど、さすが農家と云うべきか。食卓に並んだ料理がすこぶる美味しかった。

 主食は麦の混ざっていない、真っ白なお米。副菜には、山菜の煮物。おかずは、名前は知らないが――白身魚の煮付。味噌汁にも、ここで採れた野菜がふんだんに使用され、塩味とのバランスが丁度善い。おまけに小休憩と食欲ブーストを同時に行う漬物が、座卓の隅にちょこんと添えられている。

 栄養もへったくれもないロスの日常からは、考えられないくらい贅沢な食事であり――ふと、食べなくても長生きする自分と、しっかり食べているのに寿命が短い人間とを考えた途端、どうしてか美味しい夕飯が喉を通らなくなった。


「あぁ、そういえば聞いた話なんだけんど――」

 と主人が細君のほうを向き、口を開いた。

「ここんとこ、一定の人間たちが神への不満をつもらせてんだとさ。神様相手に、戦争でもおっぱじめる気じゃねえべな」

逆上のぼせをめたらよござんしょ。上の人間は、善い生活してばっか。政治家だって『国』を思うばかりで、民意なんて端から聞きゃあしないんだから。い加減になすってほしいよ」

 そうして始まったのは、『國體こくたい』への不満だった。実体もわからぬまま、華族かぞく、文化人、政治家、起業家など、上流階級の人間たちにも矛先が向く。

 これはどの時代でもおこる、普遍的な光景なのだろう。

「うーん……こないだ帝国憲法が発布はっぷされたし、さすがに内戦はなくないですか? 諸外国にナメられてる場合じゃないこのご時世、国内の神なんぞよりも、今はしんのほうがよっぽどヤバイですし」

「けんど、戦争なんかしたら損を被るのは平民でさあ……!」

「それは同感です。『偉い人』の一言で、大量の自国民を殺すのはまるで違う気がします。なにより、それを美談にするのが一番キモイですけどね」

「ですが、兵士にとってはそれが本望なのではないでしょうか?」

「兵士が全員、国のために戦いたいなんて思っているとでも? 国のために死ねるとでも? 本当はみんな争いなんてせず、平和に生きたいに決まってるじゃないですか。人間は、たった数十年しか生きられないってのに」

 それが細民さいみん戯言ゴシップだとわかっていても、ロスは強めに反論していた。はあ、と一息。今、どの立場で、誰の味方をしているのか、わからなくなっていたのだ。

 通底つうていしていない者からは二言目に、『戦わないと平和は得られない』と反論されるに極まっている。それを理解した上での発言だとしても――

「では、どうすれば」

「結局、この時代において、自分に求められていることを――をするしかないんじゃないですかね?」

畢竟ひっきょう……オレたちは――」

「農家の方々は、ホント素晴らしいです。こんなに美味しい食物を育て、そして食事を作るんですから。わたしは、国の誇りだと思いますよ」

「ロス様……」

「まあ、わたしは酔っぱらって田んぼに突っこむ残念な神族ですけど」

 ロスが自信満満に自虐を口にし、同時に食事を黙黙と頬張るものだから、細君は吹き出してしまい、それに釣られて主人も笑っていた。

貴女あなたは、そのままで居てくだせえ。なんだかわからねえですが……オレは救われた気になりました。貴女と話してると、ここがスッキリした気になります」

 と、主人は胸を触り、その表情も溜飲が下がったように穏やかだった。ロスは歯痒い感謝に対し、柔らかい笑みだけ返した。

「でも神族に不満を持ってる奴らは、町にもいっぱい居ます。最近ではケンカもよくあるみてえです。ですから、貴女も気をつけてくだせえ」

「ご忠告感謝します」


 話が途切れると、斜向かいに座っていた小供――息子が箸を置いて、手をいじり出した。「食事中にどうした」といさめるような口調で主人。「ゆび、いたいの」と、座卓の上に手を持ってきて、それを見せる。

「なーんだ、ささくれか。そんなモン取っちまえ」

「やだ! いたいもん!」

 日常の風景。それを横目に、「言ってみりゃ、ささくれと同じか……」と、ロスが箸を止めて独り言を口にするものだから、余計に注目を集めてしまった。

「ロス様? なんです?」

「え? あぁ――ううん、なんでもない。それより椿油つばきあぶらとかないんですか? ちゃんと処置しないと、あとあと面倒なことになりますよ?」

「今ちょうど切らしてて」

「あぁ、確かわたし持ってたな。ちょっと失礼」

 一言。食卓を立ったロスは、仏間の衣紋掛えもんかけに掛け直された着物の袂を漁り、手に収まるほどのびんを取出すと、それを持って小供たちの横に座った。

「おや、自家製の椿油かい?」と、細君が感心するように頷いた。

「ダテに山で暮らしてませんから」と、ロスは苦笑いしながら頷いた。

 一拍、「ほい、手ぇ出して」と男児に向かって一言。小気味善い音とともにコルク栓を抜くと、素直に両手を差し出してくれた。その十にも届かない幼い手は、普段から農作業を手伝っているのを物語っていた。

 手の甲には手荒れが目立ち、完全に落としきれていない土が爪に挟まっている。また一部の皮は厚く、ロスよりもたくましく見えるほどだった。

 ロスに治癒能力なんてない。だからこそ、その手を見ていると少しでも緩和してあげたくなって、椿油をりこむように、それでも優しく両手を包みこんだ。

「おねえちゃんのて、きれいだね」

「引きこもりだからね」

 思わず笑ってしまったのは、黒と銀の混じった短髪ボブも、異人のような顔付かおつきも、老いない見た目も――小供からしてみれば、ただの『お姉ちゃん』に過ぎないのだと再認識できたから。ロスは満足そうに食卓に戻り、残った白米を平らげ、猪口も空にすると、「ご馳走様でした」と一言。

「ははは、ロス様は小食ですなあ」

 終始、和やかな食卓だった。

 ロスが『ささくれと同じ――』そのあとを躊躇ったのは、これ以上この家庭の食事風景をぶち壊したくなかったからだ。

 取っても取っても、すぐに現れる内憂外患。国際問題もしかり、人間と神族のいざこざもしかり。ささくれのように煩わしい。

 万物に云えることだが、『力』をどう使うかなんて、その生物次第である。もし、人間と神族のわだかまりが水面下で大きくなれば、泥仕合を模すような国内の汚穢おわいになるだろう。昨年、両者の軋轢を看破かんぱしていたブラインドのことばうかんでくる。

 ロスは最悪の事態を頭で巡らせ、決意を目に宿した。この家族は――いや、この農村で暮す人間には、なにも関係ない。もし人間と神族が剣戟を交えることになっても、照準越しに睨み合うことになってもまるで無関係なのだ。

 ――夕食後、泊っていかないかと誘われたが、ロスはそれを丁重に断った。かわりに何度も何度も謝意を伝え、着物をまとった。

 そうして帰り際、玄関でブーツに足を通した瞬間、何時間も前にやらかした失態を思い起こすのだった。

「ぎょえぇ……! 靴の中まで浸水してたのか……」

 アウト・キヤストまでの数十分。一歩踏み出すたび、足に不快な感触を覚え、ロスは泣きそうになりながら長屋へと戻っていった。当然、山道は闇に包まれていたので、わずかな記憶と、獣の道標みちしるべと、あとはほとんど勘で帰宅した。人間であれば、『朝までコース』だったのは云わずもがな――


 明治二十七年(1894年)。十月。

 人知れず、ロスと農民との不即不離ふそくふりが続いた。数ヶ月も顔をあわせていれば、もはや親戚のような感覚さえ持っていた。

 穏やかな日差しを浴び、頭上で高鳴きする百舌もずが一拍置いたところで、

「ここは平和なもんだね」

 横に顔を向けたロスは、あからさまな一息をつく。

「ロス様……。全体、この国はどうなってしまうんですかえ?」

「予知能力を持つ神が居たら聞いてみたいね。尤も、そんなのが居れば中央政府に捕まってるだろうけど」

 気の利いた答を出せず、嫣然えんぜんとしながら歯がゆさを覚えた。世情にくわしくない農民の心にも、わずかに不安が垣間見える。戦地はここではないものの、日本としんが争っているのは事実である。

 国内がざわついていて、気持が落ちこんでいたこともあり、町に出るのをやめていたロスだったが、それでも農村には顔を見せ、ちょくちょく農作業の手伝いをしていた。そのほうが町に出るより、よほど生を実感できたから。

 本日、農村の寄合所に設置された竹の腰掛こしかけに座り、その周りには数名の農民が集まっていた。藤色ふじいろの袴の上で両手をこすり、寒さが顔を覗かせる昨今に溜息をつく。淡い灰色グレーの着物には、季節に合わせたピンクの秋桜コスモスが何輪か咲いている。

「朝鮮半島で戦争がおこったのは本当なんですか?」

 農民の言葉に対し、ロスはひょいと顔を上げ、「誰かに聞いたの?」と簡潔に返し、三四人さんよにんの、農民の口を開くのを待つと、

「ええ、町でちらっと。なんでそんなことに……」

 至当な疑問が投じられた。

 ロスは認知している情報を与えようと、すっと息を吸った。

「昔から、しんとか露西亜ロシアとかが、この国を侵略しようとしてるの。そんな中、朝鮮あそこを清や露なんかに渡したらどうなる?」

「そ、それは……えぇと、外敵に狙われやすくなる、ですかえ?」

「狙われるで済めば良いんだけど。だから日本は、朝鮮を独立させたいの。なのに親分風を吹かせる弊害が居てね」

「ロス様……お、御顔おかおが怖いですぜ」

「簡単に言うと、朝鮮の東学党とうがくとうって人たちが、政府に対して内乱を起こしたの。で、清の軍がそれを止めに行ったんだけど、天津てんしん条約があるから、清もその旨を日本に通知したわけ。でも、こっちだって黙って見てるわけにもいかないから――」

「同じように軍を送った結果、こうして戦争に?」

「まあ、お互い『内乱を治めたあと、なにするかわからない』って思いだったのかもね。宣戦布告も、どっちが先だったかわからんし。開戦は八月の頭くらいに新聞に出てたけど、本当はもっと早かったんじゃないかな」

「ど、どっちが……勝つんですか!」

「それは知らん。けど、軍事力は圧倒的に向こうが上だよ」

「えぇ……?」

 日本が東アジアにおいて、主要な国際プレイヤーとしての地位を掴むためには、神族という存在も、概念さえも必要ないのかもしれない。国を大きくするには、まず国民を自立させることが最重要なのだから。そうなれば人間たちは自ずと邪険にするだろう、『神族』という存在を。

「もはや、いざこざは……『ささくれ』ってレベルじゃなくなってる」

 今、この国に足りないのは保湿でもビタミンでもない。

「必要なのは産業の革命、政治の近代化、人間の教育水準の大幅な向上か……」

 ぼそっとつぶやくロスは、農民をただ不安にさせるだけではなく、自分自身さえ不安にさせていった。精一杯の作り笑いも、農民を安心させるための言葉も忘れるほど顔色は悪くなってゆき、

「そっか……いよいよ要らなくなるのか、わたしたち……」

 ようやく実感した近代の流れに、焦りよりも絶望に等しい息苦しさを覚えた。

『落ちこぼれ』とは、自分に与えられた卑下だと思っていたのに――


                                   了

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