動機
野森ちえこ
できた夫
——ささくれが、痛かったんです。
彼女はそういった。
見ればたしかに彼女の手は全体的に荒れていて、右の人さし指と左のくすり指のささくれは炎症を起こしているのか赤みをおびている。
それが動機なのかと問えば、彼女は『よく、わかりません』と首を横にかたむけた。
——ただ、このままこの人といたら、このささくれは一生治らないんじゃないかって、なんか、そんな気がして。
そんなことで……と、思わず素でつぶやいてしまった。
——おかしいですよね。
考えられるとしたら、積み重なった不満が爆発したとかそんなところだろうか。
そう思ったのだが。
——夫はやさしい人でした。家事も積極的にやってくれましたし、休日には今日は家事も休みにしようと外食につれていってくれたりして。
周囲の人間から見ても夫婦仲はよさそうだったとのことだが、本人的にも不満はなかったということか。
……だったらなんで殺しちゃったの? という話なのだが。
——自分でも、わからないんです。あたしにはもったいないような人だったのに。
正直なところ最初は心神喪失を狙っているのかと疑っていたのだが、彼女はほんとうに途方に暮れているように見えた。
殺人の多くは衝動的なものだ。ミステリードラマに出てくるような綿密な計画殺人など現実にはそうそうない。
そして、たとえばこれが石などで頭を殴った結果の事件で彼女にも殺意がなかったとしたら、殺人ではなく傷害致死となるだろう。しかし包丁でめった刺しとあっては、本人がどう思っていようともその行動には殺意があふれている。
暴力をふるわれたわけでもないというから過剰防衛の線もない。
——ねえ、刑事さん。夫はほんとうに、明るくて、やさしくて、たよりになる人だったんですよ。
よくできた夫を殺した妻。その殺意も動機も行方不明のまま。
しばらくのあいだ、言葉を探すように両手の指先をにぎりしめていた彼女は
——ささくれが、痛かったんです。
そうくり返した。
(了)
動機 野森ちえこ @nono_chie
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