日月奇譚

柚木呂高

日月奇譚

 晴れた日は嫌いだとシギズムンドは言った。光が植物を照らし、青々と輝かせるのを見ると虫唾が走るのだそうだ。美しい金髪に中国陶器のように青白い滑らかな肌は瑞々しく、若さに漲っていた。琢磨は美しさも知性も兼ね備えたシギズムンドが晴れた日を嫌う気持ちがわからなかったが、理解を放棄することはしなかった。

 ある日の昼間にシギズムンドの家に行くと、彼は部屋の隅でカオマンガイを食べていた。

「血とかは摂取しなくて大丈夫なのかい?」

「あんな不味いもんよりカオマンガイの方がよっぽど美味い」

「にんにく、入ってるんじゃないの」

「炊くときにな、小さじ一杯くらいなら問題ない。健康に悪い飯のほうがなんだって美味いんだから」

 シギズムンド今年で四十歳だが、見た目は十九歳の頃から変わっていないらしい、だから二十四歳の琢磨もなんとなくだが親近感が湧いて敬語を忘れて話をする。シギズムンドもそれは嫌ではないらしく自然受け入れている様子。

 二人の関係は出会った七年前からずっと良好である。琢磨は兄の身分証で初めてのクラブに入った。それはOvalオヴァルがメインアクトであるオールナイトのクラブイベントで、アーティストがラップトップの再生ボタンを押してあとは本当に腕を組んでいるだけなのを見て、むしろ最後までパフォーマンスをしないで欲しい、そっちの方がずっとかっこいい、と思って琢磨が眺めていたところ、「無駄なプレイはするな、最後まで腕を組んでライブというものに問題提起をしろ」と呟いているシギズムンドの声が聞こえ、お互い目が合ったのがきっかけだ。SNSで知り合った女の子とイベントに来ていた琢磨は、その女の子が同郷の友人と名乗るイケメンに久しぶりなどと言ってホイホイ付いて行き、残された彼は孤独を余儀なくされていた為、新しい出会いは彼の心の痛みを緩和した。シギズムンドは「そんな女は最初からおまえなんぞには靡かなかった、クソを便所に流すように頭から消してしまうことだな」と一見冷たいが諦めのつくようアドバイスをした。琢磨にはそれが有り難かった。ポトリと落ちた女の子に接ぎ穂のようにシギズムンドが収まったようであった。

 場面は戻って昼間のカオマンガイである。蒸した鶏肉が肉汁を溢れさせ、生姜とオイスターソース、ナンプラーの効いたタレが米の上で輝いている。シギズムンドは左手で長い髪を耳に掛けて、右手にはスプーンでカオマンガイを薔薇色の唇に近づける。美青年の息を飲むような官能的な仕草に琢磨は我知れず見入っていた。その時である、にわかに琢磨の両目が光り、シギズムンドの頬の赤みへと照射された。

「あつい!」

 肉の焦げる臭いとともに彼は飛び退き、座っていた座布団を盾に琢磨の視線を遮った。びっくりしたのは琢磨も同じで、まさか自分の目がこのような面妖な光を照射するなど思ってもおらず、ましてやそれがシギズムンドへ害毒である陽光と同じ性質を持つものなど完全に心外であった。

「おまえ、なんだその目は、いつからそんなことになった、それは俺に毒らしい、すぐ視線を逸らしてくれ」

 視線を逸らせと言われればそうだと思って逸らすのだが、シギズムンドが何か行動したり発言したりしようものなら、関するところ如何にあらず、自然と視線がそちらに向いてしまうというのが生理的な運動で、そのたびにシギズムンドは「あつい!」などと叫んでその視線を遮るのであった。

「ともすればそれは稀なる眼病、陽光蓄射障かもしれない、陽の光を硝子体が吸収して、薄暗いところに居ると照射すると言う病だ」

「え、病気!? 治るのかな」

「症例が少なすぎて治療法が見つかっていないらしい。申し訳ないが俺と会うときは視線をこちらに向けないか、目隠しをしてもらえないか」

 琢磨は視線を隠すことに了承したものの、一抹の寂しさを感じた。シギズムンドの美貌は眼福だったし、何よりも仲の良い相手なのだから目を合わせて会話したいと思うものだ。しかし同時に相手にとって毒ならば仕方がないという気持ちも強くあった、大事だからこそ傷つけたくないというわけである。一応眼科に向かって治療法を伺うことにしたが、眼科は痛みが伴えば目薬を出すが、主な病状については陽光を照射する以外害はないため様子を見るとの診断である。

 それから二人が会うときは決まって琢磨は目隠しをした。玄関から居間までの間、手を引くシギズムンドの手のひらの冷たさが琢磨の熱い皮をジンと冷やした。とは言え共に過ごす時間はやはり楽しいものであった。会わない間にあった出来事や良かった映画や音楽の話、たまに一緒に映画を見たりゲームをしたり、酒を飲んだり食事をしたり。


 シギズムンドは二十一年前のことを思い出していた。ポーランドから日本に来たばかりのとき、パートタイマー・アルバイトに応募し採用され、屋敷でチェンバロを弾いていた頃。薄暗い屋敷の中で毎晩八時から十二時まで渡された楽譜を捲り、チェンバロを弾く。そして秋の満月の日、彼は主とその弟たちに血を吸われ、一度死に、そして吸血鬼として蘇った。ただそのまま弟として彼らとバロックな日々を生きるのは性に合わなったので逃げてきたのだ。彼らの生活は中世の貴族のような儀式感があった、シギズムンドはそういった煩わしくわざとらしい世界観を嫌った。吸血鬼であることを厭うたわけではない。ただ他人の血をすすることで自分の命を永らえ、もともと月を好む自分とは違い、太陽の元で生きる人達を月の世界の住人にすることが嫌なのだった。彼は高潔さ故に血を飲まず、弟を増やさず、今日まで生きてきた。

「知らない人を不幸にするのが嫌なら、僕の血を吸えばいいじゃない」

 そう琢磨が持ちかけてくることがあった。だが、シギズムンドにとって琢磨は太陽の子である。太陽の元で明るい笑顔を咲かせ、昼の世界でどんなことがあったか、どんな楽しみをしたか、それを聞くのが好きだった。

「吸血鬼は容姿が美しくなければ話にならない、美を餌に人々から血を吸うのだから、琢磨にはできんよ」

 シギズムンドは決まってそう答えた。

「そっかあ、まあ昼間外に出られなくなるのは寂しいから良いけどさ、にんにくを使った料理ばっかり食べてないで、健康には気を付けてよ」

 今回そう言った琢磨の瞳は目隠しで塞がれていて、シギズムンドは表情を読むことが出来なかった。

「吸血鬼に健康を説くとはなぁ」

「へへ、それは誰にでも大事でしょ」

 その表情は目が隠れていてもはっきりとわかった。屈託のない笑顔。太陽の子。


 それから一ヶ月が経った。シギズムンドは琢磨のくりっとした丸い目のことを思い浮かべていた。薄暗がりの中でもキラリと瞬く彼の瞳と彼の表情を思い出して寂しく感じている。最初の頃こそ不自由を感じていなかったが、二人で会うとき、なんだか物足りなく感じることが多くなってきた。彼は琢磨の目を見て話していないからだと察していた。琢磨というこの人懐こい生き物に情が芽生えたのはいつだったか、それが会うたびに膨らんでいって、今では彼が遊びに来ないとどうにも落ち着かず、独りで過ごす時間の長さにうんざりするようだった。

 外ではお囃子の音が聞こえる、今日は祭りの日だ。琢磨はきっと来ないだろうな。とシギズムンドは思った。ガールフレンドと一緒に花火を見に行くだろう、と。いや、彼にガールフレンドが居るかどうかなどシギズムンドは与り知らないが、琢磨が来ない日をガッカリせずに迎えるにはそういった言い訳が必要なのだ。彼は首を振り畳に正座するとラップトップを開いて仕事をした。きっと来ないだろうという気持ちと、今にも戸を叩く音が響くのではないか、という淡い期待を持ちながら、それらの感情に踊らされぬよう懸命にキーボードを叩いた。結局日が傾いても琢磨は来なかった。「やはりそうか」と呟くと、夜の時間を過ごす為に部屋着用の浴衣からヨウジヤマモトのゆったりとした洋装へ着替えた。そしてハットを被り、外に行こうとして玄関で靴を履いていると戸が鳴った。シギズムンドは思わず口角が上がるのを堪えて「誰だ」と言った。

「僕だよ、琢磨。花火を見に行こうよ」

 ガラリと横開きの扉が開き、琢磨が満面の笑顔で迎えた。シギズムンドはそれを見ていよいよ嬉しそうに笑ったが、それが自分でも意外で、気恥ずかしくなった。琢磨は目隠しをしていた為、シギズムンドはそれを見られずに済んでホッとした。

「良いだろう、たまにはこういうのも悪くない。祭りなんぞ人間のときにも殆ど行ったことがなかったからな」

 琢磨は行く気満々で浴衣を着ていた。シギズムンドは琢磨の手を引き、人々の賑わう方向へと街を歩いていく。琢磨はシギズムンドの手がいつもより温かいなと思った。夏の暑さのせいかも知れないし、そうでないかも知れない。楽しんでくれると良いけれどと、琢磨は思った。シギズムンドの家から商店街を抜けていき、河川敷に出ると人々がわっと現れ、様々な屋台が並んでいた。

「琢磨、屋台が沢山あるぞ、なにか食いたいものはあるか」

「んー、じゃがバター」

「よし、じゃあ探すか」

 などと言って、シギズムンドも心なしか浮足立った。だがそれもつかの間、じゃがバターを二人で食っていると、なんだか人の臭いが強く鼻を刺し、シギズムンドは急激に血を吸いたいという欲求を覚えた。それがどうにも抑え難く、口数が減る。すると様子の変化に敏い琢磨は、「どうかした?」と声をかける。

「なんでも、ない」

「声が随分苦しそうだよ、体調を崩した? 大丈夫じゃないでしょ」

 シギズムンドはどうにもこの衝動を抑えるのが難しいと感じ観念して、正直に答えた。

「人の多さに当てられて吸血欲が抑えられなくなっている、血が欲しくて狂いそうだ。すまないが人の少ないところに移動してもいいか」

「もちろんだよ、急ごう」

 そう言うと琢磨はシギズムンドをおぶって目隠しを取り、勢いよく走り出した。シギズムンドは驚いて転げ落ちそうだったが急いで琢磨の首に腕を回す。血が駆け巡る熱い体温が彼の冷たい両腕を温める。両目がライトのように人々を照らし、道を照らし、木々を川の水を照らした。光線がまるで踊るように様々な状況を照らすと、あとは真っ直ぐに前を向いて照射された。ああ、夜の中の太陽はなんて美しいのだろう、暗闇の中で白銀に輝く様々な物体はなんでこんなに美しいのだろう。だからシギズムンドは月が好きだ、夜の太陽に照らされて光った月が好きだ。人垣から飛び出て、まだ走る、人の臭いも声も届かない暗闇まで走る。そして大きく息を切らした琢磨は優しくシギズムンドを下ろす。

「大丈夫?」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃないよ、知ってるよ」

 琢磨は視線を横に川の方を向いていた。シギズムンドは未だに気分が落ち着かず、それどころか琢磨の人間の臭いに吸血欲を感じ自分を抑えるのに精一杯だった。

「昔、吸血鬼になったとき、主が血を吸わない吸血鬼は、いずれ気が狂って人々を襲うだけのケダモノになる、と警告した。俺はそれを知っていながら血を吸わずに生きてきた。彼らみたいに穢らわしい者に堕ちるのは嫌だったんだ。だから気が狂ったときは太陽を浴びて死のうと思っていた」

 シギズムンドはそう言うとやにわに琢磨の頭を掴むとしゃがませて、自分の方へ顔を向けさせた。琢磨は急いで視線を逸らそうとするが、眼球そのものが光を放っているため、目線を逸らしたところで意味はない。肉の焼ける臭いがあたりに立ち籠もった。

「ふざけるなよ! 僕の血を吸えよ! 僕は平気だ! キミと一緒なら、吸血鬼になったってやって行ける!」

「琢磨、俺を見てくれ。その目を見せてくれ。そうだ。ああ、そんな悲しそうな顔をするんじゃない、ちゃんと笑って見せてくれ。ここ一ヶ月間ずっと目を合わせなくて思ったんだ、ああ寂しいなと。それでわかったよ、俺はおまえが好きなんだ」

「そんなことを今言うのは卑怯だろう!」

 月と太陽のようであった。ただし月は太陽の光に耐えきれず、その身を焦がしていた、まるで恋するように。その時ドンと大きな爆発音が響き、シギズムンドの手が緩んで、二人は音の鳴る方を見た。そこには赤青黄色、様々な色の花火が大きく開花していた。時間が止まったようであった。サーチライトが花火を照らし、花火はシギズムンドの白い肌と金色の髪を赤青黄色に染め上げる。晴れた日は嫌いだとシギズムンドは思った。そうしたら花火なんかに気を取られず、ただ自分だけを見て貰えていたのに。琢磨はもうこちらを向かないだろう、太陽の光をまともに浴びたことによって腕に力が入らない、無理やりこちらを向かせることはできない。シギズムンドは泣いていた。そして意識を失った。


 次に目を覚ますと、シギズムンドは自分の部屋にいた。夢だったのだろうか。だとしたらきっと良い。

「気がついたのかい?」

 その声にハッとしてそちらを向くと、薄暗闇の中でシギズムンドを見ている琢磨がいた。その目から光は照射されておらず、丸い瞳がほっとした様子だった。「一体どうして」と言おうとして、琢磨の腕の包帯を見た。

「俺は吸ったのか? 琢磨を吸血鬼にしてしまったのか!?」

「違うよ、自分で切ったんだ、カッターナイフで。それで血を飲ませた。効果があって助かったよ。あ、目は今日外に出てないから光線が出てないだけ」

「俺は結局おまえにそんなことをさせて、穢させてしまった、そして俺も今度こそ穢れた者の一員になってしまった」

 琢磨はハアとため息を吐いた。

「穢れたとかなんとかってさ、高潔で良いけれど、それはキミがまだ十九歳のままの感性で居るからだよ。僕らはもう大人なんだ。だから、吸血しなくても生きる方法も、目を発光させずに生活する方法も、好きなだけ取ったら良い。汚い? 結構だよ。愛というものはいつだって相手の為に汚れることを厭わない感情だ。キミが穢れて僕が何処かに消えると思う? 残念でした、僕はキミのそばに居る。粋がるなよ、汚くても生きていける方法があれば僕らは一緒に居られるんだ」

 シギズムンドは嬉しかった。穢れを許された事によって吸血鬼としての自己を厭わずに済み、琢磨と目と目を合わせて話せたことが。琢磨は嬉しかった、自分がズルい大人になったからこそ大事な人を守れたのを。吸血鬼になるのは怖かった、だから腕を切った。そんな自分だけ安全圏にいるようなズルい理由が、まかり通ってしまったことを。二人は嬉しかった。ただ当たり前のように一緒に居た日々が、これからは共犯者の日々に変わることが。

「……好きにするといい」

琢磨はそっとシギズムンドの顔に近づいた。端から見たそれはさながら日食のようであった。

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日月奇譚 柚木呂高 @yuzukiroko

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